勿論。それだけではなかったけれど、確かにわたしは憧れを抱いていたのだと思う。幼い頃、母に手を引かれながらその様子を眺めていた時も。学校の帰り道、わたしを追い越していくクラスメイトの会話が聞こえた時も。本当は、世間一般的な普通が、羨ましいと思っていたのだ。そしてそれを、わたしは今になってようやく気づいた。夏のギラギラとした鋭い日差しを真っ黒な制服がぐんぐんと吸い取っていく。目眩がしてしまいそうなほど暑い午後。滲む汗を拭おうとしたわたしの隣を、丁度同い年くらいの女の子が涼やかな格好で走り去っていった。
一、
高専に入学してから、一年と数ヶ月の時が過ぎた。そして今年の夏は昨年頻発した災害のせいでうんと忙しかった。不安や恐れなどの感情は人々を憔悴させ、揺らげば揺らぐほど様々なものへと変化していき、時に攻撃的なものへと変わっていく。
呪い。それは酷く疎遠なものに感じるけれど、実際は身近なものであり、人々の負の感情がひしめき合うと呪霊という存在になる。そして高専に通うわたしたちは、それを祓う呪術師だ。
幼い頃から、その呪霊が見えた。そしてそれは一般的な普通のことではなかった。周りに見えぬものが見える。他人とわかり合えない事実は、少しずつ距離を作った。周りの普通は、わたしにとって普通ではなかった。
しばらく前、梅雨が明けた。丁度その境目で夏服に衣替えをしたけれど、身を守るためにきっちりと肌を覆うこの黒い制服ではほとんど意味がないように思えた。わたしはハッと熱い息を吐き出して最後の一振りに力を込める。
「それで最後の一体かな?」
目の前にいた呪霊の姿が見えなくなった時、ふと、今日の任務に共に就いていた傑先輩の声が背後から聞こえた。
「多分、そうだと思います」
「怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
普段ならば同期である灰原くんや七海くんと共に任務に向かうことがほとんどであるが、近頃は忙しくなってきてバラバラになることも多かった。そして今日、二人は別の任務地へ。わたしは傑先輩と高専から少し離れた地域に任務に就いていた。
街の外れにある、古びた廃校。中はまるで夏休み前に見た風景とほとんど同じであると言っても過言ではないほど物が置かれたままであったが、廃校になって幾らかの年が過ぎ、酷く風化していた。最後の日から、時間が止まってしまったかのように。
学校などの、人々が集まる場所は呪いが生まれやすい。今までもこの学校から生まれた呪いはたくさんあるだろう。そしてそういう場所には人々がいなくなったあとでも呪霊が一時的に留まる場所になりやすかった。加えて、近頃呪霊の数が溢れるくらい増加した。それに比例してそういう場所に留まる呪霊も多くなっていくのは至極当然のことであった。
傑先輩はわたしの言葉を確かめるようにじっと見下ろすと、まるでなにかを拭うようにわたしの頬に親指を滑らせる。二人の関係性に名前がつくようになってから、彼はこうしてわたしに触れる機会が多くなった。
「ん、じゃあ帰ろうか」
その動きに一切の無駄はなかった。暑いから手汗をかいているだとか、動き回って埃がついてしまっているだとか、解く理由を言わせぬように手早く、しかし緩やかな手つきでわたしの手を取ってそっと導いていく。高専の廊下とは少し違った、しかし見慣れたような中学校によく似た廊下を彼と手を繋いで歩くのはなんだか不思議な感覚がした。もしも、なんて、もう終わってしまった過去の有りもしない想像をした。わたしたちが呪術師でなかったら。廃校ではなく、普通の、人々が多く通う学校にわたしたちも毎日のように通学して、こんな風に廊下を歩いていただろうか。その瞬間、幻想から知らない夏の匂いがしたような気がした。
廃校を出て、二人で街へ向かい歩いた。それほど高専から遠くないことから今日は二人でこの地まで赴いていた。わたしたちが忙しく各地に飛び回っているように、補助監督たちもまた同じように忙しい日々を送っているからだ。
日が傾くにはまだ少し早い。照り付ける日差しにじっとりと汗が滲むのを感じながら、わたしたちは日陰を縫うように歩く。すると人がちらほらと見え始めた時、遠くから懐かしい音が響いた。それは毎年夏になれば、各々決まった日に響き渡る音であった。
「お祭りかな」
「そういえば今日、土曜日でしたね」
