春の水面に夢を見る
思い出というものは、時間が経てば経つほど美しくなっていくものらしい。私の一番大切な思い出たちは、いつしか春の水面がゆらゆらと光を瞬かせるように美しく輝いているように見えた。
今日も、定時を二時間ほど過ぎた頃に会社を出た。厚い雲に覆われた空。肌を撫ぜるぬるい温度。うっすらと漂う花の香り。
懐かしい空気にふと、昔のことを思い出した。私と彼が、まだ付き合っていたとき。仕事終わりに、彼と手を繋いで帰ったこと。月に何度か、そのまま彼の家にお邪魔させていただいたこと。金曜日には、彼が紹介してくれたお店で食事をしたこと。
美しい記憶。彼と過ごす時間はとても穏やかで、たとえ辛いことがあったとしても、彼といれば心が凪いでいくようであった。
──会いたい。
思い出したら、あのとき心の奥にしまいこんで鍵をかけたはずの感情がどんどん溢れ出てくる。もう離れてからしばらく経つのに、私はまだ彼のことを忘れられずにいた。
しかし悲しくても、恋しくても、必ず朝はやってくる。そして今日は、水曜日。当然明日も仕事がある。出来るだけ早く帰って眠りたい。私は会社の最寄り駅に向かって足を早めた。
「……建人くん?」
遂に、幻覚を見たのかと思った。見覚えのある後ろ姿。気づいたら、私は足を止めていて、愛しかった彼の名前を零していた。
彼に似たその人は、私の声にぴくりと体を揺らしてから足を止めると、ゆっくりと私の方を振り返る。サングラス越しであったが、懐かしい瞳が私を捉えた。
音は聞こえなかったが、彼の唇が僅かに動いて「なまえ」と呼んだように見えた。それだけで、あの優しい声が頭の中で響くよう。瞳の奥がぐっと熱くなったけれど何とか堪えて、私はもう一度「建人くん」と彼の名前を呼んだ。
「本物だ」
「……お久しぶりです」
建人くんは私と視線が絡んだあと、一歩だけ、私との距離を詰めた。
彼がそんなことするはずないとわかってはいるが、もう一歩近づいてしまえば逃げられてしまうような気がした。互いが手を伸ばしても届かない距離。咄嗟に声を掛けてしまったけれど、その先に続ける言葉が見当たらない。
「って、それ」
しかし視線を彷徨わせていたとき、彼の左手を見た瞬間、近づくことを迷っていたことも忘れて私は彼の左手を掴んでいた。深くは無いが手の甲に大きな傷。一応血は拭ったのだろうが、それでもじわりと再び血が滲みはじめていた。
「こ、れは」
「待って、今絆創膏を……いや、大きくて貼れないかな」
「大丈夫ですから」
「大丈夫じゃ、ないよ」
咄嗟に鞄からハンカチを取り出して、「痛くない?」と尋ねながら彼の手のひらに巻き付ける。女性もののハンカチだから少し変かもしれないけれど、このまま血が落ちるよりかはましであろう。
しかし結び目をつくったあと、ハッとした。咄嗟に巻き付けてしまったけれど、迷惑だったのではないかと。実際彼は一度、大丈夫です、と断っていたし、何より別れた恋人になど会いたくなかったかもしれない。
「ごめん、無理やり……」
「いえ……ありがとうございます。それより血がついてしまったと思うので今度改めてお返しします」
「えっ、いいよ。全然、気にしないし……それも捨てていいから」
「それでも私が気にすると、あなたは知っているでしょう」
思わず、うっ、と言葉に詰まる。「確かにそうかも、しれないけど」とぎこちなく返せば、「ならお返しさせて下さい」と彼は淡々と話を進めていった。
「しかし今日はこの後予定があるので、また後日。アドレスは、変わっていないですか?」
「う、うん……」
「では後ほど連絡します」
「うん……」
駅まで送ります。そう言って、彼はそのまま会社の最寄り駅まで送ってくれた。あの頃と同じように、私の姿が見えなくなるまで。
気がつけば、私は呆けたままベッドに腰掛けて、時計の秒針が動いていくのをただただ見つめていた。家までの道のりが、一瞬のことのように感じられたような気がする。
