にじんで融けた時間軸
「何か、落ちたわよ」
随分と暑い夏の日のことだ。夏季休暇に入ってからまだほんの数日しか経っていない。学校が休みになり授業が無くなろうと、部活は当たり前のようにあるため、私たちは毎日のようにこの学校に足を踏み入れている。
体育館の鍵を取り、征ちゃんと二人で廊下を歩いていた。彼はファイルを広げながら、何か考え事をしているように見える。すると、何かが彼の元から落ちたのが見えた。
彼は声を掛けられるまで気づかなかったようで、私の声を聞いてからゆっくりと振り返った。
「ああ、ありがとう」
「珍しいわね、征ちゃんが気付かないだなんて」
「少し考え事をしていてな」
廊下に落ちたそれは生徒手帳であった。間に何か挟まっていたのか、艶のある黒色のカバーから白い紙のようなものが少しだけ飛び出している。それを拾い上げ、征ちゃんの手のひらへと戻してあげると、彼は生徒手帳をパラパラと捲って間に挟んでいたものを確認しているようであった。
「あら」
見てはいけないかとも思ったが丁度よく見えてしまったのだ。そして見えたそれが、予想とは随分違ったもので思わず声が漏れる。
例えばこれが征ちゃんではなく、女子生徒であったなら特別驚かなかったのかもしれない。目の前にいる彼は再びゆっくりと振り返る。赤色と琥珀色の瞳と目が合った。
「ごめんなさい、見えちゃって」
「構わないよ」
「それ、征ちゃんよね?」
ああ。と肯定したあと征ちゃんは「中学の頃の僕だ」と付け足した。生徒手帳の間に挟まっていたのは、手帳と同じサイズの写真。それには少しだけ今よりも幼い彼と、見知らぬ女の子が写っていた。
一瞬、尋ねることを迷った。他の者であればそこまで気を使う必要も無いが相手は彼だ。そもそも他の者であれば興味も無いし、尋ねようともしないのだが。
「……ガールフレンド?」
「いいや」
「大事そうに持っているからてっきり」
「そう見えるか?」
怒られるかとも思ったが、征ちゃんは存外優しい表情を浮かべていた。私は思わず瞼を幾らか瞬かせる。そんな表情、今まで見たことが無かった。
珍しい表情を見たからかもしれない。小太郎や永吉がこの場にいれば違ったのかもしれないが、今この廊下にいるのは征ちゃんと私だけ。今ならば答えてくれるのではないかと思った。
「ええ、私にはそう見えたけど……。違ったかしら?」
沈黙が続いたあと、征ちゃんは「いや、違わないよ」と静かに告げた。先程の表情とは裏腹に、その声は随分と寂しそうにも聞こえる。
体育館まではもう暫く距離がある。今この瞬間だけ、この学校が恐ろしく広いことに感謝をした。
「その子は征ちゃんにとってどういう人なの?」
無言のまま数歩進み、そのあと征ちゃんは歩みを止めた。聞きすぎたかと思い、上からそうっと顔色を伺う。しかし彼は慈しむような視線を写真に向けていて、ゆっくりと指でそれを撫でた。
「彼女は僕にとって困り者なんだ」
私は無意識に再び瞼を瞬かせていた。征ちゃんの言動がちぐはぐ過ぎて理解出来なかったのだ。視線と手のひらと声音は彼女を慈しむように優しいものである筈なのに、告げられた言葉はそれと相反しているようなものである。
恐ろしく大事そうにしている筈なのに困り者とは。もう一度考えてみても、やはり答えは見つからない。歩みを止めたまま彼は、写真を生徒手帳に挟み直してからズボンのポケットにしまった。
「だからもう会えない」
廊下の窓側に視線を向けてから、征ちゃんは再び歩き出した。一枚のガラスを隔てた外側は今日も一段と天気が良く、底抜けに明るい青空が広がっている。それなのに、私は何故だか泣きたくなってしまったのだ。彼が言った言葉の意味は理解出来なかったけれど、それでも本当は会いたいのだと思っているのではないかと、そう思ってしまった。
