降りそそぐダイヤモンド



 目を開けて、先ず初めに見えたのはぼんやりと浮かぶ月。そして次に見えたのは舞い落ちる淡雪であった。
 この淡雪はただの雪じゃない。ヴァリアーにいる者全ての人が抱えている、冷たく辛い感情だ。
 約8年間もの間、止むことなく降り続ける雪。終わることなく体に降り積もっていくそれは、体の芯まで冷えきっていれば、溶けることなくそのまま体を押し潰していくことだろう。
 しかしここに集う者は一癖も二癖もあるような人ばかりだ。理由はそれぞれであるが、それでも皆、未だ降り続ける雪に押し潰されることなく真っ直ぐと立っている。
 さて、ベルフェゴールはどうであろうか。
 景色は変わることなく、揺蕩う月と降り続ける淡雪。それと、ほんの少しのスパイスの香りがした。

「これ夢か」

 その時やっと、ベルフェゴールはこれが自分の見ている夢だと理解した。
 シナモンの香りと共にれんが残していった魔法は、目の前でぱちぱちと瞬いてから溶けるように消える。
 寂しい時、悲しい時が無かったと言えば嘘になる。しかし彼女が残した魔法と、彼女と過ごしてきた日々のお陰で、暖かく色のある生活が送れたこともまた事実であった。
 ベルフェゴールにとって彼女の存在は一体なんと表現するのが正しいのだろう。強くて頼れる先輩?仲の良い同僚?優しい姉のような存在?きっと、どれも違っている。そんな簡単な言葉じゃ、彼女のことを説明出来ない。もっともっと、彼女の存在は大きくて大切なものなのだ。
 ヴァリアーに来てから7年と数ヶ月。冬のような冷たい時間を長い間過ごし、彼女の背を追ってきた。きっと多分、もうすぐ手が届く。もうここ暫くは何となく気が付いていた。
 そうなれば自分はどうなるのだろうと、ベルフェゴールは思った。情けを掛けているつもりは無い。しかし、もし手が届いてしまったら、もうあの約束は無くなってしまうのだろうか。手が届いてしまったら、あの煌めきはどうなってしまうのだろうか。この名前の付けられない関係性と感情は、変わってしまうのだろうか。

「だり」

 夢というものは厄介なもので、自分の潜在意識に触れ、目を逸らし続けていたことを容赦無く突き付けてくる。
 一体何が恐ろしい。こんなことで一々心が揺れることなど、今まで一度でもあっただろうか。兄に手を掛けた時だって、国を飛び出して来た時だって、これほど悩んだことなど無かった筈だ。それなのに。
 ポケットに入っていたナイフを掴んで、何も見えない宙に向かって投げ付ける。真っ直ぐと飛んで行ったそれは、暫くしてから重力に従って下へと降りて、サク、と何かに刺さった音がした。

「ん?」

 瞬間、月と降り続ける淡雪しか見えなかった景色から一気に移り変わり、眩しくなったところで思わず目を細める。徐々にその眩しさにも慣れてきて、少しずつ目を開けてみれば、降り続けていた筈の淡雪はいつの間にか見えなくなっており、朝日のような眩しさに照らされて、空気中にある無数の何かが宝石のようにきらきらと輝いていた。
 その美しさに、思わずベルフェゴールは立ち尽くしてしまう。まるで初めてれんの剣技を見た時のような衝撃であった。
 これは一体何なのだろう。そう頭の中で考えていると次第に意識が浮上していくような感覚がした。まさかここで夢から覚めるのか。何となくそう理解したベルフェゴールは、この美しい景色を絶対に忘れないよう、瞳に焼き付けた。







 ベルフェゴールはハッとして飛び起きた。
 先程見た夢は何だったのか。考えても理解出来ぬまま暫くぼうっとしていると、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいることに気付く。
 変な夢を見ていたせいで、どうにも寝た気がしないと思いながらカーテンへと向かい、ゆっくりと引いていく。そしてそこから見えた景色に、ベルフェゴールは再び目を見開いて、今度は急いで足を動かしれんへの部屋へと向かった。

「れん」

 あの日とは違い、気配を殺してから部屋へと侵入し、優しく彼女に声を掛ける。一瞬、驚いたように体をびくりと揺らしたが、部屋に忍び込むことは最近でもよくあることなので何かを言うことはなく、毛布を目の下まで引き上げてから「……なに?」と呟いた。

「外、見てみろよ」

 煩わしそうな表情を見せたが、渋々とベッドから降り、ぺたぺたと窓まで歩き寄ると一気にカーテンを開ける。瞬間、ベルフェゴールが伝えたかった外の景色に驚いて、れんは思わず声を漏らした。

「凄い……」

「だろ?」

 夢と同じように無数にきらきらと輝くそれは宙を舞い、虹色のような光を瞬かせている。まるで魔法に包まれているような感覚であった。

「ダイヤモンドダストみたい」

「なにそれ」

「まるでダイヤモンドが降り落ちるように見えるんだって」

 大気中の水蒸気が昇華して出来た、極小さな氷晶が降るそれ。様々な条件を満たさないと見ることの出来ないものであり、おおよそイタリアでは見ることが出来ない現象だ。ベルフェゴールはぼんやりと、夢で見たあの景色がそうだったのだろうかと考えた。
 目に映る景色はずっと互いの心の片隅にあった小さな悩みを吹き飛ばしていく。会話は無かったが、二人はどこか通じあっている気がした。

「朝ご飯食べたら、外行こうか」

「食べ過ぎで動けねぇとかやめろよ」

「もう、そんなこと一度も無かったじゃない」


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