わたしは君の声がだいすきだったよ。凪いだ海のようにどこまでも落ち着いていて、静かな、眠たくなるような声。君は何度もその声で言い聞かせるように、たくさんのことを教えてくれたね。いいことも、わるいことも、ぜんぶ。時々ちくちくと小言のようなことも言っていたけれど、わたしはそれにどこか擽ったささえも感じていたんだ。だいすきだったんだよ。ほんの一瞬のことだったけれど、わたしはあの日々のことをね、ずっとずっと、忘れられないの。


一、

 呪術師の父を持つわたしは、術式を持って生まれた時点で歩む道が決まっていた。幼い頃からやりたくもない鍛錬に励み、見たくもない呪霊を祓う。それはわたしにとって意味のある行為でも、志を持った行動でもなかった。そうしなければならなかったから。ただそれだけのことだった。

 呪術師を生業とする人々の中で育ち十六歳になる年に、わたしは高専に入学した。もちろん自分から志願したわけではなかったけれど、高専にいる間はそこから任務依頼や業務連絡が来るし、在学中は寮に入らなければならないため家から離れられるのは喜ばしいことだった。
 同級生は三人。呪術を扱う者であれば誰だって一度は聞いたことのある五条悟と、呪霊操術を扱う夏油傑、反転術式を使える家入硝子。まるで奇跡のようなメンバーだった。もしわたしに野心や意欲などというものが存在していたら、きっとプレッシャーに押し負けて吐いていたかもしれない。それくらい、この年の入学生は異質だった。

「みょうじさんだよね? 私は夏油傑。よろしくね」

 中でも異質だと思ったのはこの男だ。術師の家系でもなく少し前まで一般人のなかで生活していたというのに、いや、だからこそなのかこの男は呪術師としての志を高く持っていた。五条悟とはまた違う、異常な男。わたしは最初、この男が特に苦手だった。

「みょうじさんは高専に入学する前から呪霊を祓っていたということ? 任務として?」
「まあ、父の付き添いで」
「へえ。じゃあ色々教えてもらいたいな」
「……大したことはしていないよ」

 わざわざ棘のあることを言うのは馬鹿のすることだ。五年間の内のわずかな時間、学業と任務を共にするだけの相手ではあるが、面倒なことは御免だし時間の無駄になる。だからと言って愛想良くすることも出来ないのだけれど。


二、

「あいつはそんな意識高い系ではないだろ」

 校舎から寮への道のりにある共有スペースに差し掛かるとき、わずかに開いた扉の隙間から五条の声が聞こえてきた。相手はおそらく夏油だろう。そして彼の言う“あいつ”がなんとなく誰のことを指しているかわかってしまった。

「良くも悪くもふつー。まああいつ自身もその辺狙ってんだろうけど」
「彼女に失礼だろう」
「事実だって。別に呪術師としてなんかしたいとか、そんなんないでしょ」

 いい話かわるい話かで言えば間違いなく後者だろうが、それほど傷つく内容でもなかった。だって五条の言う通りだったから。「卒業と同時にどっか嫁いだりとかも有り得る話だし、」またそのあとに続けられた言葉も可能性としては全くないとも言いきれなかった。しかし夏油には生まれ育った環境上馴染みがないせいか、少々不可解そうな声を上げている。
 困った。急遽任務が入ったからそれを伝えに来たのに、些か入りづらい空気になってしまった。少し距離があるからか、二人は未だわたしの存在に気づいていないようで会話が止まることはない。しかしそのうち討論になりそうな気配を感じてわたしは床を鳴らすように廊下を進んだ。

「五条、夏油。任務だよ」

 ぴたりと討論をやめた二人に構わず任務内容を伝え踵を返す。背後でひそひそと話しながら様子を伺ってくるのが心底面倒で、わたしは一度も振り返らずに補助監督の元へ急いだ。

