清澄なる蒼穹は限りを知らず、見えぬ果てまで続いている。浮かぶ雲ひとつないその先は遥か遠く、どれだけ手を伸ばしたところで届きはしない。流れるのは僅かにつめたさを孕んだ金風。承和色の菊の花がさわさわと音を立て、香を乗せて頬をなぞっていった。静閑に包まれている。どこまでも幸福な静けさであった。巡る季節の中、私たちは出会いと別れを重ね、幸と不幸を繰り返す。出会いを経て大きな別れを選択した過去の夏。蝉の音と共にひとつひとつを置いてきた私は今、再会を選択した秋を生きている。
一、
ざりざりと音を立てながら一歩ずつ帰路を辿れば、坂の先に灰色の瓦屋根とブロック塀が見えてくる。黄昏から宵へと移り変わっていく頃。辺りは薄暗くなり始めたため、玄関灯は既にあたたかな温度を灯していた。鉄製の低い門扉を通過し、懐にしまっている貴重品入れから鍵を抜き取って鍵穴に差し込めば、鈍くて低い音と共に開錠される。するとまだ開けてもいない扉の向こうからバタバタと廊下を走ってくる音が聞こえてきたため、私は揃えるように引き戸を開けた。
「おかえりなさい! 夏油様!」
「二人とも、ただいま。いい子にしていたかい」
数年前に出会った二人の少女、美々子と菜々子は声を揃えて「今日は夕飯の手伝いをした」と誇らしそうに言うと、私の手を取って中へと導いた。家主の性格や内面が現れているような手入れの行き届いた室内。玄関すぐには二階へ続く階段が見えて、その脇を通ればリビングルームへと続いている。すると奥へ辿り着く前に扉は自動で開かれて、一拍遅れたのち小柄な女性がこちらへ顔を覗かせた。
「夏油くん、おかえりなさい」
「ただいまなまえさん」
「ごめんまだご飯出来てなくて……良かったら先にお風呂入ってきてくれる?」
「いや、手伝うよ」
「ううん、大丈夫。上がる頃には出来上がっているから」
エプロン姿のなまえさんは私から視線を下ろすと、「そろそろあのテレビ始まるよ」と言って美々子と菜々子を部屋へと招き入れた。二人もどうやらその番組が大層気に入っているそうで、簡単に手を解いてテレビ前へと駆けていく。初めの頃は中々思うようにコミュニケーションが取れず悩んでいることもあったのだが、今や三人の距離感は至って自然で、また打ち解けあっているように見えた。
「今入ってもらえると、あとでわたしがゆっくり休めるから」
なまえさんは私が口を開くより先にそう告げてから、まるで露見した策略を誤魔化すかのように眉を下げた。そう言われてしまえば、入るしかないじゃないか。言い淀む私を他所に、彼女はにっこりと笑みを浮かべて私の背を押す。しかしこのようなやりとりはもう何回と繰り返していて、私はその度に彼女に甘えているのだった。
築年数の経った一軒家の湯船は、私が足を伸ばすには些か無謀とも言える広さではあるが、それでもあたたかな湯に浸かるという行為は心身ともに酷く安心を得られるものだった。ずるりと浅く座り込み、体を沈ませれば思わず漏れるため息。普段気を張っているせいか、この時間は特に気が緩みがちだった。そしておそらくなまえさんはそのことに気付いていて、必ず入浴の時間だけは一人にしてくれている。
とろりとした乳白色の湯。 彼女一人で暮らしていれば毎日浴室を掃除し、毎晩同じ時間に湯を張ることもないだろうに、彼女は私や二人の少女のためにこうして時間を費やしてくれている。近頃美々子と菜々子は入浴剤にハマっているようで、洗面所には日本湯めぐりと書かれたパッケージの入浴剤が置かれるようになった。今日もそのうちのひとつを入れたのだろう。
入浴時間は一日を振り返る時間でもあった。呪霊のこと。教祖活動のこと。非術師のこと。生活のこと。そして家族のこと。それらを考えて、自分の目的と大義をもう一度見つめ直してから、最後に目を閉じる。本来は無心になることを目的としているが、それが叶えられたことはほとんどない。思えばこの時間はいつだってなまえさんのことを考えているような気がした。出会いと別れ。再会。彼女が私に送ってくれた様々なこと。そして彼女の未来。
開け放たれた浴室の小さな窓の隙間から、ひんやりとつめたい空気が流れ込む。その中には僅かに菊の花の匂いがした。
二、
みょうじなまえは、私の高専時代の三つ上の先輩だ。当時の等級は二級。正直なところ、それほど弱くもないが強くもない人だった。私は、当時悟とよく彼女に話しかけてはくだらないことや意地悪なことを言って、夜蛾や硝子に怒られたりしていた。近くに歌姫先輩がいる時は彼女にも怒られることもあった。しかし肝心のなまえさん自身はニコニコと笑みを浮かべたままで、一度だって私たちに怒ったことも、注意さえもしたことがなかった。それどころか時には私たちと同じようにくだらないことを一緒にするような一面さえ持っていた。私はこの時、なまえさんはそれほど朗らかな人なのだと思っていた。