再び、どおん、と空気が震える。そうして次第に見える建物が増えていけば、その音も比例して大きく鳴り響いた。わたしたちが歩く道沿いではなさそうだが、すぐ近くでお祭りが行われるのは明白だろう。道を歩く人々の数が多くなっていく。そしてその中には同じ年頃の男女がわたしたちと同じように並んで歩いている姿も見えた。女の子の方は可憐な百合模様の浴衣を着て、慣れぬ下駄に戸惑いながらも隣に立つ男の子の手を握る。
「なまえ、危ないよ」
視界を遮るように、傑先輩はわたしの手を引いて歩道の更に奥へと導いた。偶然か、はたまた本当にそれを避けようと思ったのか、わたしたちの横を自転車が通り過ぎる。繋いだ手が解かれてわたしの腰に回った。
「お祭りはすき?」
傑先輩は一度もその浴衣姿の二人に視線を移すことはなく、先程の続きを促すようにそう言った。しかし彼は、わたしにお祭りに行きたいかとは尋ねなかった。
「多分、すきです。傑先輩は?」
「私も、嫌いじゃないよ。まあ最近は行ってないけど……でもなまえの浴衣姿は見てみたいな」
絶対可愛いだろうから。
彼はそこまで言い切るまで前を向いたままであったが、沈黙が続いたあとわざとらしくゆっくりとわたしに視線を送った。そうして黙り込むわたしの目元に、腰に手を回していたはずの指をそっと這わす。「あついね」彼は緩やかに、全てを理解しているように破顔した。
二、
冷房の効いた電車やバスを乗り継いで高専まで戻る。大きな門を潜る頃には薄らと星が見えていたが、それでも蒸し暑い夏の空気が消えることはなく、下から湧き上がるように緑の匂いがした。校舎に足を踏み入れた頃に自然と互いの手は解かれて、今回の任務の調査に当たった補助監督に報告をする。室内には何人もの人が残っており、わたしたちが入室しても誰一人として作業する手を止めない。傑先輩は慣れた様子で奥へと入っていき、その時の状況を簡潔に、しかし丁寧に担当の補助監督に説明した。
「ご苦労様でした。まあ、お二人ならそれほど難しくはなかったかと思いますが」
それは二人ではなく、傑先輩がいるから、のように聞こえたのはわたしだけだったのだろうか。補助監督は積み重なったファイルの一番上に置かれた書類を手に取り、空欄を手早く埋めていくと、右下の枠の中に判子を押す。「ではあとはこちらで纏めておきます」その一言で今回の任務が本当に終了したことを告げる。わたしたちは静かに一礼をしたあと、元の道を辿って出入り口を目指した。「ああ、そうだ」背後から、なにかを言い忘れていたかのように補助監督が声をかけた。
「なにかありましたか」
答えたのは傑先輩だ。
「いや、任務の話ではないんですが、この間調査に向かった時にこれをもらって。私よりも夏油くんたちの方がいいだろうから」
そう言って補助監督はデスクの引き出しを開けると、一番手前に配置されていた白くて薄い長方形を手に取って傑先輩に持たせた。それは和紙によって丁寧に包まれており、中は見えない。「これは……?」傑先輩は細長いそれを少しだけ持ち上げた。
「線香花火ですよ。少し地味かもしれませんが、中々見に行くことも出来ないでしょう」
「わざわざありがとうございます」
「案外いいですよ。お二人でやるのもまた」
二つの瞳が、わたしと傑先輩を交互に射抜く。途端に汗が滲んだが、目の前にいる傑先輩は「そうですね。今度の休み、是非彼女とやろうと思います」といつもと変わらぬトーンで会話を続けた。わたしたちは今度こそ一礼をして部屋を出た。
「……真っ赤」
「だ、だって……」
「案外知ってるんだね、私たちのこと」
「初めて、言われました」
傑先輩はちっとも照れている様子はなく、くすくすと笑いながら深く屈んでわたしの顔を覗き見た。誰もいないけれど、誰が通るかもわからない廊下は既に薄暗く、夜の虫たちが各々鳴き声を上げている。彼はなにも言わずに、ゆっくりと、わたしの唇に口づけを落とした。
「っ、きゅう、に」
「したくなっちゃった……照れてて可愛いから」
鼻の先がぶつかってしまうほど近い距離で、傑先輩は囁くように言った。そうしてもう一度、今度は小さく音を鳴らして口づける。わたしは恥ずかしくなって両手で唇を覆った。
「あらら、もう一回くらいしたかったのに」
「ここは、駄目」
「ここじゃなきゃいいの?」
「……なんだか今日、意地悪です」
「そうかな」
一度は白々しく躱したけれど、傑先輩はそのあと「ちょっと妬いたのかも」とわたしの両手首を掴んでからそう言った。いつ、どこで、なにに。考えてみても、わからない。わからなかったけれど、彼がそう言うのならわたしはそのあとに続けられた三度目の口づけを抵抗しようとは思わなかった。
三、
