夏色の春

 清らかさまでも感じられるような、からりとした熱い空気のなかにほんのり潮の香りがする。
 大きな麦わら帽子。膨らませた浮き輪。その辺で買ったぺらぺらのビーチサンダルは、歩く度に砂に埋もれて既にもうたくさんの砂が入り込んでいる。けれど、それすら気にならないくらい私は緊張していた。

「ちょっと、大丈夫?」

 きらきらと光る水面に、眩しそうに目を細めていた家入先輩が私の顔を覗き込んだ。

「ぜ、全然、大丈夫じゃないです」
「具合悪い? 一旦戻る?」
「い、いや違うんです先輩……あの、いや」
「なになに、勿体ぶらないでよ」

 私は両手で顔を隠すように俯いた。顔が熱い、心臓は既に破裂しそうなほどに痛い。しかし、隣からは催促するような視線がびしびしと突き刺さっている。私は思い切って、「その、私、変なところないですか?」とぼそぼそと呟いた。

「どう考えてもその態度が変でしょ」
「う、え……そう、ですよね」
「本当になに」
「夏油先輩に……」
「夏油?」
「この格好恥ずかしくないかな、って……」

 家入先輩は数秒固まったように動かなくなったあと、「あーはいはいそういうことね」と私の体を上から下までじっと見つめた。

「はいはい、可愛いよ可愛い。ほら、こっちむいて」
「ちょっと投げやりすぎませんか? ってなんで携帯向けてるんです」
「記念撮影?」
「一人で?」

 まあいいじゃん。と上から携帯電話を向けた家入先輩に、渋々と視線を向ける。するとカシャ、と音がしたあと彼女は、にやりと面白がるように口角を上げた。

「あいつのこと好きなんだ」
「…………」
「あははは! わっかりやす!」

 多分私の顔は真っ赤になっているに違いない。家入先輩は、「あいつのどこがいいんかね」と小さく呟いたが、いいところなんて、数えきれないほどたくさんある。
 好きな人でもあり、憧れの先輩なのだ。強くて、優しくて、思慮深い人。家入先輩はそんないい奴ではないと言うけれど、それでも好きなことには変わりない。少しでも近付けたら、なんて思ってしまうのだ。
 そして今回、夏油先輩を含めたみんなで、海。そんなの、緊張しないわけが無い。

「あー分かったから、さっさと行くよ」
「待ってください心の準備が、」
「そんなの待ってたら日が暮れる」

 ずるずると家入先輩に引き摺られるようにして砂浜を進んでいく。はあ、どうしよう、そろそろ腹を括らなければ。不意打ちで出会った時には多分私はここで死ぬ。だって、夏油先輩の水着姿? そんなの、絶対似合うし、かっこいいに決まっている。
 気持ちを落ち着かせようと考え込んでいると、今更自分の選んだ水着が心配になってきた。大人っぽいものを選んだつもりだったが、似合わないと思われたらどうしよう。そうしてぐるぐると悪い考えが頭の中で渦巻き始めたとき、「あれ?」と家入先輩がきょろきょろと辺りを見渡した。

「見えませんね」
「でかいから分かりやすいと思ったんだけどな」

 いやそれ結構失礼ですよ。と心の中で思った時、「お姉さんたち、二人で来たの?」と見知らぬ男性二人が声を掛けてきた。えっ、と思わず家入先輩の小指を緩く掴めば、「いえ、連れがいるので」と普段よりもずっと冷たい声で先輩が答える。
 このまま、引き下がってくれるだろうか。そう思いそろりと顔を見上げれば男性二人は、「ちょっとだけでいいからさ」と念を押すように言葉を続けた。どうしよう、でも先輩に頼りきりでもいけないし。そう思って口を開きかけた瞬間、肩にそっとあたたかい何かが触れたのを感じた。驚いて、思わずそこに視線を向ける。すると「連れに、何か御用ですか?」と聞きなれた、一番だいすきな声が頭上から降ってきた。

「え、」

 夏油先輩は後ろから私の肩を抱いて人の良さそうな笑みを浮かべながら男性二人に尋ねると、彼らは顔を青くさせて足早に去っていってしまった。家入先輩の方を見遣れば、五条先輩が圧を掛けるように鋭い視線を向けている。その隣には灰原と七海も見えた。

「遅い」
「いやいやこっちも探してたんだけど」

 家入先輩と五条先輩が何やら話しているが、正直私はそれどころでは無かった。夏油先輩の手が、私の肩に、触れている。加えて先ほど肩を抱き寄せられたせいで背中にほんのり先輩の熱も感じる。比較的シンプルなアロハシャツを上から羽織っているが前は開けっ放しであるので、先輩の胸の辺りと私の背中がくっついているのがわかる。え、なにこれ。何が起きているの。

「大丈夫だった?」

 夏油先輩は酷く優しい声で尋ねると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。全然大丈夫です、と答えたつもりだったけれど、緊張して上手く言えていたかどうかも分からないし、正直、全然大丈夫じゃないです。違う意味で。
 先輩は暫し私を見つめると、少しだけ難しい表情をした。な、なんだろう。もしかして、怒ってる?