彼が何を思い、生きているのか、私には想像もつかない。いつも絶対と恐怖を携えて生きている人。しかし先程まで溢れ出していたのは紛れもなく愛情であったと思う。初めて彼の人間らしい部分を見たような気がした。
あの赤司征十郎が唯一心の中で思い続けている人。生きているのか、そうでないのかも分からない。けれどもし今も生きていてこの世にいるのならば、いつか会ってみたいと思った。
◇
二年が経った。泣きたくなってしまうほどの青空が広がっていた暑い夏の日から二年。私や小太郎、永吉は卒業した。今日はたまたま後輩達の練習を見に来たのだ。体育館の鍵を返すためにあの日と同じ廊下を歩く征ちゃんの後ろを、何となく着いて行く。ふと、この光景に懐かしさ感じた。
しかし、頭上から照りつけるような太陽は身を隠すようにゆっくりと沈みかけており、澄み渡る青空では無く、もう見なくなってしまったあの瞳のような琥珀色の空が広がっている。歩く方向はあの日とは反対で、目の前を歩く彼ももうあの日とは違う彼だ。同じように見えてあの日とは全く異なっている。
部活動は既にミーティングを終えており、他の部員達は全員帰っていることだろう。
すると、小さく振動音が鳴り響いた。目の前にいる彼がスクールバッグから携帯電話を取り出す。メールだろうか。彼は画面を見ると一瞬だけ体を硬直させたような気がした。彼のことをよく知らぬ者であれば、歩きながら受信されたメールを確認しているようにしか見えないであろう。
「どうかした?征ちゃん」
「……ちょっと、な。少し急いでもいいか?」
やはり気の所為では無かったらしい。戸惑いながらも肯定すれば、征ちゃんは少しだけ歩みを早め、鍵を返したあとに校門まで向かった。誰かとの待ち合わせだろうかと思ったが、校門の奥から見えた姿に驚いて、思わず目を見開く。
「なまえ」
あの日、征ちゃんから慈しむような視線を向けられていた女の子。その姿は写真で見るよりも幾らか大人びて見え、無駄のない整った顔をしていた。そうか、彼女はなまえというのか。
「約束の時間と違うだろう」
「学校、見てみたくて」
どうやら待ち合わせをしていたらしい。征ちゃんは少しだけ呆れたように溜息をついてから「それなら初めからそう言ってくれ。夕方とはいえ、こっちの方は全く土地勘も無いだろう」と困った表情で呟いた。その視線はやはりあの日と同じように、いやそれよりも優しくて甘い。
なまえと呼ばれた少女と視線が絡んだ。彼女が口を開くより先に征ちゃんが「先輩の実渕玲央だよ」と告げる。すると彼女は合点したように大きく頷いた。すかさず「初めまして、実渕玲央よ」と名乗れば、彼女は「みょうじなまえです」と恭しくお辞儀をした。
「実渕、すまないが今日はここでいいか」
「ええ、勿論よ」
お疲れ様、今日はありがとう。と告げてから征ちゃんは彼女を連れて帰路に就く。その背をぼんやりと見つめながら、校門付近で彼女を見つけた瞬間の彼の表情を思い返した。
驚きの中にも優しさがそこにはあって、許されたものだけが見ることの出来る、素の彼の柔らかさが溢れていた。もしあの場にいたのがあの日と同じ彼だったならば、その表情は違っていたのだろうか。それともあの日と同じように慈しむような視線を向けていたのだろうか。あの日の彼は、その後彼女と会えたのだろうか。
彼だったならばと想像して、私はあの日と同じように泣きたくなった。もうここに彼はいない。その後もし会えていたのなら、その時はお互い笑顔で会えていればいいなと、知ることの出来ぬ過去の記憶を想像してから空を見上げる。既に空には星が瞬いていた。