 今回の任務は心霊スポットで肝試しを行い、その後行方不明となった高校生男女四人を救出、またその原因である呪霊を祓うという任務だった。一般人の状態もわからないので家入も参加し、その現場へと向かう。
 車内の席配置はその日によってバラバラだった。今日は五条が助手席に座り、後部座席に家入わたし夏油の順で奥から座る。先ほどの話を聞いてしまったからか、なんとなく夏油の顔を見れなくてわたしはほんの少しだけ家入の方に寄った。おそらく夏油もそれに気づいていただろうが、彼もまたなにか思うところがあるのかなにも言ってはこなかった。


「ったく、わざわざこんなところまで来るなんて馬鹿げてんな」

 帳が降りた心霊スポットの現場をきょろきょろと見渡した五条が、心底呆れたような声を上げる。わたしも夏油も言葉にすることはなかったけれど考えることは同じだろう。見えぬものからすればなんてことないただの薄暗い渓谷。しかしわたしたちからすれば、その薄気味悪さは異常だった。

「おっと、早速お出ましか」

 気配はずっとある。それも一体じゃない。しかし姿はどこにも見えなくて、どうやら五条にだけそれが見えているようだった。やがて地面がわずかに震えぞわぞわと鳥肌が立つような気持ち悪さを感じれば、何体もの呪霊が現れる。
 それぞれが構えて目の前の呪霊に向かっていった。一体、二体、確実に祓っていくなか、五条はあっという間に何体もの呪霊を祓っていく。すると遠くから「まだ生きてる。悟、みょうじ、一般人の保護が優先だ」と夏油の声が聞こえてきた。チッと、五条が小さく舌打ちをする。

「硝子のところに運ぶよ」
「わーってるよ」
「二手に分かれよう。みょうじ、君は悟と一緒に、」
「いやいい。俺が引きつけておくから傑の呪霊に乗せて運べ。なまえは援護」
「……わかった」

 掛け声と共に散っていく。行方不明となっていた高校生四人は意識を失っているものの、まだ息があった。夏油は小さく息を吐き出して、丁寧に抱き上げて呪霊の上に乗せていく。その手つきに、わたしは少しだけ居心地が悪くなった。
 援護と言ったって、わたしより圧倒的に夏油の方が強いのだから必要のないことだ。それでも隣で一般人を守りたいと言っている男がいるのだから、なにもしないわけにもいかない。やはり苦手だ。この男の横にいると、自分を認められなくなっていく。それはじわじわと焦りのようなものに変わっていって、わたしは近づいてきた呪霊に気づくことが出来なかった。

「みょうじ!」

 間一髪。襲いかかってきた呪霊を避け、武器を薙ぎ払う。夏油に呼ばれなければわたしはあっさりと殺られていたかもしれない。帳の外に家入がいるから傷は治るだろうが、打ちどころが悪ければ即死だって有り得る。突然のことにわたしはひゅっと息を上手く飲み込むことが出来ず、目眩に襲われた。すると横から力強い腕に抱え込まれ、わたしの体は宙に浮いた。

「このまま行くよ。息、ゆっくりでいいから吐いて」
「っ、は……っ、ごめん」
「流石に肝が冷えた」

 流れゆく地面に視線を落としたままもう一度ごめんと呟く。けれど帳の外にいる家入の元へ着くまで夏油から返事が返ってくることはなかった。

 心臓の音が幾らか落ち着いてきたころには、五条が全ての呪霊を祓ったようで帳は消え去っていた。保護した高校生四人も無事。任務は完遂したと言っていいだろう。しかし、わたしと夏油の表情はあまり晴れやかではなかった。補助監督の指示に従い高校生四人を救急車で運ぶ様子を遠目に見ながら、わたしは「五条が言ってたこと、間違ってないよ」とぼそぼそと口を開く。

「呪術師としてどうありたいかとか、そういうの、持ち合わせてない。人を助けたいという正義も、夏油よりないと思う」

 夏油は「……やっぱりあれを聞いていたのか」と呟いたのち、遠くにいる五条と家入の姿を目で追いながら沈黙した。この男から共感は得られぬとわかりきっているのにこうして吐き出したのは、許されたいと思っているからなのかもしれない。そう思ってしまうような空気を持っているのだ。この男は。

