※当時の高専が五年制という設定
春になると私は呼吸をすることが困難になる。しかしそれでも嫌いになれないのは、君と出会ったのもまた同じ春だったからだ。
一、
「そろそろ午後の授業始まるよー」
懐かしい声が鼓膜を揺らした。温んだ透明な水のような、すっと耳を通る高すぎない心地のよい音程。微睡みから浮上し薄らと瞼を持ち上げると、そこにはこれまた懐かしい同級生が目の前にいて、私の顔を覗き込んでいた。
「は……?」
「随分な目覚めの挨拶だね」
「なんで、君がいるんだ」
「なんでって、そりゃあ夏油くんが午後の授業に間に合わなさそうだから起こしてこいって言われたからだよ」
「なにを言っているんだ?」
「それはこっちの台詞なんだけどな。なにか夢でも見てた?」
「夢……?」
どうやら私は勉強机にうつ伏せになった状態で眠っていたらしく、上体を起こすと首や肩のあたりにぎこちなさを覚えた。勉強机。高専の教室。間違いなく私が過去に過ごしていた場所と寸分変わらぬ景色に、少しずつ思考が冴えていく。ああそうか夢か。ぐるりと辺りを見渡してから、同級生の言葉を思い返す。正しく言えば、見ていたのではなく今現在がそのようだった。
机の前にしゃがみこんでいる同級生、みょうじなまえは不思議そうな表情を浮かべながら私を見つめている。悪意や恨みなどとは無縁そうな、素朴な少女。そして、私にとって特別だった子。
「ああ、なんでもない。どうやら夢を見ていたみたいだ。それで、なんだっけ?」
「びっくりした。お化けでも見たような顔するんだもん。あと十分くらいで午後の授業始まるのに全然来ないから、五条くんが起こしてこいって」
「……なるほど。わざわざすまないね」
「いいえ。夏油くんがこんなに居眠りするなんて珍しいね。昨日の任務、大変だった?」
教室を抜けると、わずかに春の気配を漂わせた温い空気が肌をなぞった。窓から見える大きな木々には桜色の花は咲いていないけれど、蕾が膨らみかけている。それでいてガラス越しに降り注ぐ陽射しは眩しくてやわらかい。制服のポケットに仕舞われた携帯電話を確認してみれば、画面には二〇〇六年三月二〇日と表記されていた。
「そんなことなかったけど、なんだろうね、春だからかな」
「今日あったかいもんね。夏油くんは春好き?」
懐かしい登場人物が織り成す架空の夢かと思いきや、そうでもないらしい。はっきりとは覚えていないけれど、こんなシーンもあったような気がする。確かこのとき、私は好きだよと答えたはずだ。目の前を歩く小さな背中を眺めながら、無意識伸びた左手を制すために拳を握る。
「そうだね、好きだよ」
昔は、だけれど。
なんとももどかしい夢を見せられたものだ。一年目の三月。お互いのことをなんとなく理解し合って、居心地のよかった時期。まだあの春の事件だって起きていなければ、後輩すら来ていない。自分の目的や使命に、まだ疑いを持っていなかったころの夢を見せるなど。
「……もしかして今日あんまり体調よくない?」
「どうして?」
「なんとなく。いつもと雰囲気が違うというか、元気がないというか……なにかあったのかなって」
「ああそうだ、君はそういう子だった」
困った表情を浮かべつつも、なまえは心配そうに私の顔を覗き込んだ。もどかしいけれど、夢とわかっているならそう難しいことは考えなくていい。手が届く間合いに踏み込んだ彼女に手を伸ばし、するりと滑らかな頬をなぞる。現実であったならもう少し背は伸びているだろうか。しかし自分もこのあと数センチであるが成長したことを考えれば、それほど差は変わらないのかもしれない。やわらかさに目を細めつつ、戸惑う彼女にどうしてだか泣きそうな気持ちになった。
「……夏油くん?」
「やっぱりいい夢なのかもしれないな」
「さっき見た夢……?」
「ああ」
鼻の先がぶつかってしまいそうなほど顔を寄せれば、なまえは驚いたように目を見開いて固まった。こんな夢を見せるくらいなら、多少のわがままは許してもらいたい。現実では叶わないのだから。細い手首を捉えて、唇にキスを落とす。どこか木の温もりを感じるような長閑な昼下がりの廊下で、私はしばらくぶりに春を穏やかだと感じた。
二、
私たちの学年は揃いも揃って変わり者ばかりだったと思う。悟は言わずもがな、硝子だって他の女の子とは比べ物にならないほど淡白で大人びていたし、私自身人と違うことを自覚していた。そしてそれは例に漏れずなまえもそうだった。