それは確かに間違いではなかった。しかしだからと言ってなにかを軽んじるような人でもなかった。ある日。彼女たちとの出会いから月日が経って私が自分の道を見失いそうになっていた頃。任務帰りのなまえさんと偶然校舎付近ですれ違った時のことだった。既に時刻は深夜に近く、山の中に建てられた高専は真っ暗闇に包まれていた。
「あれ、夏油くん」
「……お疲れ様です」
「こんなところでどうしたの?」
眠れなくて、と正直に言うつもりもなく、けれど適当な言い訳も思いつかないほどいっぱいいっぱいだった私は、逃げるようにして顔を俯けることしか出来なかった。今思えば、この時もっと上手く場を潜り抜けていれば、なまえさんに重荷を背負わせることも苦しめることもなかったんだと思う。
「おいで。ここだと他の人も通るかもしれないから」
なまえさんは俯いた私の手を取ると、校舎を越えた山の方へと向かっていった。季節は既に春を過ぎて夏を迎えようとしており、青々とした草花の香りが強く漂っていたが、繋がれた手のひらが熱かっただとか冷たかっただとか、そういうことはよく覚えていない。というよりも草花の香りすらもほとんど覚えておらず、初夏であったのでおそらくそうだったのだろうという想像だ。なまえさんはそれからほとんど人通りのない階段を登り、やがて一番上の段に辿り着いたところで腰を下ろす。そうして隣に座るようにと、私の手を優しく導いた。
「五条くんは知ってるの?」
なにが、とは言わずただそれだけをなまえさんは問うた。私は視線を下ろしたまま「いえ」と呟いて、目を瞑る。浮かんだのは高専の仲間や後輩の顔と、非術師の顔、それからその年の春に出会った少女の顔だった。
「……そっか。大切だからこそ、言えないこともあるよね」
行き場のない感情を抑えるように握った拳。その上に、なまえさんは柔らかい手のひらを包み込むように被せた。そして俯く私と視線を合わせるように下から顔を覗き込むと僅かに目元を緩め、小さな声で私の名を読ぶ。丁度、私たちの真上に浮かんでいた月明かりによって彼女の瞳がつやりと反射した。
「人間ってどんなに強い人でも怪我をするし病気もする。なにかを溜め込みすぎてポンッと爆発したように駄目になってしまうこともあるから、絶対に心を殺すことだけは、しては駄目。そうなったら夏油くん自身が大切にしているものや大事なことが守れなくなってしまうし……わたしも悲しい」
何年も経った今でもこの言葉を覚えている。私はそれまでこのような話をなまえさんとすることは一度だってなかったから、驚いた反面、なにかを強く揺さぶられたような衝撃があった。その時彼女はそれすらも見抜いて、「わたしは夏油くんが思ってるより夏油くんのことを見ているし、助けになりたいと思っているよ」と微笑んだのだ。顔の周りに垂れ下がった髪を耳にかけ、撫で付けながら。私を囲う暗い帳を取り払うように。
「呪術師を続けるの、苦しい?」
「……時々、わからなくなる時はあります」
なまえさんはきっと、私に打ち明けて欲しかったのだと思う。しかしこの時の私はそれしか言うことが出来ず、それっきり口を噤んで再び下を向いた。私にとっては彼女のことも大切で、思ったまま言ってしまえば彼女自身が苦しんでしまうと思ったからだ。
「……そっか」
「すいません」
「ううん、無理する必要はないよ。でももし本当に困ったり悩んだりしたら、必ず言ってね。私に出来ることであれば、夏油くんのためならなんでもするよ」
「……それは、」
「うん?」
「……それは、悟にもそう言いますか」
言い切った瞬間には後悔していた。案の定なまえさんは酷く驚いたように目を見開いていて、思わず言葉にならない声を漏らす。しかし彼女は私の拳を包み込んでいた手のひらに力を込めて「言わないよ」とハッキリと告げた。
「夏油くんにだけ。もちろん今日のことも他の人には言わない。だから、なにかあったら必ず言って」
正直なところ、私は先の言葉よりこの言葉の方が嬉しかった。なまえさんはいつだって誰に対しても平等で、私や悟に対し分け隔てなく向き合っていたから、そう言われると思っていなかったのだ。
