涙にキスして

※not離反if

 微かな振動とともに「今どこにいる?」と画面に表示されたメッセージは、わたしの涙腺を緩ませる効果を十分に持っていた。思えば、それが全ての答えだったのかもしれないと、あとになってから思う。

 二十代も後半に突入してまもなく、わたしは初めて合コンに参加した。相手は非術師。本気なのかと問われればそうでもなく、しかし遊びなのかと問われてもまた違った心持ちで参加した合コンだった。
 補助監督として勤務し、術師や生徒のサポートをする毎日で、簡単に言えば出会いなんてものはなかった。加えて自ら恋愛を遠ざけていた部分もあったから、今まで彼氏がいたこともほとんどない。結婚願望が強いわけでもないけれど、周りと比べればそろそろ結婚ラッシュが始まるタイミングでもあり、このままでいいのかという焦りがほんの少しだけ生まれた。そんなときに中学時代からの数少ない友人から舞い込んだ合コンの話。恐怖心はもちろんあったけれど、ここしばらくはなにもなかったから大丈夫だと油断して参加を決めた。
 しかし結果はひどい有様だった。後悔をしたってもう遅い。そんなことはわかりきっているけれど、わたしはもう何度目かわからないため息を零した。本当に馬鹿だ。もう駄目かもしれない。思わずそう口にしてしまいそうなほどには沈んでいた。
 ぞわぞわとした嫌な感覚に思わず自分の体を抱きしめる。タクシーの運転手がちらっと一瞬こちらを見やったけれど、今はそんなことを気にする余裕もなかった。
 そんなときに手元から小さな振動が伝わり、画面のバックライトが点灯した。受信メッセージを通知するものだった。差出人は、数少ない同期の夏油傑。
 今どこにいる?
 たったそれだけのメッセージで、わたしは泣きたくなった。

 タクシーの運転手に予め伝えておいた場所は自宅からほど近い公園だった。合コンの会場となったお店からはかなりの距離があったけれど、なるべく人と関わりたくなかったのと、一刻も早く帰りたかったため迷わずタクシーを選択した。補助監督という仕事柄、遊ぶ暇もほとんどないのでお金には困っていなかった。
 ヒールの音が乱暴になるのも構っていられない。それよりもどうにかしてこの不安を払拭したかった。肌の上を滑る夜風の勢いが強くなればなるほど、あの嫌な感覚が流されるような気がしたのだ。

「ああ良かった、ちゃんと帰ってきた」

 そんな声がわたしに届いたのは、自宅であるマンションを目前にしたときのことだった。エントランス前のアプローチに続く壁沿いに、背を預けていた夏油くんがいたのだ。わたしと目が合うと彼は、ほんの僅かに安堵した表情を見せ、歩み寄る。その姿を目にした途端、わたしは遂に堪えきれずに涙を零した。
 夏油くんは驚いたように目を見開いたのち、なんとなく事情を把握したのか眉間に皺を寄せた。そうして視線を合わせるように背を屈め、わたしの顔をそっと覗き見る。

「早く家に戻ろう……入ってもいい?」

 頷くと、夏油くんはわたしの背後に回った。そうしてエントランスを抜けエレベーターに乗り込むと、躊躇なく階数ボタンを押す。この家には何度か彼を含めた同期を呼んだことがあったため覚えていたのだろう。
 エレベーター内は静寂に包まれていたが、気まずさはない。むしろ安心感を覚えるほどで、先ほどまで感じていた嫌悪感も随分と和らいでいた。
 ポン、と到着音が鳴り自動扉が開かれる。わたしの家は角部屋なので、一番奥の部屋だった。

「鍵、借りるよ」

 バッグを差し出すように持ち上げる。甘えているのはわかっていたが、精神的には限界だった。
 彼は文句も言わずにキーケースを探し当ててから解錠し、扉を開けてわたしを部屋のなかへと誘った。玄関のセンサーライトが点灯して、パタン、と静かに扉が閉まる。
 すると途端に気が緩んで、うー、と情けない声を上げながらわたしは泣いた。夏油くんは再び目線を合わせるように屈んで、わたしの名前を呼ぶ。

