春隣


──二月二日、午後二十一時

 夜なのに眩しく見えるのは、降り積もる雪と雲ひとつない空に大きな月が浮かんでいるからだろう。五日ほどの出張任務からようやく戻った高専は、出発前とは違いあたり一面銀世界が広がっている。ついしばらく前まで降り続いていたのか寮までの道のりに足跡はひとつもなく、踏みしめるたびにふわふわとさくさくの中間のやわらかくて不思議な感触が伝わった。
 スーツケースにしなくてよかったと夏油は思った。雪が降ると思っていなかったから防寒具も持たず、ホテルには大抵のアメニティが揃っているのでわざわざ持っていく必要もない。制服の下に着るシャツと下着、必要最低限のものを大きめのボストンバッグに詰め込んで今回の任務に向かったのだが、それはどうやら正解だったらしい。スーツケースにしたところでこの真っ白な雪の上ではただの四角い箱となるだけである。大きな門をくぐったところで、夏油はボストンバッグは肩にかけ直し、悴みはじめた指先をゆるく擦り合わせた。
 すると校舎と寮の明かりがわずかに見え始めたころ、前方から誰かがこちらに向かってくるのがわかった。小柄で、流れる風に靡く髪の。夏油はすぐにその人物に察しがついて、雪をかき分けるように大股でそちらへ向かった。

「なまえ」
「本当は入口まで行って驚かそうと思ってたのに、バレちゃいましたね」
「寒いんだから、わざわざこっちまで来る必要ない」

 黒いダウンジャケットを羽織った女性──なまえは困ったように眉を下げながら夏油を見やった。やけに帰着時間を聞かれるなと思っていたので、一度部屋に戻ってシャワーを済ませてから彼女の部屋へ向かおうと思っていたけれど、まさか迎えに来るとは思っておらず、夏油の口から出たのはわずかに棘のある口調となった。もちろんそれは心配から来るもので、来てくれたことに関して言えばむしろ胸の奥が甘く締めつけられるような心地だった。なかなか休日が合わず、彼女とこうしてまともに会話をしたのも久しぶりのことだったからだ。
 しかしなまえは夏油のそんな物言いをさして気にする様子もなく、小さく微笑んでから「寒いからですよ」と夏油の手を取った。悴んだ指先からじんわりと氷が溶けていくようなあたたかなぬくもりに包まれる。

「行く前は降ってなかったから、マフラーとか手袋とか、なにも持っていかなかっただろうなと思って」

 確かにここのところ穏やかな天気が続いていたから、なまえの言う通りそのふたつを含めた防寒具を一切持っていかなかった。おかげでさらけ出された耳は取れそうなほどつめたくなっているし、コートを一番上まで閉めあげても首元が冷える。彼女は夏油とは繋がっていない手にかけられていたマフラーを少しだけ持ち上げると、「少しだけ屈んでください」と言って、夏油の首に耳が隠れるほどぐるぐるとマフラーを巻いた。

「少しはマシですかね」
「……あったかい」
「ふふ、よかったです」

 鼻先を掠めるマフラーから、よく知ったなまえの匂いがする。まともな会話をしたのが約一ヶ月ぶり。キスやハグ、恋人らしいことはそれより更に半月ほど前になる。およそ一ヶ月半ぶりに感じる彼女のぬくもりや匂い、存在は、夏油の冷えきった体と心を癒すようだった。すん、とバレぬ程度に香りを吸って、息を吐き出す。夏油は途端に彼女を抱きしめたくなった。

「おかえりなさい」

 なった、ではなく気がついたら夏油はなまえを抱きしめていた。自分よりもはるかに小さいその体を包み込むように腕を伸ばして。彼女は少し驚いたように言葉を詰まらせたけれど、すぐに笑って応えるように夏油の背に腕を回した。

「そんなに寒かったですか?」
「うん、寒かった」
「じゃあ、早く帰ってあたたまらないといけないですね」
「……なまえ」
「はい」
「ただいま」

 白い吐息とともに宙へ浮かんだ言葉たちがほどけるように溶けてゆく。なまえは夏油の背を二度ほどぽんぽんと叩いて、そのまま手を引いて寮へと向かっていった。


* * *


 寮の廊下に暖房機器は備え付けられていないので決してあたたかいわけではないけれど、つめたい風から逃れたことと各自室の扉からわずかに漏れるぬるい空気のお陰で外よりははるかに過ごしやすかった。本日はもう遅いため報告書は明日でいいと夜蛾から既に連絡は受けていて、明日は休暇。このまま自室に戻って荷物さえ置けば、あともう自由な時間だ。
 ここへ着くまでのやりとりのなかで、なまえも明日が休暇だということは把握している。言葉にはせずとも、会いたかったのだろう。わざわざこんな雪のなかまで迎えにきて、今も、わずかであるがそわそわとどこかいつもより落ち着きがないようにも見える。それはもちろん夏油だってそうなのだが。
 夏油は任務に出る前の部屋の状態を思い返した。数日空けるから服や出しっぱなしにしていた本などは全部片付けたし、ベッドの上も問題ない。なまえに見られちゃまずいもの……も、ない。荷解きも明日やればいい。

「シャワー浴びてくるから私の部屋で待ってて」

 隣を歩くなまえがほんの少しだけ肩を揺らす。そうしてそっと、夏油を見上げてから小さく頷いた。


* * *


「ごめん、お待たせ」

 夏油が戻ってきたころには既に暖房が効き始めていて、部屋のなかはあたたかかった。なまえはベッドを背もたれにして、小さなローテーブルの前にちょこんと座っている。ソファを置くスペースはないのでベッドで寛いでいいと何度も言っているのだが、彼女はその場所を定位置としたようにいつも同じ場所にいた。
 夏油は冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出して彼女の方へ向かうと、ベッドに腰掛けながらキャップを開けて数口飲んだ。そして息を吐き出しながら目の前にあるローテーブルにそれを置いて、屈んだ状態のままなまえにするりと後ろから抱きつく。