「みょうじを否定したように聞こえたならごめん。そんなつもりはないんだ。非難するつもりもない。私は君に何度も助けられているしね」
「助けた覚えなんて、ないけど」
「私よりも君の方が知識があるだろう」

 そんなものは生まれ育った環境のせいだ。現に夏油はこつこつと勉強をし、今ではわたしに聞かずとも呪術界の知識がある。同じ時間を過ごしてきたとは思えないほど。それほど、努力している。

「でもさっきのは本当にひやっとした」
「うん、ごめん」
「ううん、みょうじが無事でよかったよ」

 遠くで五条がわたしたちを呼んだ。すると夏油は「帰ってなんかご飯でも食べに行こう」と言いながら車へと向かっていく。

「席どうする?」
「私となまえは隣で。行きと一緒でいいんじゃない?」
「……え?」
「だってなまえ、行くときちょっと私を避けてただろう?」

 したり顔で見下ろしてきた夏油にわたしは感情を抑えきれず、引きつったまま彼を睨み返した。なんなんだ、急に。しかも名前。けれども文句を言うことも出来ずにわたしはあれよあれよいう間に後部座席の一番奥に押し込まれ、夏油とぴったりくっついて高専まで戻っていった。五条はそんなわたしたちに少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、家入は「行きよりスペース空いて快適」と呑気に窓の外を見やってぽつりと呟いた。


三、

 面倒事は避けたいと、今まで通りのらりくらりと過ごしていったせいでわたしたちは案外打ち解けあってしまった。デリカシーのない五条。人たらしな夏油。執着心の薄い家入。それぞれ性格は違うけれど、居心地はよかった。一年目だからか全員で任務につくことも多く、休みの日や任務後に四人でご飯を食べることも増えてプライベートな時間も共有するようになった。


「おっそ。どんだけ待たせんだよ」

 休日の午後一時ごろ。高専から少し離れた繁華街の駅前にわたしはいた。隣には待ちくたびれたようにガードレールに腰掛ける家入。五条と夏油の任務が早めに終わるから駅前で待ち合わせをしてお昼ご飯を食べに行こうと、一時間ほど前にメールが届いたのだ。肝心のその二人は、待ち合わせ場所に未だ姿を見せないけれど。

「早くしろって送る」

 カチカチとメールを打ち込みながらそう言うと、家入は「ん」と短い返事をして近くにある喫煙所に向かっていく。その後ろ姿を眺めながらいつものように携帯ゲームの画面を開こうとウェブメニューボタンに手をかけたが、バッテリーの表示を見てわたしは彼女を追いかけた。

「珍し」
「充電あんまなかった」

 簡単な仕切りがされたそこは足を踏み入れただけでも息苦しく感じるような、酸素の少ない場所だった。別に家入を否定するつもりはないけれど、わたしはすきじゃない。そう言うと彼女は、「お前はなんだかんだ見た目通りだよな」と目を細めて笑った。
 するとしばらくして出入口から真っ黒な男が顔を覗かせる。五条は大抵外でわたしと待っていることが多いので、おそらく今日もあのガードレール前にいるのだろう。夏油は家入の煙草が吸い終わるのを待つようにわたしの隣に立つと、「なまえまでこっちにいたのか」とほんの少しだけ驚いたような顔をした。

 飲食店が立ち並ぶ道を四人並んで歩いていく。するとその途中、ゲームセンターが見えてきたところで五条が、「そういえば」と思い出したように口を開いた。

「なまえ、プリクラ撮ったことないっしょ?」

 言われてみればそうかもしれない。しかしそれは五条も一緒のような気がして、「ないけど」と素直に答えれば家入と夏油が驚いたような声を上げた。

「ほらな?」
「五条もじゃないの?」
「まあそうだけど」

 繰り返される電子音と人声が混ざった、ガチャガチャとした騒音を片耳にゲームセンター前を通り過ぎる。すると隣にいた夏油が「じゃあみんなで撮ってみようよ」と意外な提案をしたので、わたしは「は?」とニコニコと笑みを浮かべる夏油を睨みつけるように見た。