本当に、建人くんだった。幻覚じゃ、なかった。
とくとく。未だに心臓が、いつもよりも早く脈を打っている。
相変わらず、格好良かったな。多分彼は、私と会いたくないと思っていたのだろうな。私と目が合ったとき、少しだけ眉を寄せたから。それなのに、あんな形で無理やり押し付けるように手当てなどして。
咄嗟だったとはいえ、彼の優しさに付け入るように見えてしまって自分の行動に嫌気がさしてしまう。会いたかったけれど迷惑だとは思われたくないし、嫌われたくもなかった。
ぼんやりとしているとスマートフォンが短く震えた。画面に表示されたのは、先ほど再会したばかりの彼の名前。本当に、連絡してくれるんだ。確かに彼はとても律儀な人であるから、すると言ったなら必ず連絡をするだろう。それでも、もしかしたら来ないのではと、心のどこかで悲しくならないように予防線を張っていた。
どうしよう。メール、いつ開こう。見たいけど、見たくない。もし万が一、次すれ違ったとしても声をかけないでほしい、だなんて言われたら。考えただけでも涙が出てきそうだ。
恐る恐る画面をタップして、メールを開く。文頭には、『先程はありがとうございました』と丁寧な文章が表示されていた。しかし、もう一度タップしなければ続きは見れない。
開いてしまえば、あの綺麗な思い出たちは変わってしまうかもしれない。それでも、このまま一生開かないという選択肢は私にはなかった。
そっと、未開封時の青いマークが印された、彼からのメールを開く。するとそこには『今週の金曜日は空いていますか』と続いていた。
金曜日の夜、十九時頃のこと。
石畳の路地裏。淡く灯る橙色の街頭。ここは、都心部の中では落ち着いた雰囲気と趣きがある街である。しかし今日はいわゆる華金と呼ばれる日であるからか、普段よりも足音は多かった。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃって」
「いえ、私も今さっき来たところですから」
「ありがとう。お店、こっちだよ」
再会した日の夜。建人くんからのメールには、今週の金曜日にお礼も兼ねて久々に食事でもしながら話さないか、というような内容が記されていた。家には無事に着きましたか、と確認の内容も添えて。
正直なところ、驚いた。ずっと会いたいと思っていた彼と再会することが出来て、あまつさえこんなすぐに再び会えるなんて。夢でも見ているのではないかとも思ったくらいだ。
未練がましいと思われるかもしれないが、彼と離れてからもずっと、これは彼に似合いそうだとか、ここは彼が好きそうだとか、気づけばそんなことばかり考えて生きてきた。
そして今向かっている場所は、彼が好きそうだと思った場所のひとつだ。
「いい雰囲気ですね」
ぐるりと店内を見渡したあと、微かであるが建人くんは目元を緩めた。建人くんが好きそうだと思って、という言葉は飲み込んで「料理もお酒も美味しいんだよ」と言うと、「それは楽しみだ」と今度は口元も緩やかに曲線を描いた。
笑顔でやってきたウェイターに、予約していた旨と名前を告げる。するとウェイターは一番奥のコーナーソファ席を案内した。
「食べたいものはある? おすすめもあるよ」
「でしたら今日はなまえのおすすめを」
「うん、わかった」
建人くんが好きそうなもの。以前よく食べていたもの。今日この日まで、何度も思い返していたことだ。
前菜をいくつかと、メインには和牛のグリル。お酒は詳しくないから、彼と相談してワインを飲むことにした。
しばらくして空のグラスにゆっくりと透き通ったトパーズ色の白ワインが注がれると、目の前に次々と美味しそうな料理たちが運ばれてくる。落ち着きのある薄暗い店内で、間接照明に照らされたワインが艶やかに光る。今この瞬間が、あの頃と同じように見えてしまって、胸が締めつけられるように苦しくなった。