どこか浮世離れした雰囲気を持っていた。いつも穏やかで、悟のように声を荒らげることも、硝子のように不満を滲ませることもない。我儘を言うこともなければ、そもそもの自己主張が薄いような子だった。四人で過ごすときには必ず一番後ろにいたし、私と悟が喧嘩をしたときだって遠巻きで眺めているだけ。しかし無関心かと言えばそうでもなく、四人で過ごす時間はとても楽しんでいたように見えたし、気さくなところもあって後に来るひとつ下の後輩と一緒にいるところもよく見かけた。
人付き合いにとてもフラットな子だったから、思春期によくある女の子同士で行動する、なんてこともなかった。だから硝子がふらりと姿を消したときに、彼女がそれに着いていくこともないわけで、ときどき私と彼女が二人きりになるシーンもあった。教室や、寮の共有部屋など。また当然ながら任務中に二手に分かれたり、彼女と二人きりの任務もあったのでそれなりに交友はあった。
彼女との会話は声を上げて笑うことこそほとんどなかったけれど、いつだって心が凪いでいくような心地になった。私はその時間を含め、彼女のことを好ましく思っていた。姿勢が正しいだとか、食事のときに音を立てないだとか、字が綺麗だとか。もっと言うなら話すときは伏し目がちになるものの、最後にはじっとこちらを見上げるところだとか。そういう部分も含めて、彼女のことを好いていた。そうして彼女も、私に対して好意的な感情を抱いていたと思う。
具体的な日時は覚えていないが、二人で過ごす時間が多くなってきて、私たちは凡そ友人とは呼べないような距離感にまで進展した。休日に二人でどこかへ出かけたり、私の部屋でDVDを見たり。またなまえが私に触れたり、私が彼女に触れる機会も増えた。悟に付き合っているのかと尋ねられたこともあった。しかし互いに好きだとかそういう話は一切したことはなく、手を繋ぐことはあれどそれ以上のことは決してなかった。彼女が好意的な感情を抱いていることに気づいてはいたが、それが私と同じものかわからなかったからだ。
しかしそれはあくまで当時の話だ。現在の私はその先を知っている。高専を離れた最後、硝子に「なまえの気持ちを考えたことがあるのか」と言われたのだから。そのころには私たちの関係は更に拗れていて、名前はないが恋人のような位置関係にいた。もちろん硝子に言われずとも既になまえの気持ちには気付いていて、私も彼女に対し恋人のように接していたけれど、それでも言えなかった。けれど手放すこともできずに、私の部屋で朝を迎えたことも何度もあった。
三、
違和感を感じたのは夢を見た日から一日、二日、と日を重ねていって一週間を過ぎたころ。懐かしい夢は一向に覚めることはなく、むしろ夢のなかで夢を見るほどリアルな日々が続いていた。行動や意志もなにもかもが自由で、先日の実技の授業の際には「お前、なんかした?」と悟に疑いをかけられるほど。そのときは夢だからと大して気にもとめていなかったが、流石にここまで来ると疑心を抱くようになる。これが夢でないという可能性について。
瞬時に浮かび上がったひとつの可能性は、これが夢ではなく取り込んだ呪霊のせいであるということ。確かにこの夢をみる前日、一級相当の呪霊を取り込んだ。もう少し出会うのが遅ければ特級にまで膨れ上がりそうな呪いだった。時間や空間に作用するような能力は持っていなかったはずだが、一概に無関係とも言えないタイミングだろう。そもそも取り込んだ呪霊が原因となると調伏不全ということになるので、別の呪霊の可能性も高い。
そうなると浮上してくる問題はこの日々を終わらせる方法と、終わらなかった場合またあの時間を過ごさねばならないという憂鬱さについてだった。前者でいえば、まずこの空間が呪霊のせいなのか、はたまた私自身が呪霊のせいでここにいるのかという部分がはっきりしなくては、策は大きく変わってくる。しかし普段生活をしているなかで呪霊の気配は全く感じないし、異変などもない。先の見えない現状に、私は多少なりとも倦厭していた。
* * *
「今年の新入生、二人来るんだって。どんな子だろうね」
いっそう春の陽気が強まった三月末。なまえは声を弾ませながらそう言って、昨日のままだった日めくりカレンダーをペラリと捲り、それを折り畳みながら二人掛けソファに座る私の隣へと腰掛けた。休日の共有部屋には私たち以外に誰もおらず、寧静な空気に包まれている。