すきな人に可愛く見られたいという気持ちは時に大きな行動力になるのだと、わたしは身をもって強く実感していた。あの線香花火は傑先輩が言った通り、互いの休みにすることになった。しかし目まぐるしいほど忙しい夏の日々はそう簡単にわたしたちに揃って休みを与えてくれることもせず、あの日からしばらくの時間が経過していた。それもあって、わたしは悩みながらもそれを用意してしまったのだ。優雅に泳ぐ赤い金魚と、水面をたゆたう浮き玉のような瑠璃色の鞠が綿紅梅の涼しげな白の中に描かれている。高専に身を置く以上着る機会がないと実家に置いてきたそれは、以前母がわたしに送ってくれた大切な浴衣であった。
無理を言ってわざわざ送ってもらった浴衣は丁寧にたとう紙に包まれており、何度か着ているはずなのにピンと皺が伸ばされている。紙の擦れる音がして少しだけそれを持ち上げれば、普段は嗅ぐことのない、古風で、少し堅い花のような香りがした。
手持ち花火をするだけだ。それだけのために、わざわざ着るほどでもないだろう。しかしあの日の傑先輩の言葉が、そしてあの男女の姿が、わたしの頭の中に何度も浮かんでは消え、またすぐに浮かんでくる。丁度彼は今日これから長期任務から戻ってくる予定だ。そしてその夕方頃、線香花火を行うことになっている。どうしよう。しかしこれを着れば、彼が喜ぶことは目に見えていた。
瞬間、規則的な電子音が響いて、思わず心臓が飛び跳ねた。携帯を開かずとも点滅された色によってその相手が傑先輩だということがわかる。三コール目が鳴り終わる頃にわたしは通話ボタンを押して、「もしもし」と平常を装って挨拶をした。しかし彼はそれすらも簡単に見破り、「あれ? なにかあった?」と鋭くわたしに問いかける。
「いえ、なにも。傑先輩はもうすぐですか?」
「いや、実は早めに終わってもう高専に着いてるんだ。だから今なまえの部屋に向かおうかと思ってるんだけど、大丈夫そう?」
「え、っと……大丈夫、じゃないです」
傑先輩は「もしかして部屋にいない?」と特に気にする様子もなくそう言った。しかしわたしは簡単な嘘すらつくことも出来ず、「いや、いますけど……」とはっきりとしない答えをもごもごと告げる。彼は「まあもう着くんだけど」とあっけらかんと言った。
「えっ、」
「部屋が汚い……はなまえのことだからないか。なにか見られたくないとか? いいよ、終わるまで待ってる」
「……いや、開けます……開けます」
無理しなくてもいいよ、と続けられた声はちっともそんな風に思っているようには聞こえない。「わざとですよね」と少しだけ咎めるように尋ねてみると、「本気で嫌がってたら向かってないよ」と彼は遠回しに肯定した。トントン、と扉が叩かれる音がする。わたしは生成色の紙を折り畳んでゆっくりとその扉を開けた。
「思ったより早かったね」
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
傑先輩はするりと部屋の中に入り込むと、その大きな体を深く折り曲げてわたしを強く抱きしめる。「生き返る……」ぼそりと呟いた彼の言葉には返事をしなかった。代わりに、その広い背中にゆっくりと腕を回した。
「中入ってもいい?」
「……駄目って言っても入りますよね?」
「やだな、そんなことしないよ」
傑先輩はそのままわたしを抱き上げて廊下の奥へと進んでいく。まだ返事していないのに、と心の中で思ったけれど、それよりも久しぶりに会えた喜びの方が強かった。腕を回し、そっと首元に擦り寄る。耳元で微かに彼が笑ったような気がした。
別段いつもと変わらない部屋の内装に彼は少しだけ首を傾げた。しかしベッドの上に乗せられた生成色の紙に気づくと、ピタリと足を止め、僅かに目を見開く。思わず、首元に回した腕に力を込めた。彼はわたしを抱いたままベッドに腰掛けると、隣に並んだその紙をぺらりと捲る。
「私が見たいって言ったから?」
「…………」
「ねえ、なまえ。こっち見て」
「……顔、熱いので嫌です」
「キスしたい……駄目?」
囁いてから、ゆっくりとわたしの後頭部を撫でる。狡い人だ。まるで初めから断られると思っていないような手つきと甘い声。しかし従順に顔を持ち上げず、強請るように肩に縋るわたしもまた狡い人間だと思う。傑先輩は全てを理解しているかのように、わたしの耳元に唇を寄せて何度もわたしの名前を囁いた。そうしてそろりと顔を上げた時には、おそらくわたしは真っ赤になっていただろうし、少しだけ満たされた表情をしていたと思う。やっと向き合った瞬間、彼はすかさずわたしの唇を奪った。
「着てくれる?」