「改めて、久しぶり……元気だった?」
「ええ。なまえは……」
「私は、相変わらずだよ。新しいところはどう?」
「そうですね、大変ですが自分に向いているところだとは思います」
ここまで向かうまではそれほど感じなかった緊張が、建人くんと斜め前に向かい合ったことで一気に襲ってくる。私が手を出すよりも早く彼が前菜を取り分けて、小皿を私に向かって差し出す。受け取る際につい癖で、いつもありがとう、と言いそうになって思わず口を噤んだ。もう、あの頃とは違うのだ。
グラス同士が重なった軽い音が響き、ゆっくりと口の中に含んでから飲み干す。そうしてそっと、彼の方に視線を向けた。
大変、とは言っていたけれど、あの頃のようなクマはなく、少しだけ表情も晴れやかに見える。きっと、彼は新しいところでも活躍しているのだろう。以前も彼はとても頼られていたし、私も尊敬していたから。
「そっか、よかった」
「……これ、お返しです。同じものが見つけられず、違うものになってしまいましたが」
「そんな、本当によかったのに……でも、ありがとう」
建人くんは、シャンパンベージュの包装がされた袋をテーブルの上に置いた。ローズピンクのリボンがついたそれを手に取り、少しだけ握りしめる。まさか彼から再び贈り物をもらう日がくるとは。本当に、彼は律儀だ。そんなところも大好きなのだ。
彼が静かに、「なまえ」と呼んだ。視線を少しだけ上にあげれば、彼は難しい顔をして私の方を真っ直ぐと射抜いている。
「この間のこと、聞かないんですか」
「……傷のこと?」
「ええ」
沈黙が流れる。
彼が今どんな職業に就いて、どんなことをしているのか、気にならないといえば嘘になる。彼から仕事を辞める話と別れ話をされた時も、本当は、気になって仕方がなかった。どうして、と彼に聞きたかった。
これは私の憶測でしかないけれど、私と彼はきっと見えている世界が違う。私に見えないものが彼には見えていて、彼は、私の知らない世界で生きている。
そう思い始めたのは、付き合ってから少し経った頃だった。何もない場所を気にする素振りを見せたり、デート中わざわざ遠回りをしたこともある。どこかを一点に見つめることはなかったが、彼が見えない何かから私を守ってくれているのだと、私は何となくそう思ったのだ。
だから彼から仕事を辞めると聞いたとき、おそらく新しい場所はそんな彼と同じ世界で生きる人たちがいるのではないかと思った。
もちろん、これは私のただの勘違いかもしれない。けれどそう思ってしまったら、彼にどうしてだなんて聞けるはずもなかった。
「……聞かないよ」
「あなたは、前からそうでしたね」
建人くんが緩やかに眉を下げて私を見た。少しだけ困ったような表情をしているけれど、瞳は優しくて、思わず言葉が詰まる。彼が零す言葉から、もうこれは過去の話なのだと節々から伝わるような気がした。未練を抱えたまま生きていたのは、きっと私だけなんだろう。
「これ、私好きなんだ」
「確かにあなたが好きそうだ。ここは本当にどれも美味しい」
「でしょう? 建人くんが色んな場所に連れて行ってくれたから、前よりグルメになった気がするよ」
「……以前、ここに来られた時はどなたと?」
「……え? 友人とだよ」
ほんの少しだけ、建人くんの纏う空気が変わったような気がする。もしかして本当はそこまで好みじゃなかったかな。
恐る恐る、「ごめん、あんまり好みじゃなかった?」と尋ねると、「いえ、そうではありません。なまえが選ぶものは昔から好みのものばかりでした」と答えた。そう思ってくれていたんだ。あとになって知った彼の気持ちに、少しだけ胸が擽ったくなる。しかしそうなればますます原因がわからなくなった。
「えっと……建人くん?」