「硝子から聞いた。なんでわざわざ……」
「もう大丈夫だって、思ったの」

 自分で言って情けなくなってまた涙が溢れる。本当に、わたしは馬鹿だ。一時の気の迷いでこんなになって、他の人に迷惑をかけて。もういい大人だというのに。
 わたしは、簡単に言うと男性があまり得意ではない。しかし嫌いかと問われればそうでもなく、高専に入る前、つまり中学時代には男の子の友達だって一応いたし、男性の補助監督ともそれなりに話すことはできる(それでも多くはないけれど)。同期である五条くん、それに後輩の七海くんや灰原くん伊地知くんとだって、すれ違えば他と同じように世間話だってするしみんなで遊びに行ったことだって何度もある。
 ではなにが得意ではないかと言うと、交際し、恋人として普通のこと……たとえば手を繋いだりハグをしたりキスをしたり、そういう、恋人としてのスキンシップが苦手なのだ。
 自覚したのは高専に入ってからのことだ。同じ中学校だった男の子と付き合うことになって、初めてのデートをしたとき、別れ際、彼からキスをされた。高専に行ったため、交際早々遠距離となったわたしたちだったから、当時の彼は焦っていたらしい。少々強引に抱きしめられて、そのまま口付けられたのだ。
 行為的にはなんらおかしくないだろう。付き合って一度もデートをしていなかったとはいえ、一ヶ月ほど経っていたのだから。しかしわたしはその瞬間、どうにもたまらないほど嫌悪感に襲われた。脳内には、今日が初めてのデートなのに、とか。展開が早すぎる、とか。色んなことが浮かんだ。思えばデート中に手を繋がれたときも想像していたようなどきどきはなくて、居心地の悪さに襲われていた。
 あまりにショックで、わたしは高専に戻ってから硝子に相談した。事のあらましを聞いた彼女は「そもそもソイツのこと好きじゃないんじゃないの?」と言った。確かに付き合うきっかけも彼が卒業式に告白をしてくれて、友達から、という始まり方だった。素直にそう言えば、「友達からって言ってんのにそんな強引にキスする?」と彼女は眉間に皺を寄せて吐き捨てた。わたしのためにわざわざそう言ってくれたのだろう。しかしわたしはキスをされた瞬間に浮かんだ事柄が肯定されたような気がして、ほんの少しだけ安心した。そうして結局、二回目のデートを達成する前にわたしたちは別れた。
 それからだ。わたしが男性に対して苦手意識を持ち始めたのは。元々男性と関わる機会が少なく友人も決して多くはなかったけれど、さらに拍車がかかってしまった。特に当時の五条くんはピリッとした怖いイメージがあったから、打ち解けるまでに時間がかかった。
 反対に夏油くんは物腰の柔らかい人だったから、五条くんよりかは早くに打ち解けた。五条くんに対しては声を荒らげるときもあったけれど、わたしや硝子にはなかったし、なによりわたしのペースに合わせて話してくれる人だったからだ。
 彼は人の変化に敏感だったので、わたしが男性に苦手意識を持っていることもすぐに見抜いた。見抜いた上で、適度な距離感を持って接してくれていた。そのお陰で、わたしは彼に絶大な信頼を置いていた。こうなったきっかけや悩みなどもほとんど打ち明けるほどに。代わりに、彼の今までの信念がひっくり返りそうになってなんとか堪えたとき、非術師に対しての心情を彼は少しだけ打ち明けてくれた。わたしはさらに彼に安心感を抱くようになった。
 それから何年ものときが経って、それなりに男性の補助監督とも適切に交流できるようになったところで、そろそろ大丈夫だと思ったのだ。それに、確かに苦手意識はあれど、いや苦手意識を持ってしまったからこそ、普通の恋に憧れるようになった。流石に漫画のような恋、ができるとも思っていないし、フィクションだとも理解しているけれど、人並みの、好きな人と結ばれる恋をしてみたかった。
 ずず、と鼻をすすりながらそう言うと、夏油くんはどこか困ったような、それでいて怒っているような、複雑な表情を浮かべてわたしを見下ろしていた。

「それで、合コンに行ったと?」
「……うん」
「どうだった?」

 結果などわかりきっているだろうに。わたしは思わず少し前の出来事を思い出して、手首を何度も手のひらで擦った。

「だめだった」
「……そうか」
「最後お手洗いに行ったときにわたしの前に座ってた男の人と偶然会って、ちょっと話して……、それで……」
「それで?」
「手首を掴まれて、その、手も繋がれて」
「……へえ」

 ぞわ、と嫌な感覚が蘇る。この後二人で違うお店行かない? と声をかけてきた男性は、そのまま壁と挟むようにしてわたしの前に立った。そうして今の夏油くんのように上体を屈め、くっ付いてしまいそうなほど顔を寄せてきたのだ。そこにときめきなどは一切湧かず、やはり嫌悪感のみがやってきたところで、振り払うようにして席へと戻ったのだった。
 手を繋がれただけ、かもしれないけれど、わたしにはそれが怖くてたまらなかった。そろそろ大丈夫、だなんて思っていたから余計にショックだった。ちっとも克服できていなかったことに。また、この先一生克服できないのではないかということに。
 振り払わなければ、もしかしたらキスをされていたかもしれない。自意識過剰かもしれないけれど、それくらいの距離感だったのだ。
 泣きながら全てを話した。夏油くんにならなんだって話しても大丈夫だと思っていたからだ。こんな自分勝手で自業自得な話だって、許されるような気がしたから。