しかし結局それからも、彼女に会うことはあれど内に秘めた感情を漏らすことはなかった。そして段々と忙しい日々が続いて会うことも少なくなった。つめたい冬を越し、陰る春に息を潜め、濁流に飲み込まれたかのような夏の日々を過ごした。そうしてあの日。あの夏の終わり。私は二人の少女と出会い、家族や仲間、そして親友との別れを選択した。後悔はなかった。そうしないと、私が守りたいと選択したものが守れなくなってしまうから。けれどその時、なまえさんのことだけは心残りだった。おそらく彼女はこうなる前に打ち明けて欲しかったと、ずっと望んでいただろう。結局言えなかった。最後まで応えることが出来なかった。私はあの言葉を、彼女までも、裏切ってしまった。
自らの手で切り捨てたお陰で私に残ったものは本当に僅かなものだけになった。呪術師以外の道を選ぶことも、ましてや二人の少女を育てることなんて、経験どころか想像だってしたことがなかった。途方に暮れた。残暑の厳しい夏の終わり。二人の少女が私の手を握り、透明な眼で私を見つめていた。頭の中に浮かんだのはやはり彼女だった。そうして私は、震えた手でなまえさんの番号に電話をかけていた。かけてしまったのだ。
私が三年に上がった時、既になまえさんは高専を卒業していてその頃はずっと会っていなかったが、呪術師を続けていることだけは知っていた。彼女は私がかけた電話に直ぐに出ると、とある住所を言って「ひとまずここに来れる?」と私たちを呼びつけた。突然の電話に驚いてはいたけれど、高専から私のことを聞いていたのか、はたまた通話時の声音でなにか事情を把握したのか多くは聞かず、ただそれだけで通話は終了した。そうして東京からしばらく離れた田舎町の坂の上に建つ家へと辿り着いた時、玄関先で私たちを待っていたのはあの日から少しだけ大人びたなまえさんだった。
「夏油くん……!」
「すいません、急に電話して……ここは」
「ううん大丈夫。ここは私の実家。でも私以外誰も住んでいないから、とりあえず中でゆっくりして。この子たちは……お家、大丈夫そうかな?」
美々子と菜々子はなまえさんに酷く警戒していたが、私の態度を見てほんの少しだけ気を緩めたらしく後ろからそっとなまえさんの様子を窺っていた。私は正直電話をかけてからもずっと後悔ばかりで本当はここに来ることも躊躇っていたのだが、彼女はそれを見越したように私の手を引いて家の中へと導いた。
「夏油くんがわたしに電話をしてきた時、びっくりしたけど、でも嬉しかった」
二人の少女を寝かせてからそれまでの経緯をなまえさんに伝えた時に、彼女は問い詰めることも否定することもせず、そう言った。正直上手く言葉を紡ぎ出せず、要領を得ない話だったとは思うが、それでも最後まで静かにそれを聞いていた。そうしてその言葉のあとに「二人を守ったんだね」「よく頑張ったね」と言って私を抱きしめた。私はこの時、初めて誰かに認められたような気がして、みっともないが声を押し殺してほんの少しだけ泣いた。おそらく彼女はそのことに気付いていただろうが、なにも言わずにずっと私の傍にいてくれた。
そうしてそれから現在まで、数年の時間に渡って私は彼女の傍で生活をしている。毎日世話になっているわけではないが、それでもほとんど変わらないほど彼女の家に帰る日が続いていた。もちろんあののちに、私の話は高専であっという間に呪詛師扱いとして警告が流れ、なまえさんの元にもそれは届いていたのだが、彼女は通達の紙を私の見えぬところに仕舞い、私がいない間にどうやら捨てたようだった。
三、
空気に色があるのだとしたら、なまえさんの隣はどこまでも澄んだ薄浅葱色だった。夏が過ぎ、幾らか肌寒く感じるようになった季節。教祖活動もない、数少ない休日といえる今日は雲ひとつない秋晴れで、正しく彼女に相応しい日だった。
「それはなあに?」
「菊の花?」
大きな庭に面したリビングルームの一番広い窓を開け放って、新聞紙を広げたなまえさんに美々子と菜々子は二人してその手元を覗き込んだ。菜々子の言う通り彼女の手にあるのは菊の花で、おそらく庭に植えているものを取ってきたのだろう。彼女はそれを新聞紙の上に並べていって「こうして干すのよ」と二人の手にも承和色のそれを持たせる。しばらく前も金木犀の花をこうして彼女は綺麗なうちに採取して干し、お茶と一緒に入れて飲んだりシロップなどを作ったりしていた。
「これを干してから小さな袋に入れて、寝る時に枕カバーの下に入れるのよ」
「なんで?」
「二人に悪いことが起こりませんようにって」
「夏油様がいるから平気だよ」
「うん、そうね」
なまえさんは二人の頭に手を添えて、整えるように髪を撫でた。そうして三人でそれを並べていたが、しばらくしてどうやらそれも飽きたらしく、二人はしゃぼん玉の入れ物を持ってパタパタと庭まで駆けていく。
