ひとときの幻影


 雨上がりの午前、夏油はいつものように二人の少女──菜々子と美々子──を連れ街を歩いていた。今日は梅雨時期に訪れた貴重な晴天日で、昨晩降り続いた雨はまだ少しだけ地面や草花に残ってはいたが頭上には澄み渡る青空が広がっている。連日行われた集会に──と言っても夏油はその間全く違う事柄を考えていたが──毎日繰り返される非術師との会話はそれなりにストレスになる。今日のような天気の良い日くらい、自由に過ごしたかった。なので今日だけはいつの間にか着慣れていた袈裟もやめて、私服を着て買い物に出た。こんな生活を、もう五年以上は続けていた。
 平日の街並みは通勤時間を過ぎれば幾らか人気ひとけも少なく夏油も過ごしやすかった。菜々子と美々子は二人並んで夏油の後ろを歩き、久しぶりの私服姿に喜んでいる様子である。袈裟姿ではなく私服の時は、大抵朝から晩まで共に過ごせるからだろう。起床時から二人は普段よりも口数が多かった。

 三人が過ごす地は都心からそれほど離れてはいなかったが、しかしそれほど近くもなかった。折角だから今日は少し遠い方まで足を運んで、帰りには少し寄り道でもしようかと、夏油はなんとなくそんなようなことを思い浮かべながら閑静な住宅街を抜ける。しかしその瞬間、人が疎らに行き交う通りの正面から見知った、むしろ忘れもしない姿を目にして、思わず夏油はその場に縫い付けられたように硬直した。そしてそれは夏油だけではなく、正面に佇む少女──いやもう少女ではなく女性という方が正しいだろう──かつて夏油が想いを寄せていた、みょうじなまえも同じようにその場に佇んでいた。
 突然足を止めた夏油に、菜々子と美々子は不審そうな表情と声を零した。両側から様子を伺うように顔を覗き込まれていることには気付いていたが、しかし夏油の視線は一度たりとも正面から外されることはない。最後の日から随分と大人びた姿に変わったなまえは驚いたように目を見開いてしばらく固まったあと、ほろりと、大粒の涙を目から溢れさせた。既に乾いたはずの地面にしずくが零れ落ちる。まるでスローモーションのようにその様子を捉えて、その数秒後、夏油の体には振動と花のような匂いと柔らかい温度が伝わった。

「夏油様!」
「夏油様!」

 両隣にいた菜々子と美々子は驚いたように声を上げた。眉を吊り上げて、それぞれ縄と携帯を手に取る。しかし夏油は一度なまえに視線を落としてから、「この人は大丈夫」と落ち着いたトーンで二人に声をかけた。
 複雑そうに顔を歪める二人の頭に手を置いてから、夏油はもう一度自身の胸あたりに視線をやって「なまえ?」と恐る恐る名前を呼んだ。その瞬間、真下にいるなまえと、菜々子と美々子がそれぞれ肩を揺らす。通り過ぎる非術師の視線に、今が平日の午前中で良かったと夏油は内心安堵していた。

「菜々子、美々子、お願いがあるんだけど」
「……。」
「食べたいって言ってたやつ、また今度でいいかな」
「折角のお休みなのに……」
「ごめん。明日また行こう」
「……絶対?」
「うん、絶対明日」

 渋々頷いた二人にもう一度夏油は安堵した。菜々子と美々子は二人で帰れると言っていたが一応家族に近くまで迎えに来るように連絡をし、また何かあってもすぐに向かえるように呪霊も着いていかせた。その間もずっとなまえは俯いたままで、一言も言葉を発しなかった。夏油はあの頃よりも細くなった腕を取って、頬に流れた涙を親指で拭う。そうして優しくその腕を引いた。


* * *


 人々の視線から逃れるように、夏油は人気のない路地裏を進んで遊具も何もない小さな公園のベンチになまえを座らせた。その頃には溢れ出た涙も収まったようで、彼女の様子も幾らか落ち着いたように見える。しかし膝の上では拳を固く握り、思い詰めた様子で地面を見つめていた。顔色が少し良くないなと夏油は思ったが、それを口にすることはせず隣に座って顔を覗き見た。

「どこか痛いとか、体調が悪いとか、そういうのはない?」
「……大丈夫、」
「そう、良かった」

 遠くで、学校のチャイムが鳴るのが聞こえた。もう三十分もすればちょうど正午になる頃だろう。本当はなまえの体調はそれほど良くないのだろうが、その理由が全くわからないと言えるほど夏油は図々しくなかった。いや、何も言わずになまえを置いていった時点で半分以上はその言葉を否定されるだろうが、最低にはなりきれなかった。その中途半端が余計に彼女を苦しめていることにも気付いてはいたが、そうなりきれないのは夏油がまだなまえのことを忘れられないのが原因であろう。

