未来ではなく、ただの明日

 声が震える。名前を呼びたいのに上手く声を出すことが出来なくて、水を失ってしまった魚のようにぱくぱくと口を動かすだけ。目の前にいる、ずっとずっと会いたかったあの人は、そんな私を見て少しだけ笑ったあとに開いた口を塞ぐように唇を重ね合わせた。

「んぅ、はっ、ぁ」

「なまえ」

 小さい時は殆ど呼んでくれることが無かった名前。覚えていてくれていたんだと、再び涙が零れ落ちる。幸せな夢の続きと言われた方がまだ信じられたかもしれない。まさか、だって、もう二度と会えないと思っていたから。

「ジ、ル……」

「泣きすぎだろう……」

 貴方にまだあの花束を渡せていない。もう二度と渡せないと思っていたのだ。ピンクや白、黄色に青、紫で出来た、庭で摘んだだけの小さな花束。

「これ……ほんとうに、現実?」

「ったく、全然頭の回転の悪さは変わってないんだな」

「だって、もう二度と……っ」

「わーったから。……夢じゃねえよ」

「本当に?」

「オレの言葉が信じらんねぇの?」

 あの時よりも伸びたさらさらの髪が頬にかかる。それほどまでに二人の距離は近かった。声も、昔よりもずっと低くて、匂いだってぐらりと目眩がしてしまいそうなほど艶っぽくて刺激的な香りがする。こんなジル、私は知らない。しかし、見慣れたティアラと横暴な態度、けれど少しだけ私にだけ優しいその空気感は知っていた。
 あの頃よりも皮膚が厚く、固くなった指先が私の頬を撫でる。キャパシティを遥かに超えた情報量と感情は、既に私の中を暴れ回っており制御出来ずにいた。再びゆるゆると瞳を覆うように熱い水が膜を張る。瞬きをしてしまえば必ず零れ落ちるだろう。分かっていたけれど、私は一度瞬きをしてから彼と視線を合わせた。

「ううん、信じる」

「最初からそうしとけばいいんだよ」

 零れた雫を拭いとるようにジルの舌が頬を這った。触れる度、彼の体温に安堵する。胸に手を置けば、とくとくと心臓はしっかりと動いており、肌はほんのり温かい。本当に生きているんだ。二度と会えないと思っていたジルと、再び会うことが出来たのだ。

「ジル」

「……なに」

「わたし、ジルのこと、好きだったみたい」

「だった?」

「ううん、好き」

「今更だな」

「やっぱり気付いていたの?」

「オレを誰だと思ってんだ」

 ああ、やっぱり、彼は彼のままだった。不敵さを含みながら口角を上げたその表情を見て、やっと私も笑い返すことが出来た気がするが「変な顔」と言われてしまったので、やはりまだ理解が追いついていないのかも。
 ジルは?と、聞きたかったけれど、わざわざ私に会いに来てくれたということはきっとそういうことなんだろうと信じたい。また、おめでたい奴だな、なんて言われてしまうかもしれないけれど、好きでもない人にキスなんて貴方はしないでしょう?

「ジル」

 確かめるようにキスを強請れば、少しだけ強引に唇を奪われる。言葉は優しくないけれど、やっぱりジルは私に優しい。勘違いなんかじゃないと、そう教えてくれるように何度も啄むようにキスをされ、思わず唇を開けばぬるりと彼の舌が入り込む。絡め取られたキスに上手く空気を吸い込むことが出来なくて、まるで溺れてしまうように意識がぼんやりとしていく。苦しさは無い。代わりに極上とも言える甘さが体中を支配していった。
 じわりと、再び薄膜が瞳を覆った。好きという感情が溢れ出してとどまるところを知らない。永遠じゃなくてもいい。けれど、まだもう暫くは隣にいて欲しい。私はもうたくさんの月日のなか貴方を想い、ずっとずっと会いたいと思っていたのだから。

「ん、はぁ……はぁ」

「なまえ」

「明日……」

「ん?」

「明日、お花持ってくるから」

 少々面食らったようにジルは私のことを無言で見つめ返した。けれどまた少しして、今度は小さく鼻で笑い「またあの庭のやつか?」と呟いた。馬鹿にしたような言い方であったが、その表情はどこまでも優しい。
 カチ、と時計の短針が動く音がした。ちらりと見遣れば短針は一番上を指している。私は彼の手を取って「ううん」と短く返した。

「もうあの庭は無いから……でも、あの日渡せなかったあれを渡したいの……。お願いジル、もう少しだけそばにいて」

「お前……」

「ずっとここにはいないんでしょう?」

 ジルは何も言わなかった。きっと、そういうことだ。私には言えない何かがあるのだ。連れて行って欲しいだなんて思っても言えない。けれど、明日、いやもう今日だが、どうしてもまだ一緒にいたかった。

「好き、好きよ、ジル。生まれてきてくれて本当にありがとう。ずっと一緒にいられなくても、私はずっとジルのことを思って生きていく。今までも、これからも」

「……たまには会いに来てやるよ」

「本当?」

「疑うのか?」

「ううん、ごめん。疑ってないよ」

 ジルはそっと口付けをした。どこまでも、どこまでも優しいキス。眠ってから目覚めて、あの花束を渡せばやっと私は過去から一歩進むことが出来る。今日という一年で一番大切な日に私の想いを込めて渡すのだ。

「お誕生日おめでとう、ジル」


- ナノ -