「……この四人で?」
「記念にいいじゃないか。こういうこと、今しか出来ないかもしれないし」
「……」

 ちらりと五条を盗み見たが、彼は既に乗り気のようで家入とプリクラの前まで移動している。あとはもう夏油のあの胡散臭い笑みに押し切られてなかに入るだけだった。音声に従ってポーズを取ったり、五条に無理やり肩を抱かれてポーズを取る間もなかったり。五条の適応能力にこんなにもむかついたのはこれが初めてのことだった。

「はい、なまえの分」
「別に、いいけど」
「いいから。持ってて」

 夏油から手渡されたプリクラはスタンプやキラキラしたペンのせいで画面で見るよりもごちゃごちゃして見えた。わたしは渋々それを受け取ってポケットに突っ込もうとしたけれど、このまま動き回っていたら折れてしまうかと思い念のため財布のなかにしまっておいた。


四、

「なまえ、任務だよ」
「夏油と? 今から?」
「そう。鎌倉だって」

 高専の制服のみじゃ肌寒くて外へ出られなくなってきたころ。共用スペースのストーブの前であたたまっていると、出入口からひょこっと夏油が顔を覗かせた。しかしわたしの姿を見ると顔を顰めて隣のベンチへと腰掛ける。

「まだやめてなかったのかい」
「やめるだなんて言ってないもん」
「はぁ。悪いことばかり覚えていくね」
「今だけだしいいじゃん」

 ふう、と唇の隙間から零れた紫煙の奥で夏油が不満気な表情を浮かべる。反対にわたしはどこか満足感のようなものを感じて、まだ少ししか吸っていないそれを灰皿の上で押し潰した。

「うん。行こうか」
「その前に、これは没収」
「あっ、ちょっと!」
「なまえには早いよ」
「家入には言わないじゃん!」
「だから言ってるだろう。なまえには早いって」

 家入だって未成年なんですけど。という言葉は舌の上まで降りてきたギリギリのところで飲み込んだ。夏油の手のなかに収まったそれは、わたしが持っているよりも遥かに小さく見えてちっぽけなものに感じる。この男の方がよっぽど似合っているけれど、こう見えて夏油は──わたしの知らないところでは吸ってるのかもしれないが──煙草を吸わない。そのせいで戦闘に支障が出るなら吸わないに決まってるだろう、と以前どこかで言っていたような気がするので間違いないと思う。
 補助監督が待つ車に乗り込んで、全体的に色素の薄くなった森のなかを抜けていく。その間夏油は一言も話さず、ただただ流れる景色をぼんやりと見つめていた。

 任務は滞りなく終了した。強いていえば海風のせいで手が悴んで狙いが定まりづらかったくらいだろうか。補助監督が待つ場所に向かいながら、わたしたちは海沿いを歩いていく。

「なまえ、腕上げたね」
「夏油からしてみたら前と大差ないと思うけど」
「そんなことないさ。前よりスムーズだった」

 この男は相変わらずこういうことを平気で言う。それがやっぱりわたしにはちょっと苦手で、いや、擽ったいと言うべきなんだろうか。なんて言えばいいのかわからなくなってしまうのだ。
 こういうことを言われたあと、大抵わたしは夏油の顔が見れなくなる。誤魔化すようにポケットに手を突っ込んで携帯を探し当てるけれど、悴んだ手では思うように動かず掴み損ねた携帯はカツンと音を立ててアスファルトの上を転がっていった。

「うわ、思いっきり落ちたね、蓋外れたし」
「あ! 待って、だめ!」

 アスファルトに落ちてバッテリー部分の蓋が外れた瞬間から、わたしにはそれがスローモーションのように見えた。そうして前を転がっていった蓋があっさりと夏油の手によって拾い上げられる。わたしが大声を出したからか少々不思議そうにしていたけれど、手のひらにあるそれに視線を落としたとき彼は「ぶは」と吹き出して、声を上げて笑った。

