誓いの言葉

 とある日を境に、悟の雰囲気が変わった。傑が高専を抜けて、しばらく経った頃のことだった。
 それまでの荒っぽい部分は薄れ、まあるく穏やかなものになった。七海くんほど丁寧で礼儀正しいというわけではないけれど、今までだったら後回しにしていた報告書もなるべく早く提出するようになったし、突然任務が舞い込んできたときの文句も少しだけ減った。別人、というほどではないが、その小さな変化はタイミングもあって大きな違いに見えたのだ。
 なかでも一番わかりやすかった変化は、一人称が俺から僕になったことだろうか。初めて聞いたときはわたしも硝子もひどく驚いたけれど、追及はしなかった。訳を聞く意味も、止める理由もなかったからだ。ただほんの少し、前よりももっと彼のことが遠くなったような気がした。以前より姿勢が正しいように見えたのも原因のひとつかもしれない。わたしには見えない未来が、あの透き通った青の瞳には見えているような気がしたのだ。

 それは意図せず知り得たことだった。珍しく三人で教室に集まったとき、進路の話題に移ったときのこと。硝子が医師免許を取得するために大学へ進むと零すと、悟もまたぽろりと卒業後の進路について語った。

「……悟、教員になるの?」

 わたしは虚をつかれたように硬直し、間抜け面を彼に晒した。今まで一度も聞いたことがなかったし、想像もしていなかったからだ。悟はなんてことないように「うん」とだけ答えると、背もたれに体を預け、宙を見つめながら、「やりたいこと出来たから」と言った。サングラスの隙間から見えた瞳は、やはりわたしとは違うなにかが見えているような気がした。

「そっ……か」
「お前は? 高専卒業して、どうすんの?」

 うんと……、と少しの間を開けて、言い淀む。やりたいことが出来たと言った悟のあとに、特に決めていないと答えるのは、ひどく恥ずかしくて情けなかったからだ。傑が高専を抜けたあの日から、いいやもっとむかしから、わたしは大きな夢も目標もなんにもなくて、ただただみんなに置いていかれないように必死に後ろを着いていくだけだったから。悟も傑も硝子も、みんな強くて才能に溢れていた。わたしひとりだけが普通で、平凡で、弱かった。死にかけたこともたくさんあった。そのせいで目の前の男には、呪術師を辞めろと何度も言われたけれど。

「このまま、続けると思う。フリーになるつもりもないかな」
「……そう」

 止めないんだ、と思った。以前だったら、向いてないから辞めろと必ず言っただろうに。わたしはちくんと胸が痛くなって、「うん」とだけ返した。天邪鬼にもほどがある。それでも、俯くことをやめることが出来なかった。


* * *


「五条なりに気を遣ってるつもりなんじゃない?」

 三人での貴重な時間もすぐに幕を閉じて、突然舞い込んだ任務に悟が教室を抜けると、硝子がその背中を眺めながらそう言った。言及するなんて珍しいなと思いつつ、わたしは硝子に向き直った。

「ただ単にどうでもよくなっちゃったのかも」

 傑がいなくなってから、悟は以前よりもっと忙しい身となった。今まで請け負っていたものに加え、傑に割り振られていた分の任務まで彼にのしかかっているからだ。特級という数少ない等級者にしか見えぬ景色や問題ものだってたくさんあるだろう。単純に、わたしに構っている暇などないのだ。けれども硝子はわたしの言葉を否定して、これでもかというほど顔を歪ませた。

「ないない。それは絶対ない。よく見てみろよ、あんな……」
「あんな……?」
「いいや、そこまで私が気遣う必要もなかったわ」
「うん?」
「なんでもない。まあでもアイツのことなんか気にせず、好きな道を選んだらいいと思うよ。私だってそのまま戻ってこない可能性だってあるし」
「そうなの?」
「可能性の話だって」

 全くお前は寂しがり屋だね、と硝子が笑う。寂しがり屋というわけではなく、三人だからこんなにも不安になるのだと、どうしたら伝わるだろうか。いいやきっと硝子には全て伝わっていて、その上で自分の好きな道を行けと言っているのだ。誰よりも強いから。わたしはそんな彼女のことを心から好きだった。


* * *


 夏も終わりかけの任務で、わたしは失敗をして大きな怪我をした。今まで何度も怪我をしたことはあったけれど、これが一番ひどかった。即死は免れたものの、意識は既に朦朧としていて痛みもそれほど感じない。死んでしまうのかもしれないと、曖昧にそう思った。
 帳越しに見えた太陽を眺めて、同期のことを考えた。硝子は怒るだろうか。悟は怒るだろうか。傑は、……ああもう傑は高専にはいないのだった。悟も硝子も全然泣かないから、わたしも意地になって我慢していたけれど、こんな状態だからか今だけは堪えられそうになかった。寂しい。寂しい。寂しくて、涙が溢れてしまいそうなほどには。瞼を閉じると、走馬灯のように四人で過ごした日々が流れるように映った。