「こっち来て」

 くるりと背後を振り返ったなまえの頬は少し前に見たときよりも赤くなっていた。初心な反応に夏油は一瞬口角が緩んで、立ち上がりかけた彼女を抱いて膝の上に乗せる。流れるように彼女の腕が夏油の首に回った。
 ハグをするとβエンドルフィンとオキシトシンという二種類のホルモンが分泌され、ストレス解消やリラックス効果があるというのは有名な話だ。現に今こうしてしばらくぶりになまえを抱きしめて夏油は安心感を得ていた。そのうち互いの心音が重なっていくような心地がして、この時間が終わらないで欲しいとも思った。
 しかしそれだけで終わらないのは思春期男子の性だろうか。どんなに疲れていても、たとえ眠気が襲ってこようとも、好きなぬくもりと匂いに包まれれば当然キスをしたくなるし、それ以上のこともしたくなる。夏油はなまえに擦り寄ったあと、鼻先で頬を掠め、彼女の唇にそっと口づけた。甘さを含んだ声が彼女の鼻から抜けていく。角度を変えながら食むように重ねると、彼女の瞳はゆるゆると水の膜を張りながら艶めいていくので、夏油は腰を抱いたまま後ろへと倒れ、耳元に唇を寄せた。

「……いい?」

 小さく息を吐いて昂りを抑えようと試みる。しかしぺたりと胸の上にもたれかかったなまえが夏油を見上げながらかすかに頷いたので、あっさりとその試みは失敗に終わってしまった。


* * *


 目が覚めたときには空は薄らと白みはじめていて、部屋のなかもわずかに明るかった。簡単に体を清めたあと、どうやら疲れ果てて互いに眠ったらしい。夏油はここしばらくのなかで一番すっきりと目覚められたような気がした。胸のあたりにぴたりとくっついて眠るなまえに視線を向けて、顔にかかった髪をそっと払う。するとぴくりと瞼を震わせたあと、ゆっくりと彼女の目が開かれた。

「まだ寝てていいよ」
「……ん、」

 なまえは寝惚けまなこで夏油を見上げたあと、手にすり寄るように頭を傾けた。しかししばらくするとハッとしたようにまばたきを繰り返し、今度は眉を下げて今にも泣きそうな顔をした。

「どうしたの……?」
「……時間ぴったりに言おうと思ってたのに……」
「……なんの話?」
「誕生日……傑先輩の」

 え。と、夏油は目を瞬かせてなまえをしばらく見つめたあと、手探りで携帯を取り画面を見た。そこには確かに二月三日と表示されていて、メールも二件。両親からだった。内容はどちらとも夏油の誕生日を祝福するもので、母からは私生活は大丈夫なのかとか、風邪は引いていないかとか、夏油を案じるような内容も綴られていた。
 任務に追われる日々ですっかり誕生日のことなど忘れていた夏油は、どこか擽ったい気持ちになった。なまえはきっと、このためにどうしても昨日会いたかったのだ。そわそわといつもより落ち着かない様子も、そういうことだったのかもしれない。彼女はいつから今日のことを考えていたのだろうか。感情だけはどんどんと膨らんでいくのに、夏油の表情は驚いたままぴくりとも動かないせいでなまえの顔には緊張が浮かび上がっていった。
 すり、と夏油は足をなまえの足に絡め、力強く抱き寄せた。広がったやわらかい髪に鼻を埋めて、そのまま耳元に顔を近づけて、「嬉しいよ」とささやく。

「……お誕生日おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「一番に、言いたくて」
「ごめん、昨日あんなにしちゃったから」
「う……思い出しちゃうから、やめてください」

 俯きながらぼそぼそとなまえが呟く。顔が見たくて頬に手を添えてみるが抵抗はしなかった。赤くなりながら、どこか睨みつけるように夏油を見上げる視線に思わず笑いが零れる。これでは逆効果だと、教えてあげるつもりもないけれど。

「プレゼントも、あります」
「そうなの?」
「わたしの部屋に……あとで取ってきますね」

 腕のなかにすっぽりと収まるなまえの額に口づける。すると彼女は擽ったいそうに目を閉じて、けれど嬉しそうに身を寄せた。だんだんとカーテンの隙間から見える景色が明るくなってゆく。降り積もった雪のせいで、それは一等眩しく見えた。

「どこか行きたいところありますか?」

 穏やかな声と心地よい体温に誘われたのは、再びの眠気と空腹だった。昨晩性欲が満たされたからか今度は食欲がわいてきたらしい。近ごろは大して食欲もなく軽く済ませることがほとんどだったから、きちんと食事をした日はもういつだったか覚えていない。しかし一度自覚してしまえばあっという間で、途端にお腹の奥が空腹を訴えるように締めつけられた。

「その前にご飯食べたい……なまえが作ったやつ」
「お店じゃなくていいんですか? 簡単なものしかできないですけど……」
「いい、なまえが作ったやつがいい」

 夏油の口調は次第にゆっくりになっていった。食欲と睡眠欲、両方に襲われながら心地よい微睡みのなかに落ちてゆく。髪を撫でながら、なまえが笑ったような気がした。そうして頬に手を添えられて、口づけられたような気もした。それはまるで、あたたかな春のようだった。



2022年2月3日 夏油傑生誕祝い
心も花も番外編


list


- ナノ -