「わ、笑わないで!」
「あははは! だから言っただろう記念にいいって」

 笑われながら手渡された蓋をすぐさまはめ直す。蓋の裏にはしばらく前に撮ったプリクラをこっそり貼っていたのだ。家入が教えてくれたから、ただやっただけ。けれども言うのも恥ずかしくて誰にも言えなかった。
 夏油はひとしきり笑ったあと、涙を拭うように目尻を擦った。涙なんてこれっぽっちも流れてないくせに。それが余計に面白くなくて、わたしは陽が沈みかけた海の方を向いて不貞腐れたように下を向いた。

「ごめんって、怒らないで」
「別に怒ってないし」
「なんで貼ってくれたの?」
「家入が、ああする子もいるって言ってたから」
「はは、硝子が。なるほど、そうか」
「なにその含みのある言い方。むかつく」

 夏油はもう一度「ごめん」と謝ったあと、わたしの顔を下から覗きこんで「でも記念になっただろう?」と酷く優しい声でわたしに言った。その声で言われるとどうしたって頷いてしまうし、それが正しいのだと思わされた。だからわたしは今回も小さく頷いて、けれどやっぱり彼のまなざしをまっすぐ見つめるのも怖くて、海風で流れてきたアスファルト上の砂を見る。

「ねえ、なんで好きでもない煙草なんて吸ってるの」

 断定的な言い方にわたしはハッとして顔を上げた。すると思っていたよりも夏油の顔が近くて心臓が飛び出そうになった瞬間、唇につめたくて柔らかい感触が伝わる。それが夏油の唇だと理解したときには「ほんと、可愛いね」と彼は不思議な言葉を口にしていた。

「なんで、キスしたの……」
「したくなったから。それに、なまえもして欲しそうだったし」
「……だから家入にクズだって言われるんだ」
「誰にでもするわけじゃない。この意味がわかる?」

 波の音にかき消されてしまいそうな、囁き声に近い小さな声量で夏油はわたしの髪を耳にかけながら言った。指先は酷くつめたいのに顔だけが火照っておかしくなりそうだ。なんて言っていいのかわからず、唇の隙間から空気だけが零れていく。するとそれを塞ぐように夏油はもう一度わたしにキスをした。今度は、わたしの目を見てからゆっくりと瞼を閉じて。
 夏油の歪んだ表情が見たくて家入から煙草をもらった。全然すきじゃないのに、吸えば夏油が注意をしてくるからやめられなかった。夏油を見ていたらなにかしないとって思うようになって、鍛錬を増やすようになった。みんなとの時間が思っていたよりも楽しいと思うようになった。そんなこと、口が裂けても言えないけれど、目の前のこの男はそれら全てを知っているかのように眦を下げて、まるで宝物を見つめるようにわたしを見下ろす。

「結構なまえのことは見ていたつもりだよ。あの日から傷が増えて、今日の動きも前とはまるで違ってた。そのくせ褒められるとどうしていいかわかんないって顔する」
「そんなの、してない」
「してるよ。ほら今も。私にこう言われてかわいい顔してる」
「かっ……そんなのも、してないからっ、」

 からかわないで。とわたしは顔を背ける。海と空の境界線に沈みかけた夕陽に目が眩みそうになりながら、波音に合わせて静かに息を吸う。けれども夏油は追い討ちをかけるように耳元に唇を寄せて、ゆっくりと口を開いた。

「煙草もそう。他の奴らといるときは絶対吸わないだろう? なまえがそれを好きじゃないことくらい、わかるよ」
「……」
「他の子が吸ってようが関係ないけど、なまえは別。あんまり私に意地悪をしないでよ。……ね?」

 そんなことを言われたら、頷く他なかった。すると夏油はわたしの頬を両手で包んでそのままむぎゅっと押しつぶすように少しだけ力をこめると、目線を合わせるようにわたしの顔を持ち上げる。