「これ、羽織ってて」
「え、これ、先輩のじゃあ」

 ふわりと肩に乗せられたのは、先ほどまで夏油先輩が着ていたアロハシャツだった。微かに残る体温と、ほのかに香る先輩の匂い。まるで先輩に包まれているような感覚に陥って、勢いよく首を左右に振れば、先輩は、「危ないから。ね?」と男性二人に向けたものとは違った、甘い微笑みで返されてしまい、私は、「はい」と頷くことしか出来なかった。
 心臓が痛い。頭もくらくらする。でもどうしよう、すっごく、嬉しい。先輩のアロハシャツを裾を掴み、「ありがとうございます」と告げると先輩は、「じゃあ海行こっか」と私の頭の上にぽんと手のひらを置いた。


* * *


 目当ての後ろ姿を見つけた時、私は思わずため息をつきそうになった。
 なまえの白い肌によく映えた、シンプルな大人っぽい水着。普段の可愛らしい雰囲気とはまた違ったその姿は、思春期真っ只中の男子からすればとても有難くもあるが、目に毒ともいえるほど過激でもあった。
 あんな格好で、女子二人。まず声を掛けられるだろうと急いで彼女たちの元へ向かえば、案の定二人の更に奥から見知らぬ男二人がやってきて何やら声を掛けている。
 その瞬間、自分の中で黒い何かがもやもやと燻るのを感じた。悟たちも彼女たちがナンパされていることに気付いたようで、大股でどんどん二人に近付いていく。

「連れに、何か御用ですか?」

 気付けばなまえの肩を抱いていた。出来るだけ人当たりよく告げたつもりであったが、笑顔が作れていたかどうかは分からない。隣にいる悟があれだけ睨み付けていれば、ほとんど意味は無いだろうが。
 彼女の肌はとても柔らかく、そして片腕で足りてしまうほど華奢であった。そのままするりと肌を撫でたくなったのを何とか堪え、固まったままの彼女に声をかける。
 しかし彼女は、「ぜ、全然、大丈夫、です……」と視線を合わせようとしない。未だ動揺してしてるのか、僅かに睫毛が揺れている。
 その姿は庇護欲を掻き立てられるような愛らしさを含んでいた。この子、自分がたった今ナンパされたことを理解していないのだろうか。何にしても、このままだと離れた時にまたいつナンパされるかも分からないし、正直、他の奴に見て欲しくない。付き合っているわけでもない癖に、独占欲だけは一丁前にあるのだ。

「これ、羽織ってて」

 私が着ていたシャツを肩に掛ければ、なまえは驚いたように目を見開いた。一度は首を振って断ったが、「危ないから。ね?」と念を押すように言葉を続けると、観念したように頷いて「ありがとうございます」と上目遣いではにかんだ。
 シャツの裾をきゅっと掴んで言ったその姿がどうにも可愛らしく、思わず手を伸ばし触れたくなったがすんでのところで踏みとどまる。行き場を無くした手は、彼女の頭にそっと乗せられた。


* * *


「見すぎ」

 隣にいた悟が、呆れを含んだ声で私に言った。

「逆にあれを見ないという選択があるのか」
「いや無いけど。それにしても見すぎだろ」
「お前は見るなよ」
「なんでだよ」

 硝子に頼まれ飲み物を買いに行って戻ってきたものの、パラソルの下では硝子がなまえの背中に日焼け止めを塗っている最中であった。
 肩に掛けたシャツを一度脱いで、無防備にも背中とうなじをさらけ出している姿はやはり少々過激だ。しかし頭でごちゃごちゃと考えていても、根っこの部分は素直なもので、一瞬たりとも視線を逸らすことはしなかった。お腹の奥がずく、と重くなる。このままずっと見ていたいという気持ちと、もう早く終わってくれという気持ちがせめぎ合っている。

「なに突っ立ってんの?」

 硝子にそう声を掛けられるまで、結局私たちはその場から動けずにいた。多分、あの光景は暫く忘れることは無い。
 なまえは同期である灰原たちに呼ばれ、波打ち際で何やらもぞもぞと遊んでいる。気になった悟がずかずかと乱入して彼女を驚かせていたが、私はその場から動けずにいた。多分、今の表情はあまり宜しくない。怒っているわけではないのだが、やはりどうも他の男に囲まれている姿は面白くはなかった。

「はは、顔ヤバ」
「硝子……」
「行けばいいじゃん」
「行っても変わらないよ」
「いっそのことどこか連れて行っちゃえば?」

 あっけらかんと言われたその言葉に、つい気持ちが揺らぐ。いや、なまえがどれだけ今日を楽しみにしていたかということくらい知っている。彼女の可愛らしい姿が見られただけでも喜ばしいことであるのに、独占欲が邪魔をして素直に喜べない自分がいた。

「あ、夏油にいいもの見せてあげるよ」

 そう言って硝子が取り出したのは携帯電話だった。ぽちぽちとボタンを押したあと、画面を私に見せつけるように差し出す。そこに表示されていたのは、悩みの種でもある彼女の写真であった。

「可愛いだろ?」

 上目遣いでカメラに視線を向けているなまえ。水着姿も相まって、その破壊力は凄まじい。

「はー……」

 今日で何度も堪えたため息を大きく吐き出した。隣にいる硝子は携帯電話を揺らしながら、けらけらと笑っている。

「欲しい?」
「…………」
「うっわ、その顔マジじゃん」
「はあ……勘弁してくれ」

 思わず瞼を手で覆う。自分らしくもないのは百も承知だ。それでも好きな子の可愛い写真が欲しいと思うのはある意味健全な男子の思考なのではと、言い訳のようなものが頭に浮かんで消える。

「いいよ、あげる」
「えっ」
「何その顔。ただし暫く言いなりになってもらうから。あと、帰りにあの子の隣に座りなよ」

 前者はともかく、後者は私にとっても好都合である。むしろ行きも隣を死守したのでそこは抜かりなくやるつもりであった。

「ありがとう、他の奴には絶対送るなよ」
「逆にその笑顔が怖いわ」

 遠くでなまえがこちらを振り向いた。先ほどよりも幾らか気分も良くなったので、パラソルの日陰から抜け出して彼女たちの方へと向かう。背後から「変なことに使うなよ」と投げかけられた言葉に、思わず乾いた笑いが零れた。


- ナノ -