夢だと思い込んでいたあの日、私は彼女にキスをした。このころの私たちはスキンシップは増えていたものの、唇が触れたことは一度もなかった。記憶が正しければ、初めてキスをしたのは春を過ぎたころ、任務終わりの薄暗いバス停でだったはずだ。夏の雰囲気を漂わせた、湿っぽい空気のなかで触れるだけのキスを。
なので実際よりも早くキスをしてしまったことになるが、彼女は驚いたようにまばたきを繰り返しただけでそれ以上の反応はなかった。もしかしたら突然のことに驚き固まっていたのかもしれないが、同様に動きを鈍らせた私の名前を呼ぶだけだった。大抵夢というのはいいところで終わるのがお約束なので、あの瞬間の私もそう思い込み軽率にとった行動だったが、予想に反して覚めることがなかったので内心動揺していたのだ。そしてさらにそのあとも彼女の態度は以前となにも変わらなかった。あまりにも平然としすぎて少々不満に思うほど。
私は形だけの読書のために開かれた文庫本から目を離してから、いつか見た後輩二人と談笑するなまえを思い浮かべて、「君と気が合うんじゃないかな」と言った。
「いつ新入生に会ったの?」
「……内緒」
「仲間はずれ?」
「そんなことないよ。私だけさ」
脳裏に浮かんだのは後輩二人の姿だ。底抜けに明るくて一途な灰原と、思慮深くて巻き込まれやすい七海。高専に来て一番最初に話したのは、確か彼らが入学して数日後のことだった。
「どうかした?」
「やっぱり夏油くん、この間からなんかちょっと変」
「そうかな」
「うん」
「別になにも変わらないよ。前からこうだったんだ」
「……そうかな」
「うん、そう。そうだったんだよ」
これでおしまいだというように、パタンと本を閉じてから表紙を撫でる。するとなまえはその上から覆うようにそっと手のひらを乗せて、隙間に指を滑り込ませると、「夏油くんは案外怖がりなのかな」と思いも寄らない言葉を告げた。私は数瞬固まって、息をのんだ。
「……生まれて初めてそんなことを言われたよ」
「うん、わたしも、初めて夏油くんのことそう見えた」
「今も怖がっているように見える?」
「少しだけ」
なまえは私の手を両手で包むと膝の上まで持っていき、まるで安心させるようにするすると撫でた。そうしていつものように目を伏せる。長い睫毛は少しだけ震えているように見えた。
「わたし、なにかしちゃった?」
「なにかって、」
「ときどき泣きそうな顔とか怖い顔とかするの、もしかして自覚ない?」
ぱちっと、目が合った。私はこの瞬間が好きだったのに、今だけは恐ろしくて堪らなかった。理由なんてわかりきっている。しかしそれを彼女に言うことはできなくて、私は開きかけた口を結んで押し黙った。
なまえの包み込んでいた手が離れる。すると今度は私の頬に添えて、少しだけ腰を上げて顔を寄せた。思わず逃げ腰になった私に、彼女はまるで初めからわかっていたように腕に力をこめて留めようとする。そうして鼻先がぶつかってしまうほどの距離まで近づくと、彼女の唇が私の唇に押し当てられた。
「っ、なまえ!」
「最初にしたのは夏油くんだよ」
咄嗟に肩を掴み引き離すと、眉尻を下げて困惑したような表情をする彼女がいた。
「なまえ、私は……」
「……怒ってると思った?」
「……わからない」
情けない声が出た。自然と視線は落ちていき、やがて瞼を閉じる。すると頭の上になにかが乗せられてするすると下っていくと、再び頭の上に戻っていって同じように下っていった。それが彼女の手のひらであると理解したとき、私は頭を抱えられようにして抱きしめられていた。やわらかな感触、あたたかな温もり、よく知った匂い。三年目の春、こうして彼女の存在を感じながら朝を迎えたことを思い出した。ここが共有の部屋であることなどすっかり忘れ、私は彼女の背に腕を回す。記憶と変わらず、彼女は細くてやわらかかった。
「じゃあ怖がりな夏油くんに教えてあげる。わたし、怒ってるよ。なにも言えなかったこと。なにも言ってくれなかったこと。どっちにもね、怒ってるの」
わからないと言ったが、わかっていた。なまえは私に怒ってなどいないこと。平然な振りをしていただけだということ。本当は初めから私と同じ気持ちだったということ。わかった上で、言えなかった。名前をつけてしまえば、いつか取り返しのつかないことになると思ったから。言葉にせずとも私たちの関係はどう見たって明らかだったから、もはや屁理屈に近いのもわかっているのだけれど、それでも言わなければ許されると思ったのだ。そしてそれが過ちだと気付いたのは、あの村で村人を外へ誘導したときだった。
四、