グラスを傾けたあと、動かなくなってしまった建人くんを覗き込むように視線を合わせる。すると彼はゆっくりと私の名前を呼んだ。
「不躾な質問だとはわかっていますが、その……あの後、いや今も、誰かとお付き合いはされていますか」
どくん。心臓が大きく鳴り響く。ゆっくりと、感情をしまいこんだ心の鍵が開けられていくようだ。忘れられない美しい日々。いつまでも離れない綺麗な思い出。あの日々を一度だって忘れたことはない。
「……もし、今恋人がいたら、私は今日ここには来ていないよ」
空いたグラスに気づいたウェイターが、空のグラスに再びトパーズ色のワインを注いでいく。お互い言葉を発することなく、その様を見つめていた。ゆらゆらと光るそれは、まるで春の水面のよう。
「建人くんと別れてから、誰かとお付き合いはしていないよ」
「そう、ですか」
「うん」
途端に気まずい空気が流れる。建人くんは、今なにを思っているのだろうか。
誤魔化すように私は「なにか、違うもの頼む?」とメニューを建人くんに手渡した。彼は少しだけ迷うようにメニューを眺めると、「それではこれを。最後に甘いものでも食べますか?」と私に尋ねた。
「うん、食べたいな。フォンダンショコラが美味しかったよ」
「では後でそれも頼みましょう」
「ありがとう」
食事の最後には必ずデザートを頼んでいた。私が甘いものが好きなことを知っていて、彼は必ず途中で尋ねてくれる。そしていつもひとつだけ頼んで私が八割、彼は少しだけつまむように数口程度食べることが多かった。
それから私たちは先ほどの話題に触れることなく、他愛もない日々の話や、会社での出来事、彼の現在の生活について話した。
一瞬のことのようだった。今まで離れていた時間を埋めていくように、彼に話したかったこと、聞きたかったことがどんどん溢れ出てくる。まるで夢のような時間だった。
「すみません、フォンダンショコラを」
「かしこまりました」
紅茶でいいですか? と建人くんに尋ねられ、彼の瞳を見て頷いた。彼はウェイターに、「あと紅茶をひとつと、コーヒーをひとつ、どちらもあたたかいものを」と告げた。
「ミルクやレモン、お砂糖はお付けしますか?」
「ミルクとお砂糖を」
「かしこまりました。少々お待ちください」
なんてことないように、彼はあの頃の当たり前のようになっていたやりとりをする。ミルクと砂糖。どうして彼は忘れないでいてくれるのだろう。もう当たり前じゃないひとつひとつが、胸に刺さる。あの頃と同じように隣に座っていても、あの頃とは違って私たちの心の距離は遠いはずなのだ。それなのに。そう感じさせない彼の言動に、思わずぐっと涙を堪える。
すぐさま紅茶とコーヒーか目の前に並び、それから少ししてフォンダンショコラが真ん中に並ぶ。気を利かせてくれたウェイターが、フォークと取り皿を二つずつ持ってきてくれた。
「……半分こでいい?」
「いえ、お好きなだけ食べてください」
建人くんの瞳を見つめてから、そっとフォンダンショコラにフォークを入れると、しっとりとした生地の中から、とろりとしたチョコレートが溢れ出てくる。中のチョコレートが零れないように口に含めば、あたたかい甘さが広がった。
「美味しい」
「よかった」
「建人くんは、いいの?」
やっぱり無理やり半分こにすればよかったかな。私はもう一度建人くんの瞳を見つめた。すると彼は少しだけまた難しい表情を浮かべると、「では、一口だけいただきます」と言ってフォークを手に取り、私の食べかけた部分を切り取って口に入れた。
そこから、取るんだ。反対側からでいいのに。そう思った私の頬は多分、少しだけ熱い。
「あのね、実は地元に帰ろうと思っているの」
もう二度と建人くんと会えないと思っていた理由。ひとつはこれだった。
「何故、ですか」
「やっぱり仕事が結構しんどいって思うことが多くて……、残業も結構多いし」
