残り香に絶望した夜

 イタリア主力戦。フランとベルより先回りして南側へと向かった私の前に、その人は突然現れた。

「やーーっとまともな奴が出てきたな」

 人が椅子に座ったまま空中に浮かび上がっている光景はどこか不思議な感覚であった。突然現れたその人は、紫色のベルベット生地が張られた安楽椅子にどっかりと座り、足を組んだまま私のことを見下ろしている。
 薄暗い夜空。雲が疎らに浮かぶその中で、月と同じ色をした髪がさらりと揺れる。瞳は見えない。暗いからでは無く、単純に前髪が長いため見えないのだ。そして一番目立つのは、何十回、いや何百回と見慣れたあのティアラ。いやまさかそんな。色んな思考が駆け巡ったが、見慣れたティアラを着けている彼とはついさっき後方で追い抜かしたばかりである。では目の前の人は一体。

「おい、聞いてんのか?」

「っ!」

「私がやりましょう」

「いや待て、オルゲルト」

 考え事をしている間に、ぐんっと彼等との距離が縮まってしまう。普段ならこんなに易々と間合いに入ることを許す筈もないが、目の前に現れたこの人の異様さに少なからず私は動揺していた。見慣れたティアラを着けた人の隣にいた、オルゲルトと呼ばれた黒い男が匣兵器を取り出すまでは。
 しかし冷静になれと気付いた時には一歩遅かった。黒い男を制止させたその人は更に私との間合いを詰めて、手が届きそうなほどの距離まで近付いた。見れば見るほど彼に似ている。特徴的な笑い方に、人を圧倒させるような気高さ、それでいて真逆とも言えるほどの欲望を兼ね備えていてどこか危うい空気を纏っている人。私はこの人を知っているような気がした。

「なまえ!!」

 私のよく知る人物の声が響き渡った。ハッとして離れようとするが、目の前の人は下がろうとした私の腕を掴む。心臓が大きく跳ねたような気がした。いや、驚いただけだ。咄嗟に逃げようと力を込めるが、まるでびくともしない。華奢そうに見えたが、やはり男女の力の差は大きい。私は小さく舌打ちをしてから目の前の人を睨んだ。

「随分慌ててんじゃねーか」

「っ……ジル……?」

 ──ジル。背後でベルが小さくそう呟いたのが聞こえた。聞こえてしまった。そうか、やはりそうなのか。彼からは小さい時に倒したと聞いていたが、まさか幻覚なのだろうか。

「あいつ幻覚かなんかじゃないですかー?」

「それを見極めんのがおめーの仕事だろ」

「あ……。うーん……多分その手の小細工はしてないと思いますねー、勘ですけど」

 フランがそう言うのならこの人は幻覚では無いのだろう。力を込めながらも私は再び目の前の人、ベルの双子の兄──ジルを見た。
 ベルよりもどこか荒々しさを感じる。そして彼のような飄々とした雰囲気はそこまで無く、しっかりとした意志の強さも感じた。瞳は見ることが出来ないが、きっと私のことを鋭く睨んでいるのだろう。見えぬ視線が何となく肌に刺さるような気がした。

「お前もしかして、こいつのこと気に入ってんのか?」

 口角を上げながらジルが挑発するように呟いた。ベルの表情は見えないが、ボウッと炎が燃え上がるような音が聞こえる。リングに炎を灯したのだろうか。
 すると尚更ジルが楽しそうに表情を歪め、目が合ったような気がした瞬間、ぐっと腕を引かれた。「なまえ!」と強く私を呼ぶ声がする。さっさと逃げるべきなのに体は思うように動かず、視線をジルから逸らすことも出来ない。
 黒く塗られた爪、ベルと同じように細くて長い指が私の顎を掴む。互いの呼吸が分かってしまうほどに近付けば、ベルよりも鋭くて野心を宿した瞳と視線が絡んだ。ひゅっ、と思わず息を飲む。じわりと汗が背中を伝っていくような気がした。冷や汗なのかは分からない。けれど、心臓を握られたように自分の意志とは関係なく息が詰まり、頭から爪先まで動かすことも出来なかった。
 再びベルの声が木霊する。すぐ目の前にいるジルが小さく笑うと、突然掴んでいた手を離し、下へ下へと私だけ落ちていった。重力に従って落ちている筈なのに、やけにゆっくりと感じられた。しかしその間も指先一本すら動かすことが出来ない。流石にまずいかも、と危機感を感じたところで、覚えのある微かに甘い香水の匂いがふわりと香った。

「っぶな」

「……ベル」

「ベル先輩行きますよー」

「待ってねーでさっさとやれよ」

 オルゲルトと呼ばれた黒い男も、ジルも、フランも、皆が匣兵器を掲げていた。ベルに抱き止められたまま、思わずぎゅうっと彼の服を掴む。まともに動けなかった悔しさ、惨めさが後から追うように私を責める。しかしそれだけでは無いことを私は薄らと気付いてしまった。こんな状況であるのにと、かぶりを振って誤魔化したい衝動に駆られる。ゆっくりと地面へと降ろしたベルに頭をこつんと指の背で叩かれ、「行くぞ」と声を掛けられても上手く返事をすることが出来なかった。
 チリチリと、心臓の奥で小さな火花が散るように感情がせめぎ合う。ベルよりも少しだけ刺激的な香りに惑わされ、落ちては行けないところに落ちてしまったことに私は気付いてしまったのだ。


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