「やだ、もうきもちわるい、誰にも触って欲しくない」

 けれども人並みの恋はしたい。なんてわがままなのだろう。わたしが思う普通の恋・・・・をする大勢の人たちが羨ましくてたまらない。わたしはどうしてこんなにも恋愛が上手くいかないのだろうか。
 すると不意に、夏油くんがわたしの名前を呼んだ。そっと顔を上げると、彼は少し困ったような顔をして手のひらを差し出した。意図がわからず首を傾げるわたしに、彼は「私のことは触れそう?」と言った。

「触れる……たぶん」

 思えば彼に触れる機会は度々あった。制服にゴミが付いたときや、怪我をしたとき。毎度断りを入れてからだったから、わたしも受け入れられたような気がする。
 ちょん、と指先で彼の手のひらに触れた。あたたかい。気持ち悪くない。その瞬間、抱えていた不安が一気に最後の波のように押し寄せてきて、ぼろぼろ泣いた。夏油くんの腕が伸びる。わたしを迎えるように差し出された両手に、思わず体が傾いた。

「怖かったね」

 とん、と額に胸板がぶつかると、彼の腕は優しくわたしを包み込んだ。こんなふうに抱きしめられたのは小学生以来のことだった。とくとくと聞こえる心臓の音。嫌じゃない彼の匂い。じんわりと伝わるあたたかな熱。それらは胸のうちにある強ばったなにかを解すように染み渡った。縋り付くように身を寄せる。彼の腕が、比例するように強くなった。
 あれだけ他の人だと気持ち悪く感じたそれが、夏油くん相手だと一切湧いてこない。むしろ安心感さえ覚えるほどで、このままずっと抱きしめて欲しいくらいだった。髪を撫でる手も、背中をぽんぽんと叩く手も、全部優しくて全部が心地いい。そうしてようやくそのときに、わたしは自分の気持ちに気が付いた。きゅ、と胸の奥が締め付けられるようなこの感覚は、わたしには初めてのことだった。

「……夏油くん。今から自分勝手なこと、言ってもいい?」
「うん、いいよ」
「……夏油くんのことがすき」

 言葉にすれば、すとんと自分のなかに落ちてきた。こんなになるまで自分の気持ちに気付かず、合コンまで行って勝手に嫌な気持ちになって……なんて馬鹿なのだろう。しかし自覚してしまえば、彼のことが好きだという気持ちが溢れてくる。
 夏油くんは息をのんだように静かに固まっていた。それもそうだろう。今まで散々悩みだと話していたはずなのに、突然、あなたのことが好きですと告白しているのだから。迷惑にもほどがある。

「呆れた、よね、ごめん」

 夏油くんに嫌われてしまったら、それこそ終わりだ。彼以上に打ち解け合い、信頼できる男性などこの先現れないだろう。それくらい特別だった。むかしから。近くにいすぎて、その気持ちに今まで気付かなかったけれど。
 彼を盗み見るように視線を上げた。呆れ返ってなにも言えない、といったところだろうか。それとも怒っているかもしれない。

「いや、むしろ嬉しい誤算だ」

 目が合った夏油くんのまなざしは、わたしの想像していたものとは全く違った。優しく包み込むような、慈しむようなまなざし。きゅう、と再び胸が苦しくなる。「怒ってないの?」と尋ねると、彼はわたしの髪を再び撫で付け、抱き寄せた。

「ずっと好きだった子に告白されたんだ。怒るわけがないだろ」
「え……? えっと、」
「気付くまでに時間がかかることはわかりきっていたし、それでもいいと思ってたよ。信用されていた手前、嫌がることはしたくなかったから」
「気付いてたの……?」
「半分はそうであったらいいなっていう願望だったけどね」

 しかし確かにわたしが苦手意識を持っていると見抜いたくらいだ。夏油くんのことが恋愛感情の意味で好きだということくらい、わかってしまうかもしれない。なんだか恥ずかしくなってわたしは俯いた。それなのに合コンに行ったと硝子から聞かされて、彼はどう思ったのだろう。