「確かに、あの頃もお互い残業多かったですしね」
「うん。だから、最後に建人くんに会えてよかった」
もうあと一口フォンダンショコラを食べて、紅茶を数口飲んでしまえば、この夢のような時間は終わる。そうしたら、もう二度と彼とは会えない。悲しくて、寂しい。
「食事に誘ってくれて、本当にありがとう」
建人くんが、小さい声で私の名前を呼んだ。眉を寄せて、悲しそうな表情で私を見つめる。そのまま見つめ合っていたら涙が出てきてしまいそうで、私は「お会計、しようか」とキッチンの方を見た。
外に出れば雲ひとつない空にいくつもの星が瞬いていて、うっすらと花の香りを漂わせたぬるい空気が頬を撫ぜた。
玄関を抜け、誰もいない路地裏を二人並んで歩いていく。お会計のためにウェイターを呼んでから二人に会話はなかった。
歩くのを止めたかった。だって、このまま歩き続けてしまえば、もう本当にさよならだ。終わりたくない。もう二度と会えないなんて寂しい。彼と、離れたくない。そんな未練がましい感情がどんどん私を襲ってくる。
最後にお別れをしたときも、こんな花の香りがする日だった。本当に、どうしてこんな春の日に私たちは再会したのだろう。会いたいと思っていたはずなのに、別れが近くなってくると途端に辛くなる。
そっと、彼の姿を盗み見る。彼はやっぱり難しい表情を浮かべていて、まっすぐ前を向いていた。今、何を考えているのだろう。建人くん、私、やっぱり別れたくなかったよ。
すると突然、隣を歩いていた彼が足を止めた。釣られるように私も足を止めようとしたのと同時に、彼の手が私の手を掴んだ。
「け、んと……くん?」
「なまえ。私は、あなたに会いたくないと思っていました」
悲しい言葉の羅列に鼻の奥がつんとした。
わかっていた。そうだろうなあって思っていたから。
「あなたに会ってしまったら、あの日決意したことが揺らいでしまうと思ったから」
「決意、って」
「あなたを突き放すことで危険から守ろうとした、私の決意です」
「……付き合っていたときから、建人くんは何かから私を守ってくれていたでしょ?」
「……やっぱりあなたは、気づいていたんですね」
建人くんは悲しそうに笑った。だめだ、どうしよう。もう涙を堪え切ることが出来なさそうだ。つ、と目尻からぬるい温度が零れ落ちる。彼の言い方は、まるで私と同じように未練を抱えたまま生きていたようにしか聞こえなかった。
「私は今、その見えない何かと戦っています」
「……うん」
「あの日のような傷も、もっと大きな傷も、負うことだってあります」
「……うん」
「もしかしたら、あなたが狙われることだってあるかもしれない」
「うん」
「ですが、やはり、毎日あなたに会いたい。毎日、私の帰りを待っていて欲しい」
え。と視線を繋がれた手のひらから、彼の瞳に移した。
「それ、って」
「あなたのことは、私がこれからも守っていきたい」
恐る恐る、「なんだかプロポーズ……みたい」と呟けば、彼は否定もせずに「こんな形ですみません」と眉を下げた。
再び、目尻からぬるい温度が零れる。これは、夢だろうか。
「……ゆめ?」
「夢じゃ、ないです」
「私、隣にいていいの?」
「ずっといて欲しいです」
「私……私っ、本当はずっと、忘れられなくてっ」
「辛い思いをさせてすみません」
建人くんは、私の腕を引いてそっと抱き寄せた。久しぶりの彼の温もり、彼の匂い。心の奥にしまいこんだ感情が、どんどん溢れ出てくる。美しい日々。本当は、美しくなかった日々もある。些細なことですれ違ってしまったこと、失敗をしてしまったこと、そんな日々だって確かにあった。
春の水面はゆらゆらと揺れる。あの美しい日々を憧れるように、私はずっとずっと水の中に沈んでいた。
とぷん。と水の音がしたようだ。
あの日止まってしまった春の呼吸が、再び息を吹き返す。