「今、自分がどんな顔してるかわかってる?」

 知らない。と口にしようしても頬を挟まれたままでは上手く言葉にならずくぐもった音だけが零れる。すると夏油が声を上げて笑ったので、今度こそわたしは彼の手から逃れ「知らない!」と声を張り上げながら先へと進んだ。

「先は長そうだな」

 すぐさまわたしに追いついた夏油が声を弾ませながら言う。なんでちょっと楽しそうなの。言葉にはせず、けれども視線にこめて見やれば彼はもう一度笑ってわたしの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
 その時はそう、その夕陽に照らされた夏油が、眩しくて仕方がなかったんだ。


五、

 それから一年が過ぎて、二年目の冬。わたしは夏油と共に新潟まで出張任務に出向いていた。特級である二人は一人での任務が増えたけれど、わたしはそうもいかない。自然と、二人での任務が増えた。

「夏油。いいから、降ろして」

 降り積もった雪のせいで夜でも眩しく見える海岸沿いの道。わたしは、夏油に抱えられたままホテルまでの帰路へと着いていた。

「駄目だ」
「ほんの少しだけ足を怪我しただけだってば」

 任務は成功した。巻き込まれた一般人を保護することも出来た。が、咄嗟にその一般人を庇ったせいで、足首を捻り、切り傷を負ってしまったのだ。しかし呪霊にやられたわけでもないただの怪我。こんなの、しばらくすれば勝手に治るような大したものでもないのに。しかし夏油はむかし四人で任務をこなし一般人を救出したときに見せた、あの丁寧な手つきでわたしを抱き上げた。
 抵抗しようとも彼がわたしを降ろすことはなかった。雪が様々な音を吸収して静寂が広がるなか、かすかな小波の音と夏油の心音だけが耳に木霊する。
 こんなにも雪が降っているというのに夏油の体はあたたかかった。密着しているからだろうか。それなら夏油もあたたかいと感じているだろうか。わからないけれど、なぜだかその優しい温度にわたしは急に情けなくなって、口数の減った夏油に恐怖を抱いた。

「夏油、ごめん。またわたしの、不注意だ」

 咄嗟に口にしたのは、やはり許されたいと思っているからだろう。そして同時に、夏油なら許してくれるとわかっていたからだ。いいよ、って静かな声で言って。本当にね、と呆れたようにでもいい。

「え、ちょ、夏油?」

 しかし彼はわたしの予想を裏切って、わたしをきつく抱き直したあと胸元のあたりに顔を寄せてそのまま固まってしまった。

「ごめん。そんなに、怒ってるとは思ってなくて……」
「怒ってない。怒ってなんか、ないんだよ」

 いつもと様子が違う夏油に、わたしは動揺した。任務後だというのにわたしをこんなにも軽々持ち上げるこの大男から発せられた声だとは、到底思えなかったからだ。尚も顔を伏せたままの彼に、わたしは胸元と寄せられた顔の間に置かれた両手の行方に迷いつつ、おそるおそる頬に触れてみる。

「どうしたの、夏油。なんか……あった?」
「……」

 かすかに波の音が三度ほど鳴った。そうしてようやく夏油は「ううん、なんでもないよ」と言って顔を持ち上げる。そのときの表情は先ほどまでの雰囲気は消えていて、いつもの彼のように見えた。

「手、つめたすぎ」
「ご、ごめん」
「いいよ。なまえなら、つめたくてもいくらでも触れて欲しい」

 ぶわっと顔が熱くなるのを自覚したとき、夏油は小さく笑ってから止めていた足を進めた。ふと、鼻の先につめたい感触がふんわりと柔らかく伝わる。

「なまえ」

 凪いだ海のように、どこまでも落ち着いていて静かな声だった。わたしは見上げていた視線を雪から夏油に変えて、じっと見つめる。そうして今度は夏油がわたしに視線を向けると、柔らかいまなざしでわたしを見つめた。

