いとしいと罪を飲み込んで生きる

 淑気に満ち溢れた朝だった。美しい青空が広がり、空気はいつもよりも澄んでいるような気がする。新春の和やかな雰囲気と、一歩一歩踏みしめる度に地面から穢れのない力が湧き上がってくるような感覚。それは元日を迎え、無意識のうちに自分が新たな気持ちに切り替えようと思っているからなのか、これから会う人たちに緊張しているからなのか、はたまた向かっている先のせいなのか。

「あ!なまえ!」

 懐かしい声が遠くから聞こえた。一年と数ヶ月前に会ったきり、もう聞かなくなってしまった優しくて明るい声。振り返って一番最初に見えたのは、想像していた通りの美しくて艶のある桃色の髪だった。

「さつき」
「本当に久しぶりだね!元気だった?!」

 私の手を取って、ぐっと引き寄せた彼女は少々食い気味に尋ねた。しかし私が「久しぶり。一応メッセージは送っていたじゃない」と答えると「そうだけど……顔見たのは本当に久しぶりだし……なんか、大人っぽくなったね」と少しだけ寂しそうに笑った。少し冷たかったかなと後悔したが、私が口を開くより先に、彼女の隣にいたこれまた久しぶりに再会した友人が口を開いた。

「そうか?あんまり変わんねーだろ」
「……久しぶり、青峰くん」

 彼はあの頃よりも更に背が伸びたらしい。以前より見上げる角度が大きくなったせいで少々首が辛いと感じるほどだ。
 上から注がれる視線はあの頃よりも暖かく、そして優しい、と思う。まずこの二人が並んでいる姿も久しいと思うほどなのだ。話には聞いていたが彼は変わった。いや、彼だけではない。これから会う人たちみんなが、あの頃よりも成長して、そして変わったのだ。変わらないのは私だけ。青峰くんの言う通りだと思った。

「みんななまえと会えるの楽しみにしているよ」

 そう言ったさつきの笑顔は今日の眩しい日に良く似合っていた。彼等はあの頃を乗り越えて、そして前を向いている。これほど今日というめでたい日に似合う者たちなどいないだろう。
 正月飾りが掛けられた家々が並ぶ住宅街を抜ければ、この地域では一番大きいであろう神社へと辿り着く。近付けば近付くほど、その満ち足りた気に足が竦むような気がした。大きく息を吸えば、いやに澄んだ冷たい空気が肺を満たす。まるで、自分の中に溜まった負の感情を浄化していくように。忘れられなかったあの頃の、綺麗じゃない思い出を風化させるように。二年もの年を越して、新たな気持ちへと迎えさせるように。

「連絡は取っていたの?」

 誰と。と、さつきが言わなくてもこの場にいる三人が全員同じ人物を想像しただろう。私は黙って首を振った。

「緊張してる?」
「そりゃあ、ね」
「大丈夫だよ」

 聞かずとも連絡を取っていないことなど知っていただろうに。さつきは気を遣うように私の肩に触れた。

「向こうも多分、緊張していると思うから」

 恐らくそうだろうなとは思っていた。良くも悪くも、私と彼はお互いをよく知っていた。生まれてすぐに出会い、そしてずっと隣で成長してきたのだ。嫌でも分かる。だからこそ、私は彼と離れる決断をしたのだから。
 あっという間に神社が見えてきた。やけに短く感じられたが、青峰くんはさつきと私に歩幅を合わせてくれていたのでそれは関係無いだろう。昔であればさつきが駆け足で追っていた筈なのに、本当に随分と優しくなったものだ。

「あー!なまえっち!」

 鳥居が見えてきたところで、あの頃と変わらず目立つ彼を見つけた。片手を上げて、大きく左右に振っている。その周りには他のみんなも。ずっとずっと会いたいと思っていたけれど、ずっとずっと会いたくないと思っていた彼も、そこにいた。

「久しぶり、なまえ」

 黄瀬くんよりも控えめに手を上げた彼。その瞳を見て、やはり彼はもういないのだと理解した。話だけはさつきから聞いていたのだ。彼の中にいたもう一人の彼がいなくなったと。試合の最中、しなければならない決断をして再び一人に戻ったのだと。

「久しぶり、征十郎」

 他のみんなは私たちの様子を伺っているようであった。そんなに見られたら逆に不自然になってしまうよと言いたかったけれど、そんな冗談すら私には言えなかった。
 彼もまた、あの頃よりもずっと大人びて見えた。勿論あの頃だって大人びていたように見えたけれど、やはり何処かちぐはぐな部分があった。そんなこと、当たり前のことなのに。あの頃の私はたくさんの変化に気付いていながら、自分の保身を選んだのだ。

「みんなも、久しぶり」

 一人一人の表情を見て改めて思った。あの頃と何も変わらないのは私だけなのだと。
 鳥居を潜り、参道を歩きながら話題に上がったのは、数ヶ月前にあったストリートバスケットチームとの対戦した時のこと。高校生活のこと。来年度から始まる受験のこと。どれも私が知らないみんなの話だ。