「私も好きだよ。ずっと前から。なまえが嫌じゃなければ、君が思うような恋愛だってしたい」

 どうかな。と尋ねた彼に、わたしは頷いて彼の服をそっと摘んだ。

「よろしく、お願いします……」
「うん。でも無理はしないで。嫌がることはしたくないから」
「えっとそれは、あの……多分大丈夫」
「うん?」
「……もう一回ぎゅってして欲しいって言ったら、だめ、かな」

 夏油くんは目を大きく見開いて、それから変な呻き声のようなものを上げてからわたしを抱きしめた。ああやっぱり、安心する。誰かに抱きしめられてこんなにも穏やかな気持ちになるなんて、今まで一度も感じたことがなかった。

「駄目なわけない。……柄にもなく舞い上がって浮かれそうだ」

 顔を隠すように夏油くんがわたしの髪に顔をうずめた。どこもかしこも密着しているせいで、体温が伝わり体がぽかぽかとする。きっと彼以外だったならばこうはならないだろう。およそ十年近く悩んでいたそれが、こんな形で幕を閉じるとは思ってもいなかった。それでも、相手が夏油くんで本当に良かったとも思う。おそらく彼が世界で一番わたしのこと知っていて、わたしのことを大切にしてくれる異性に違いないからだ。
 不安が解消されたらじわじわと目の奥が熱くなって、堪えるように鼻をすすった。その瞬間、夏油くんの体が石のように固まる。

「ごめん、怖がらせたね」

 誤解させてしまっていることに慌てて顔を持ち上げれば、想像以上に近い場所に夏油くんの顔があって思わず固まる。それは恐怖から来るものではなくて単純に驚いただけだったのだが、またしても誤解を与えてしまい、彼はそっと距離を取った。すっと顔が離れていき、密着した部分が減っていく。

「あ、待って……!」

 咄嗟に手を取る。すると夏油くんの体がゆらりと傾いて、彼の顔がわたしの目前にまで近付いた。小さく息をのんで、見つめる。今までならなんとも思わなかったはずなのに、彼だと途端に緊張して顔が熱くなった。心臓がどきどきと五月蝿い。目の前の瞳が僅かに見開かれた。

「……そんな顔されたら、期待するよ」
「しても、いいよ」
「無理してない?」
「してない。大丈夫」

 顔にかかった髪を夏油くんが払う。そうして互いの吐息を感じられるほどまで近付けば、彼はそっと触れるだけのキスをした。一度だけ。すぐさま離れて、わたしを見つめる。どっ、と体中火照ったように熱くなって、わたしは思わず視線を逸らした。

「良かった。大丈夫そうだね」
「やだ……見ないで」
「ごめん、それは叶えてあげられないや」

 ふ、と息を吐いて笑った夏油くんは、わたしの肩に触れて顔を覗き込んだ。これはきっと意地悪そうな顔をしているに違いない。からかうときによく見せる、余裕そうなあれだ。頭のなかにすぐに浮かんだ表情を想像して、身構えてから横目で彼を盗み見る。しかし予想とは裏腹に、彼は至極優しいまなざしでわたしを見つめていた。

「その顔、狡い……」
「それはこっちの台詞。何年待ってたと思ってるのさ」

 言いながら頬をなぞられ、じわ、と視界が滲んだ。ごめんなさい、と呟くわたしに、彼は首を振って否定する。

「怒ってなんかいないよ。なまえが私にだけ気を許しているは周知の事実だったし、それだけでもいいと少しは思ってたんだ。だから驚いてるだけ……まあ合コンに行ったのは少し妬けるけど」
「……ごめんなさい」
「まあでも結果的には気付くきっかけになったし、その男には感謝しなくちゃね……連絡先とか交換したの?」
「してない」
「そっか。それは残念」

 残念、と言ったわりに全然残念そうではないし、笑顔もいつもとは違うものだった。連絡先を交換しなかったことが、返って彼の命の安全に繋がったようだ。

「何度も言うけど、嫌なことはちゃんと言って。我儘でもなんでもいいから」
「……うん」
「今日は疲れただろう。早めに休んだ方がいい」
「えっと夏油くんは、その……このあとは」
「元々なまえがちゃんと帰ってくるか気になって来ただけだからね。今日は帰るよ。一人の方が気が楽だろう?」

 以前であればそうだったかもしれない。けれどもこの安心感を覚えてしまったら、離れ難いと思ってしまった。
 一人しないで、と言ったら迷惑だろうか。言い淀むわたしに、夏油くんは「ん?」と首を傾げる。

「一緒に、いたい」
「……いいの?」
「一人にしないで」

 夏油くんは小さく頷くと、わたしの靴脱がせてひょいと抱き上げた。そうして靴を脱ぎ廊下に上がって、真っ直ぐにリビングへと向かって行った。


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