「好きだよ」
「っ、え、い、今?」
「はは、まさかの駄目出し? だってちゃんと言わないとなまえ、ずっと認めてくれないだろう?」
「認めるって、なにを」

 こんな情けない瞬間に言わなくても。という言葉は飲み込んだ。夏油は少しだけ楽しそうに微笑んで「うーん」と勿体ぶったように首を傾げる。

「私が君を好いているってことと、君が私を好いているってこと」
「なに、それ」
「まだはぐらかす? もうとっくにわかってるだろう」

 諭すように言ったのはこの男の性格上なのか、それともわざとなのか。わからないけれど、そう言われてしまえばもう認めざるを得なかった。夏油を見て心がざわめいたことも。許しを得たいと思ったことも。変わらなければと決意したことも。そして、夏油から向けられていた特別に安堵していたということも。

「いい加減認めなよ。それで私に好きって言って」

 願うように告げられたその言葉はわたしの胸の上に落ちていって、雪のように溶けた。

「す…………、き」

 呟いた告白は今日の穏やかな冬の日でなければ聞き取れなかったかもしれない。それくらい、小さな声でしか言えなかった。けれども夏油は緩やかに破顔して、わたしのおでこにキスをした。

「まあ今回はこれで許してあげる」

 言い返そうにもそんな余裕はわたしにはこれっぽっちもなく、夏油の制服を握りしめながら顔を隠すことで精一杯だった。やがて宿泊先のホテルに近づいたのか人声が聞こえてきて、余計にわたしの羞恥心は高まる。「着く前に降ろして」「駄目。このまま行くよ」どう足掻いてもやはり降ろしてくれることはなかった。


「ああしてはっきり言った方が、なまえを守れる理由にもなるだろう」

 後日、夏油が言った言葉だ。それから彼は、わたしが任務先で怪我をしてくると心配そうに顔を歪めてちくちくと小言のようなことを言うようになった。けれどももう以前のように満足感は得られない。
 無言で傷口をなぞる指先に、何度も決意するようになった。呪術師としてどうありたいだとか、人を助けたいだとか、そんなものはない。夏油を悲しませたくなくて、特別な存在のままでいたくて、離れたくなかったんだ。

「馬鹿だね」
「わかってるよ」
「まあでも、お前は初めからそうだったよ」
「なにそれ、どういうこと?」
「擦れてるようで結局いい子ちゃん、みたいな」
「……」
「昔、あいつがお前のことを猫みたいでかわいいって言ってたよ」
「……なにそれ」

 換気のために開け放たれた窓の外を見て家入が「かなり積もってるな」と言って窓を閉める。季節は巡り巡って、再び冬が訪れた。三度目ではない。四度目、五度目、もう数えたくもないほど。東京ではあるものの山奥にある高専には雪が降り積もっていて、辺り一面真っ白な雪景色が広がっている。
 あれが、たった二度目の、二度目だけど最後の冬だった。

 冬になると思い出す。あの日のように酷く穏やかな海、冬凪のような声を。その声でまっすぐな正論を告げて、諭すように小言のようなことを言う君のことが、ほんとうはだいすきだったんだよ。その声でわたしの名前を読んで、慈しむようなまなざしを向ける君のことが。
 強くなれなくてごめん。誰かを、君を助けられるような人になれなくてごめん。はっきりと君に、君のことがだいすきだって言えなくてごめん。あの日から、一瞬だって忘れたことはない。だいすきだったよ。ううん、どんな君でも、わたしはずっとずっと今でもだいすきだから。それだけは、ずっと変わらないから。




あとがき
映画を見てから最初に書いた話になります。作中忘れられないシーンはたくさんありますが最後雪の中を歩いていくところ、どんなことがあっても季節は変わらず移ろっていく瞬間がどうしても心に残っていて、その感情のまま書きました。雪だけでなくとも、季節の何気ない瞬間と共に記憶された過去を思い返したり、ずっと忘れられないで生きている人の話が書きたかったです(それと、素直じゃないけどそこが夏油にとってはかわいいと思えるような女の子の話はずっと書きたかったので)。
冬凪を選んだ理由は単純にあの声を聞いたあとではこれ以外選べなかったからです。あとはもうこの話の中に全て込めました。


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