「二人ずつやる?」
「そうっスね!」

 黄瀬くんと青峰くん、黒子くんとさつき、紫原くんと緑間くん。それぞれ順番に参拝していった。残るのは私と征十郎だけである。
 左隣にいる彼と共にゆっくりと階段を登った。賽銭箱の上にある鈴を鳴らし、お賽銭を入れる。深く二礼し、大きくも小さくもない程度に手を二回叩けば、タイミングも殆ど変わらず隣の音と重なった。
 そのまま手を合わせ、瞼を閉じる。こんな時なのに、彼は今なにを思っているのだろうと思った。他のみんながいるせいか、先程挨拶してから一度もまともな会話はしていない。何処か話したげな表情を浮かべていることも、視線も、気付いていたけれど、あの頃と何も変わらない私にはやはり逃げることしか出来なかった。
 隣にいる彼の中の、もう一人の彼がいたら、何か違ったのだろうか。しかし、もう叶うことのないifを想像したって何もかもが遅いのだ。私はどちらの彼も間違いなく受け入れていた。どちらが本物だなんて考えたことも無ければ、どちらが正しいのかとも考えたことが無い。けれど、受け入れていた筈の彼らを見殺しにしたのもまた私なのだ。私は、彼の中にいたもう一人の彼がいなくなってしまう一つの未来を想像して、それが恐ろしくなって逃げたのだ。

「なまえ?」

 隣から声を掛けられて、自分が征十郎よりも長く手を合わせていたことにやっと気付く。私は慌てて深々と一礼してから階段を降りた。

「なまえ」

 もう一度、征十郎が私の名を呼んだ。慌てて降りる私の手を、引き止めるようにして取る。
 既に黄瀬くんや青峰くんはおみくじをやろうだとか、御守りを買おうだとかを遠くで話していて、唯一私たちの近くにいたのは黒子くんだけである。もしかしたら緑間くんあたりも私たちのことを見ていたかも知れないけれど、そんなことを確かめる余裕なんて私にはもう無かった。
 何も言わない私に、征十郎は無言のまま強く手を握った。ほんのりと伝わる体温が懐かしい。小さい頃はよく手を繋いでいたものだ。誰よりも強く、そして厳しい人であったけれど、誰よりも優しく、そして繊細な人。私が知る赤司征十郎とは、そういう人間だったのだ。姿を見せることは随分あとになってからであったけれど、彼の中に眠っていたもう一人の彼は確かにずっと彼の中で生き続けていたのだ。目の前にいる赤司征十郎という一人の男を守るために。

「ごめん」

 謝ったのは征十郎であった。謝るべき者は私である筈なのに、彼は悲痛な表情を浮かべながらそう呟いた。

「なんで……」
「もう一人のことも、お前は愛してくれていただろう」
「そんなこと」
「ないと、言えるのか?」

 知らぬ間に涙が零れた。ずっと前から気付いていた。赤司征十郎という男を守るために生まれたもう一人の彼が、いつかはいなくなってしまうということを。生まれてきてしまった理由を。そしてずっと隣にいた筈なのに何も出来なかった自分の無力さを。
 もう、赤司征十郎という男は彼に守られなくても生きていける。大好きだった征十郎の中にいた、もう一人の大好きだった征十郎はどこにもいない。

「守れなくて、ごめんなさい」
「、なまえ」
「今の征十郎も、もう一人の征十郎も、どちらかがなんて、思ったことない。けど、愛していたとしても未来を受け入れなかったのは私だよ」
「なまえ」
「私は赤司征十郎という男を、殺したんだよ」

 目の前にいる征十郎は眉間にあった皺を更に深くし、私と同じように泣きそうな表情を浮かべた。一緒にいたって私は彼を傷付けることしか出来ない。私はもう一度「ごめんね」と呟いた。すると、征十郎は繋いだ手をぐっと引き寄せて、縋るように私の肩に額を乗せた。

「これ以上言うのは、やめてくれ。オレの、いや、アイツのためにも」
「どうして、」
「いなくなった訳じゃない。元に、戻っただけだ。今は、アイツが思っていたことはオレの感情でもある。だからどうか、それ以上は言わないでくれ。オレたちの大切ななまえを傷付けないで欲しい」

 もういない筈の、もう一人の征十郎の声が聞こえたような気がした。今更になって思うのだ。最後に会いたかったと。大好きな征十郎を守ってくれてありがとうと、私は貴方のことも大好きでしたと、言いたかった。

「なまえ」

 恐怖さえも感じるような大きな力に包まれたこの場所で、私は場違いなほど泣きじゃくり、そして自分の足では立っていられないほどに心が揺さぶられていた。名を呼んだのは果たしてどちらの征十郎だったのだろう。隣から掛けられた声は迷い込んだ私を導くように優しく、そして暖かかった。

「もう一度隣にいてくれないか」
「でも、私は」
「オレは二人分、なまえのことを愛したい」

 ひゅっと、思わず息を呑んだ。切なくて、心臓も破裂しそうなほどである。何というべきか迷っていると征十郎は「嫌だったらこの手を解いてくれ」と言った。

「そんなの、ずるい」
「ああ。オレとお前は良くも悪くもお互いのことを理解しているからな」
「また傷付けるかも」
「傷付いたなど、そもそも思っていない」

 今度は目を見開く番であった。そんな筈はない。征十郎が言った通り、良くも悪くも私たちはお互いのことをよく知っているのだ。傷付いていない筈がない。

「解かないのなら行くぞ、みんな見てる」
「えっ!」

 振り向けば、征十郎が言った通り、他のみんなは私たちの様子を伺っているようであった。じわじわと追い詰めるように羞恥心が込み上げる。おそらくきっと私の顔は真っ赤になっていることだろう。

「これからまた一緒にいるんだ。ゆっくり話そう」

 そう言って、征十郎は私の手を引いた。本当に彼は私のことをよく理解していると思う。先程まで重くのしかかっていた筈の、穢れなき大きな力はいつの間にか感じなくなっており、代わりに明るく澄んだ空気が優しく頬を撫でるように流れた。


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