「歩ける?」
「うん……」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」

 なまえは少々困惑した表情を見せたが、夏油が伸ばした手を迷わず取った。その滑らかで柔らかな感触は、近頃はめっきり繋がらなくなったあの二人の少女とはまるで違い夏油は少しだけ驚いた。前もこうであっただろうか、と夏油は昔のことを思い出そうとしたが、それほど鮮明には思い出すことが出来なかった。しかしこうして二人で手を繋いで歩いたことは、よくよく覚えていた。


* * *


 夏油がなまえを連れて行った場所は、公園から少し離れた場所にある小さな喫茶店であった。古びた木製の扉をゆっくりと押し開ければ、カラン、と高すぎない落ち着いた鉄の音が響く。カウンターの奥にいた初老の男性が二人の姿を捉えるが、「いらっしゃいませ」と言ったのち、すぐさま手元のグラスに視線を戻した。
 窓際の席に夏油はなまえを座らせると、立てかけられたメニューを開いて、くるりと上下を反転させてから彼女に向かって差し出した。なまえは一度視線を落としてから、再び持ち上げて夏油を見る。

「お腹、空いてない?」
「どちらかと言えば、空いてない……」
「ここのオムライス、美味しいんだよ」
「……」
「もう、オムライスは好きじゃない?」
「……好き」

 ちらりと夏油が視線を送れば丁度よく男性と目が合って、オムライスを一つと、アイスティーを一つ、それからホットコーヒーを一つ頼んだ。「アイスティーにレモンとミルクは」「ミルクで」その間なまえが一度視線を持ち上げたことに夏油は気付いていたが、しかし気付いていない振りをしてメニューを閉じた。しばらくして夏油の目の前にはホットコーヒー、そしてなまえの目の前にはアイスティーが置かれる。彼女の細い指が、グラスの隣に置かれた乳白色の小さなピッチャーを摘んだ。
 丁度陽の光が差し込んだところに置かれたアイスティーのグラス内に、白いミルクが注がれる。するとそれはじわりじわりと透き通るオレンジ色と混ざりあって溶けていった。そうしてカラカラと氷とグラスが当たる音が響けば、アイスティーは一瞬にして柔らかな色へと変わっていく。
 さて、あの頃の二人はこのあとどんな会話をしていただろうか。翌日に控える任務内容。夜通し行ったゲームについて。お互いの好きなものの話や、過去のこと、未来のこと。決して特別なことはなにも話していなかったような気がしたが、しかし確かに夏油にとって安らかな時間であった。

「髪、伸びたね」
「傑も、伸びたよ」
「そうだね、切るタイミングがわからなくなって」

 なまえがほんの少しだけ微笑む。その瞬間、隈がより濃く見えたような気がして思わず夏油は腕を伸ばそうとしたが、丁度よくオムライスが来たことによってその手は宙を漂ったあと端に置かれたスプーンに行き着いた。真ん中に置かれたそれをなまえの方に少しだけ押して、手に取ったスプーンを立てかける。「……傑は食べないの?」恐る恐る聞いたなまえに、「勝手に食べたら二人に怒られそうだからね」と夏油は最もらしい嘘をついた。
 渋々といった様子でなまえはスプーンを手に取り、そっと黄色に包まれたそれを掬う。そしてほんの一瞬固まったように見えた時、「あ、そういえばそれ」と頬杖をついていた姿勢を直して夏油は口を開いた。なまえはそのまま掬ったオムライスを口に運ぶ。しかし視線はなにかを言いたげに夏油に向けられていた。

「グリンピース、食べれるようになったんだ」
「入ってるの、本当は知っていたでしょう。それに、元から食べられる」

 前はよく端に避けていたのに。その言葉は紡がれなかったが、緩く口角を上げたので同じようなものだろう。なまえは小さなそれを一つも端に避けることはなく最後まで食べきった。その頃には、グラスの中のミルクティーは幾らか氷で薄まっていて、また二人の間にあった不穏な空気も薄まっていた。


* * *


 夏油はホットコーヒーに一度も口をつけることなく喫茶店を出た。お会計の際、男性がそのことについて何も言わなかったのは、夏油がここでホットコーヒーを頼んで一度も口をつけないのは今回が初めてではないからであろう。男性は淡々と「ありがとうございました」と二人に言った。