 目が覚めたとき、すぐに高専の医務室だと理解した。常連と言われるほどここにはお世話になっていて、もう何度もこの景色を見たことがあったからだ。明かりひとつ付いていない静寂な室内に、窓から線のように月の光が差し込んでいる。どうやら死は免れたらしい。息をすると、勝手に涙が溢れた。喉の奥もきゅうっと狭くなって、苦しい。わたしはようやく死への恐怖に襲われた。
 全身から痛みを訴える場所はひとつもない。わたしは傷を確かめるようにそっと、呪霊によって貫かれた心臓のすぐ隣、右胸に触れようとした。けれども持ち上げようとした右腕は思うように動かず、石のように固まったままの体にわたしは困惑した。後遺症だろうか。実際それほどまでに大きな怪我であったから、ないとは言いきれない。わたしはすうっと心が冷えていくような心地に襲われて、またもや泣きそうになった。今度は違う意味のだ。しかし零れる前に突然右腕がなにかに力強く締め付けられて、それはすぐに引っ込んでしまった。息をのんで視線を下ろす。するとそこに見えたのは、月光に反射して輝く青いまなこだった。

「さ、とる……」
「っお、まえ! だから気を付けろって言っただろ!」

 どうやら右腕は彼に掴まれていたせいで動かなかったらしい。悟は意識を取り戻したわたしに気付くと、怒鳴り散らすように大声を上げてわたしを見下ろした。その瞳は悲しみに染まっていて、堪えるように眉を寄せると、彼はそのままずるずると崩れるようにわたしの上に落ちてくる。悟ほど大きな体がのしかかればそれなりに重いし身動きひとつ取れないけれど、退けようとは思わなかった。こんなにも焦った様子で怒ってくれる彼に、わたしは場違いにも安心してしまったからだ。
 悟がわたしに聞こえぬほどの小さな声で、ぶつぶつとなにかを呟く。ふざけるなとか、むかつくなどと微かに聞こえたので、文句には違いなさそうだ。するとその文句の最後にぽつりと、誰に向けるわけでもなく、零れ落ちたようにこんな言葉が耳に届いた。

「お前までいなくなったら、俺は……」

 悟と出会ってから三年以上になるが、こんなにも弱気な声を聞いたのはこれが初めてのことだった。悲痛そうな声を漏らし、まるで祈るようにわたしの胸に額を宛てがう。心臓の音を確かめているようにも見えた。わたしは思わず辛うじて動かすことの出来た左手をずらし、胸にうずめられたその白い頭の上にそっと手のひらを置いた。すると彼は決して逃さぬようにと、力強くわたしを抱きしめる。まるで大きな子供のようにしがみつくその姿に、わたしはあんなにも遠く見えた悟が一瞬にして近く見えた。ああ彼も、ひとりの人間なのだと。そんな当たり前のことを思った。

「悟」

 ぴくりと体を揺らしただけで、彼はなにも言わなかった。一体いつからここにいたのだろう。制服姿のままだから、もしかすれば任務帰りにそのまま来たのかもしれない。そう思うと、今まで感じたことのない擽ったい感情が胸いっぱいに広がった。ほんの少しの涙と後悔を伴わせて。

「わたし、高専を卒業したら補助監督になる」

 補助監督になったからと言って、死なないわけではない。それでも呪術師よりかは遥かにその確率は下がるだろう。わたしが生きていることで、悟の心が救われるなら。

「二人と離れるのが寂しいから、もう一般人には戻れないけど、補助監督になって悟や他の呪術師を支えられるように頑張るよ。……頑張って、生きるから」

 光源は月明かりのみのはずなのに、白いシーツと白い髪のお陰でカーテンで仕切られた小さな空間はさやけさを携えて眩く見えた。どこか神々しくも感じるそれに、わたしは誓うようにゆっくりと、なるべく丁寧に言葉を紡ぐ。

「だから悟、わたしを守って」

 そっと姿を現した青い瞳は先ほど見えた不安は消え失せ、凛とした涼やかなものだった。まっすぐとわたしを射抜き、まばたきをひとつする。そうして悟もまた誓いを立てるように「うん」と小さく頷くと、わたしにそっとくちづけた。

「なにがあっても、絶対、」

 吐息が混ざり合うほどの距離で囁かれたその先の誓いは、わたしと彼だけが知っている。


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