懐かしい声が鼓膜を揺らした。温んだ透明な水のような、すっと耳を通る高すぎない心地のよい音程。微睡みから浮上し薄らと瞼を持ち上げると、そこには見慣れた天井が映り、両隣に眠る二人の少女の寝息が聞こえた。どうやら私は夢を見ていたらしい。少女たちを起こさぬようにそっと状態を起こし携帯を開けば、画面には二〇一〇年三月二〇日と表記されている。カーテンの隙間から見える外の景色はまだ明るく、転寝をしてからそれほど時間は経っていないようだった。
* * *
数日後。私は高専から少し離れた閑静な街の、住宅に囲まれた公園でなまえが来るのを待っていた。とうに日は沈み、公園内に私以外の人はおらず、砂場付近に設置された街灯がぼんやりと遊具を照らしている。私は入口にある車止めに腰掛け、地面を見つめた。
しばらくして私の耳に届いたのは、こつこつとヒールがアスファルトを鳴らす音だった。そうしてそれは真っ直ぐとこちらへと向かってきて、やがてぴたりと止まる。私は顔を上げた。すると目の前にはあの夢よりも幾らか髪の伸びたなまえが、泣きそうな顔をして私を見下ろしていた。
「……どうして、ここにいるの」
「君に会いに。謝りにきた」
高専を離れるとき、なまえとは会わなかった。会えなかった。だから最後の会話はあの任務に向かう前に私の部屋で交わした、「行ってらっしゃい」と「帰ってくるときまたここにいて」だった。
「なにを謝りに?」
なまえの声はわずかに震えていた。私は彼女がこれほどまで感情的になっているところを初めて見たような気がした。
「なまえを忘れられなかったこと」
瞬間彼女は目を見開いて、ぽろぽろと涙を流して泣いた。それは頬を伝ってアスファルトの上へと落ちていき、水玉模様を作っていく。
こんなにも泣けるのかと思った。とめどなく溢れるそれを拭うこともせず嗚咽する姿に、なにもかも捨ててしまいたくなって思わず手を伸ばす。拒絶されるかとも思ったが、彼女はされるがまま私の腕のなかに収まってそっと私の服を握りしめた。背に回した手のひらはあのころと同じところに行きついて、私たちは隙間なく密着する。鼻腔を擽る彼女の匂い、服越しに感じる体温、触れた肌のやわらかさ。なにもかもがあの夢の、記憶のままで、涙腺を緩ませる。
「帰れなくてごめん」
「うん、いいよ」
「……怒ってよ」
「だって怒ってないもの」
嘘つきだと夢のなかの彼女に言った。怒られたなら、どれだけ楽だっただろう。そうして私を許さないで欲しかった。
四月に入ったとはいえ夜はまだ肌寒く、ひんやりとした冷たい夜風が公園内を抜ける。すると彼女は少しだけ身震いして昔のように私に擦り寄った。
「わたし、呪術師やめるの」
「知ってる」
「どうして夏油くんが知ってるの?」
「……内緒」
「夏油くんって本当そればっかり」
ここに私がいる時点で察しているのか、それ以上なまえが尋ねることはなく私の服に顔をうずめて固まった。そうしてしばらくして、「最後に我儘を聞いて欲しいの」と小さな声で呟いた。
「私に叶えられることなら、なんでも」
言い淀むようにわずかに目を伏せたのち、私を見上げ視線が絡む。それは私がずっと好きだった仕草だった。
「これからもずっと私を忘れないで」
私の頬に手を伸ばしたので、屈んでなまえのキスを受け入れた。そうして華奢な体を閉じ込めるように抱きしめた。堪えるようにきつく目を閉じたので彼女の表情はわからなかったけれど、それでよかったのだと思う。知ってしまったらもっと堪えられなくなるだろうから。
「卒業おめでとう」
なまえはもう一度私に顔をうずめると、「うん」とだけ呟いてそっと私から離れる。すると再び春の夜風が吹いて、公園内に咲く桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。入学した初日、あのときは昼間だったけれどこんな風に桜が舞っていて、彼女にとてもよく似合っていて、私はあのとき、柄にもなく君に一目惚れをしたんだ。
案外春が苦手な人って多いような気がします。また夏油もそうなんじゃないかなと思っています。名前をつけられない関係性が個人的に好きで、なんとなく季節的にも春が一番そんな雰囲気あるなあと思ったので前々から春の話だけはぼんやりと決まってました。
春眠とは春の夜の快い眠り、また春の眠りという意味だそうです。ただの夢だと言われてしまえばそれまでですが、思いがけない夢は案外人を動かすきっかけになるんじゃないかと思っています。