 それが当たり前だと、自然な流れだと言うように夏油はなまえの手を取って街中を歩いた。また途中、公園で休憩をしたり、日陰があれば必ずそこを歩いた。会話はまちまちで、更にその内容はどれもこれも核心的なものはなにひとつなく、なんてことないようなものばかりであった。それでも、夏油はこの時間が幸せだと思えた。
 なまえが無理していることをわかりきっていても夏油が核心的なことを問わなかったのは、彼女が呪術師になったことに明確な理由があることを知っているからだ。そしてそれはあの夏の日、彼女を置いていった理由でもある。だからどうしても夏油はなまえを連れていくことは出来なかったし、出来ることなら最低になりきって彼女を連れ去りたかったとも思っていた。しかし、夏油が惹かれたのは目的を持って生きるなまえであった。残酷なのは百も承知だ。
 そこまで考えて、自分にとっては最低でなくともなまえにとっては最低であろう、と夏油は思った。あの頃と同じように綺麗なままでいて欲しい、というは単なる夏油の我儘に過ぎないのだから。

 道中、梅雨時期であるため紫陽花をよく見かけた。思えば高専にも、よく紫陽花が咲いていた。陽が暮れ始めた頃、夏油は町外れにある林に囲まれた公園になまえを連れてきた。住宅街からも離れているため、中からは人の気配はしない。そうして公園内の階段を登り、丘のようなところへと辿り着くと、眩しい夕焼けが二人を照らした。

「ここはいつも人がいないんだ」

 ポツリと夏油が呟くと、繋がった右手をなまえにより強く握られる。下を見下ろせば、非術師が住まう家々にぼんやりと明かりが灯るのが見え、どこからか食べ物の匂いがした。和食だろうか。無意識に空腹を感じた夏油は、その瞬間少しだけ気分が悪くなった。それと同時に、隣にいる彼女の手料理をもう一度食べたいと願った。


* * *


 陽が完全に見えなくなるまで、二人はその丘にいた。そうして星が見え始めた頃、夏油は再びなまえの手を引いて丘を降り、住宅街を歩いた。今度はなまえから手を繋いでいた。
 夏油が最後に彼女を連れて行った場所は、一番最初の、なまえと出会った道であった。夏油はくるりと背後を振り返り彼女に向き合うと、繋いだ手を引いて自身の胸に抱き寄せる。その時、なまえの体が一瞬強ばったのを感じた。

「……帰れる?」
「っ、」

 夏油自身も、酷いことを言っていることはわかっていた。現に胸の下で俯くなまえは小さく震え、嗚咽を漏らしている。本当はその涙を拭って無茶苦茶に息を奪ってやりたいのに、過去の夏油も現在の夏油も、それが出来なかった。
 明後日からはまた集会と、非術師から呪霊を取り込み金を巻き上げる日々だ。しかし明日は美々子と菜々子に今日出来なかったことをしてやりたいし、目的も果たせていない。夏油には、まだまだやるべきことがたくさんあった。

「なまえ」

 夏油は彼女の後頭部に手を添えて、つむじに鼻を埋めて名前を呼んだ。そうして自分よりも遥かに手入れの行き通ったしなやかな髪を手櫛で何度か梳いて、僅かに震えた肩を抱く。片腕でもお釣りがくるほど華奢な体は、やはり以前よりも細くなっていた。

「お願いがあるんだ」
「……な、に、」
「生きていて欲しい」

 そう言うと、なまえは更に肩を揺らした。そして遂に抑えきれなくなったのか、少しだけ声を上げて泣いた。夏油はもう一度強くなまえを抱きしめて、バレぬようにそっとつむじに唇を押し付けて、瞼を閉じた。身長差や服から香る匂い、抱きしめた時の感触。そのどれもがあの頃とは違っていたけれど、それでも夏油はたまらなく腕の中にいるその存在が愛おしくなって、息をすることがたちまち苦しくなった。
 そうして最後は手持ちの呪霊に乗って彼女の自宅付近まで送り届けた。夜風に交じる初夏の香り。穏やかな星空。その間、会話はなかったが心は存外穏やかだった。しかしなまえを降ろして再び呪霊に乗った時、ようやっと寂しさが夏油を襲った。たった数時間だけであったが繋がれた右手の温もりが恋しくて、夏油は強く拳を握りなまえの存在一つ一つを思い返して空を仰ぎ見た。おそらくきっと、明日からはまた雨が降るだろう。



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