「花火するだけって思いませんか?」
「なまえが私のために用意してくれたんだろう? 思うわけないさ」
傑先輩の艶やかな濡羽色の髪がわたしの頬を掠める。日が暮れるまではまだ時間があった。
四、
高専の敷地はとても広い。それこそ、全ての建物や場所をひとつひとつ覚えているのも難しいくらいに。
わたしたちが普段よくいる校舎や寮、それから事務室などの人の出入りが多い建物があるずっとずっと奥の方。山に面しているため傾斜を登った先にある小さな広場のようなところは、果たしてなんのために存在するのだろうか。からん、ころん、と軽やかで心地よい音が響くだけで、あの日の任務帰りにに見たお祭りの景色が目に浮かぶよう。日が傾き始め、地面の端の方から薄らと瑠璃色が滲んでいる空は酷く情緒的で美しい。普段は古めかしいと感じる高専内の景色が、より一層趣があるように思えた。
階段で転ばないように浴衣の合わせ目に指先を添えて注意深く足元を見る。石畳の道の脇には青々とした緑が生い茂り、名も知らない小さな花がぬるい風に揺られてさわさわと音を立てた。前を歩く彼がわたしの手を取る。ゆっくりとその場所に向かう間、わたしたちはほとんど言葉を口にすることはなかったが、瞳だけは、視線だけは、しっかりと交わっていた。
奥まったところにあるその小さな空間には当然ながら誰もいなかった。木々の隙間から見下ろすように視線を送れば、普段わたしたちが過ごす寮や校舎の灯りがぼんやりと見える。傑先輩は丁寧に包まれた和紙を捲って、これまた同じ色の和紙で作られた線香花火をわたしに手渡した。ほんのりと香る火薬の匂いと夏夜の風の匂いが混じれば、どこか懐かしい気分になる。目の前で蝋燭の炎がゆらゆらと揺れた。
傑先輩がその蝋燭の炎の上にそっと和紙を近づけたあと、わたしもそれに倣って同じように炎を渡らせる。そうしてしばらくするとその和紙の先にあたたかな橙色の光の粒が大きく膨らみ始めた。まるで命が芽吹くように、そっと、期待を膨らませて。
「名前があるんだって」
パチッ、と、光の粒から弾けるように淡い火花が瞬いた。わたしは隣にしゃがみ込む傑先輩に視線を移す。彼は、火花を散らす線香花火を真っ直ぐと見つめていた。頬にはその薄明かりによって高い鼻の影が色濃く映っていた。
「牡丹」
「花の名前、ですか?」
「うん。で、これが松葉」
なんの事柄かようやく理解したところで、わたしは先程よりもより一層強く瞬き始めたそれに視線を戻した。暗闇であるため、四方八方に淡く弾ける橙色が幻想的に浮かぶように見える。色のコントラストははっきりとしているはずなのに、その姿はどこまでも儚い。それでも、奥底に感じる力強さは確かにあった。
次第にパチパチと強く弾けるような音からしっとりとした鈍い音が混じっていく。激しく瞬いていた先程とは打って変わって、美しい曲線を描くように火花が散り始めた。傑先輩は「散り菊」とだけ呟く。それがこの瞬きの名前だということはもう聞かずとも理解出来た。
「この瞬間がすきかも知れません。儚いけれど、今までの美しさの余韻を残して、最後まで優美に咲く花のようで」
傑先輩はなにも答えなかった。小さく散っていた火花はいつしか音がしなくなり、やがて終わりを迎えることを告げる。先に音がしなくなったのは彼の持つ線香花火であった。ゆっくりと、光の粒が小さくなっていく。すると突然、視界を遮られたあと彼の唇がわたしの唇に触れた。
「なまえ、」
先程まで瞬いていたあの線香花火の火花が見えたような気がした。真っ直ぐとわたしを射抜くその視線にわたしは身動きも取れないまま、彼の瞳の奥に見える淡い光をただただ見つめる。もう一度熱い唇が合わさる頃、赤い、旱星のような火の玉がわたしの指先、そして紙の先から、音もなく、いつの間にか落ちていった。
なんてことのない夏夜の記憶。しかし、わたしたちが過ごしたこの一瞬は奇跡のような時間でもあった。
あとがき
夏油を含めたそれぞれが揺らいでいたこの頃、なんてことのない夏の日々の中にこれまで歩んできた様々な違いと変化をふとした瞬間に感じたりだとか、瞬く線香花火の中に自分たちの生活や命を重ねたりだとか、そういう刹那的な部分を表現したかったです。
旱星とは夏の夜に日照りを象徴するような赤い星のことを言うらしく、また線香花火は人生にたとえられることもあります。最後の小さな火の玉を自分の命だと考えた時、夏油は彼女にその瞬間を見せたくない、またその瞬間(自分と彼女の死)が訪れるという現実から逃避したいと思うのではないかと考え、この締めくくり方にしました。