「今日は買い物に行くのかい?」
「ううん、今日は大丈夫。あ、でもあとで一緒に栗を剥いて欲しいんだよね」
「ああ、今水に浸けているやつ?」
「うん。今日の夕飯は栗ご飯だから」
以前なまえさんは、料理を作る時には必ず作り手の想いやエネルギーが込められていて、食材の栄養素と共にそれらも体内に取り込まれ人々の心体を作っていくのだと言った。そして私が非術師が関わったものに極力触れ合いたくないということも理解していて、毎度丁寧に食事を作ってくれている。季節が巡れば旬のものを使い、行事食なども不精することなく私たちに振舞った。
この家に留まることになったのは、彼女が私たちを引き止めたからだ。その時彼女はフリーの呪術師という形を取り、必要最低限のみ仕事を請け負って、美々子と菜々子の面倒を見ると申し出たのだ。しかし、この生活も永遠ではない。そもそもこんなに世話になるつもりもなければ、彼女にこれほどの負担をかけるつもりもなかったのだ。私は毎日灯りの点いた家へと帰り、あたたかい湯に浸かって、美味しい料理を食べ、安心する人たちの気配を感じながら眠りにつく。これがどれだけ幸福なことか。それだけではない。二人の少女を預け安心して教祖活動を行えること。彼女が呪術師として生きる道を私が塞いでしまっているということ。なによりも彼女が望んだ答えを、私が永遠に返せないということ。どれだけ悔やんでも、感謝してもしきれない。私は幸福を感じる度に、この日々を終わらせなければいけないと強く思うのだ。
「なまえさん」
「ん? どうしたの?」
「いつも、ありがとうございます」
「もう……なに急に」
彼女は一瞬照れたようにはにかんだけれど、私の表情を見てゆっくりと眉尻を下げた。そうして私の頬に手を添えて、するりと優しく指の腹でなぞる。どこまでも慈しみに満ちた、美しい秋空のような瞳が私を射抜いて、どこか穏やかな気持ちになっていくのと同時に泣きたくなるほど感情が溢れていく。
「私は夏油くんに守られてきたよ」
「そんなこと、ない」
「ううん。それにこれからも夏油くんが私たちを守ろうとしてくれていることも知ってる。だから、こちらこそありがとう」
あたたかな手と眼差し。透明な風に乗って送られる言葉たちが幾つも私に溶けていく。その度に、体内を廻る禍々しきものたちもどこか消えていくような心地がした。奥底で澱んでいくそれらが、まるで浄化されるように。込められた想いが、送られる全てが、私を生かしている。私は生きている。そうしてこれからも、私は守るべきものを守るために生きていく。
菊の香りがした。さわさわと音を立てながら、空高く舞っていくように。すると蒼穹の中、美々子と菜々子が浮かばせたしゃぼん玉たちが風と共にゆらゆらと流れていくのが見えた。それらはどこまでも澄んだ空の遥か彼方、過去の夏に置き去りにされた彼の元まで飛んでいくようだった。私は生きている。どこまでも幸福だった。彼女から与えられるものはいつだって目に見えるものではないけれど、確かに私の中に届いていて私を作っている。そしてそれらはこれから先、永遠に私から消えゆくことはないだろう。
この日々は限りがある。それは私も彼女も十分に理解していた。しかしそれでも。それでも今はまだもう少しだけ。私は溢れ出しそうな感情に思わずそっと目を閉じて、ほんの少しだけ彼女の手に擦り寄った。すると彼女は僅かに吐息を揺らして、眦をゆっくりと親指でなぞる。やはりあの日、彼女にはバレていたらしい。
美々子と菜々子が私たちを呼んでいる。すると彼女もまた私の名前を呼んで、私の指先を優しく握った。目を開けると、そこにはいつもと変わらない景色と日常。巡る季節の中、私はこの家で幾度となく四季を過ごしてきた。冬も。春も。夏も。そして今は。
再会を選択した秋。本日は清澄なる菊日和。
あとがき
夏油が離反したあとの話はこれまでほとんど書いてきませんでしたが、彼の人生は離反したのちも変わらず続いていて、平凡な日常も送っていたのだろうという想像から生まれました。またそんな彼が少しでも健やかな日々が送れるようにと願いを込めて。
菊日和とは菊の香りが沁み透るように澄んだ秋の日のこと。また穏やかな晴天をさします。終わりある小さな幸せは時に切なくなったり悲しくなったりすることもあるかと思いますが、その瞬間の幸福はどれだけ時が経とうとも消えることはなくそれぞれの中に残り続けるものであると思い、また彼らがそうであったらいいなと思い、これを綴りました。