見えない傷

 傑が怪我をして帰ってきた。それも五条に支えられながら来るほどの重症の状態で、だ。幸い怪我は高専にいた硝子に治してもらったらしいが、一部は損傷が激しく、薄らと傷跡が残ってしまったらしい。それらの話を、わたしは全てが終わったあと五条から聞かされたのだった。

 医務室へ向かう途中で一瞬見えた傑の状態は、見たことがないほどボロボロだった。もちろん意識はあるし、五条の肩を少し借りる程度でそれなりに歩けてはいたものの、制服は破け、怪我をした部分からは血が溢れていた。むしろあの状態で、それほど痛がる様子も見せず肩を借りる程度、で済んでいることに驚いたほとだ。
 廊下で二人を見かけたとき、ちょうど傑と目が合った。彼はひどく驚いたような顔をして、それから申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
 わたしは入れ違いで先輩と任務に行く予定だったから、彼に付き添うことはできず、高専をあとにした。後ろ髪を引かれる思いだったが、任務を放棄することはできないので渋々と向かい、戻って来れたのは日も暮れた夜のことだった。
 五条とは寮へ戻る途中でばったりと出会った。傑は、と間髪入れずに尋ねたわたしに、彼は少々驚きながらも冒頭の説明をしてくれたのだ。

「アイツから連絡来てねぇの? あのあとわりとすぐに終わって全然元気だと思うけど」
「……来てない」

 メールのやり取りは今朝、わたしが傑に行ってらっしゃいと送ったままで止まっている。わたしは心臓をぎゅうっと掴まれたように苦しくなって、思わず泣きそうになった。

「まあお前に気ぃ遣ったんじゃね? 任務だったんだろ?」
「うん……」
「多分まだ起きてるよ、アイツ。行ってやれば?」

 わたしはまた、うん、と曖昧な答えをして、ひとまず自室の方へ向かった。携帯を握り締めているのが、傑からの連絡を待っているようで惨めな気持ちになって、乱暴に制服のポケットにしまった。

 自室に戻ってから、わたしは結局傑の元へには行かなかった。いや、行けなかったと言った方が正しい。情けない気持ちになって、動けなかったのだ。
 ぎゅっと目を瞑って、固く両手を握り締める。痛みに耐えることで、泣くのを堪えていたからだ。
 わたしが反転術式を使えたら、あのとき彼の傷を治せたかもしれない。わたしがもっと強かったら、彼が傷を負うこともなかったかもしれない。わたしがこんなにも頼りなくなければ、彼から直接連絡が来たかもしれない。そんな身の程知らずなたらればが幾つも浮かんでくる。それすらも情けなかった。
 不意に、トントン、と扉がノックされる音がした。硝子だろうか。もしかしたら今日の傑の話をされるのかもしれない。わたしは目に溜まりつつあった涙をティッシュで拭って自室の扉を開けた。慌てていたので相手が誰だかも確認しなかった。すると次の瞬間、えっ、と想像よりも低い声が耳に届いて、大きな壁が目の前に立ち塞がった。わたしは思わず声のする方、上へと視線を送って、そして固まった。

「……なんで泣いてるの?」
「なんで、って……え、なんで傑がここに?」

 突然の来訪者は傑だった。彼は困ったようにまた眉尻を下げて、わたしを見下ろしていた。そうして指の背でちょん、とわたしの目元に触れる。別にしっかりと泣いたわけでもないのに、なんでバレてしまうのだろう。

「どうして、急に……」

 怪我は大丈夫なのかと、素直に聞けない自分が嫌になった。傑はそんなわたしに気付いているのか気付いていないのか、答える様子もなくわたしの部屋に一歩入り後ろ手に扉を閉めた。静寂がわたしたちを包んで、それから気まずい空気が流れる。そう感じているのは、わたしが後ろめたい思いに駆られているせいかもしれないけれど。

「任務、お疲れ様」
「あ、うん……」
「なにもなかった? 怪我してない?」
「うん、平気……」

 平然と普段通りの質問を投げかけられ、わたしは混乱しながらも答えた。すると傑はわたしの両手を取って、指先でとある部分をなぞった。ぴり、と微かな痛みが走って、わたしは思わず手元に視線を向ける。

「ここは?」
「あ……」
「どうしたの? ここ」

 先ほどきつく両手を握り締めていたからだろう。爪がくい込んで、ぷつ、と小さく血が滲んでいた。泣くのを堪えていたせいで全然気付いていなかった。けれども認識した途端、わたしは先ほどまで抱いていた醜い劣等感に再び襲われ、じわ、とまたもや泣きそうになった。思わず指先に小さく力を入れると、傑は確信めいたまなざしでわたしを射抜く。

「あまり強く握り締めるなといつも言ってるだろう? 小さくてもすぐには治らないんだよ」

 心配からの言葉だろう。それは十二分にわかっている。けれども今はその心配を素直に受け止めきれず、わたしは遂に目尻からぽろりと涙を零した。

「別にこんなの、大したことない。傑だって、傑だって……頼りないかもしれないけど、でも、メールくらいは欲しかった……」

 たとえ弱くても、頼りなくても。心配くらいはさせて欲しかった。わたし以外の同期は知っていて彼のことを助ける術を持っているのに、彼女のわたしがなにも知らないまま置いてけぼりにされるのは、あまりにも情けなかった。
 みっともなく泣きながら言った。劣等感と羞恥心で今にも潰れそうだった。一向に涙が止まる気配はない。むしろ鼻水まで出そうなほどで、何度も鼻をすすった。すると彼の腕がわたしの背に回って、とん、と顔が彼の胸にぶつかる。そうしてしばらくしたのち、「ごめん」と静かに傑が言った。
 謝罪をされたら途端に冷静になって、自己嫌悪に襲われた。傑は悪くない。悪いのはこんなふうに心配の言葉も口にせず、我儘ばかりを言うわたしの方だ。

「ううん、ごめん……ごめんなさい」
「いいや、違うんだ。私が君に情けないところを見られたくなかったから、勝手に嫌になってただけで……任務前に見られた手前、なんて言うか迷ってた。すまない」
「……情けないなんて、思ってない」
「それでも、好きな子の前くらい格好つけたいんだよ」

 先ほどよりも強めに抱き締められたので、わたしも傑の背に腕を回した。ふわりと彼の匂いがする。嗅ぎなれた、安心できる香りだ。

「傷跡、あるって」
「ああ別に、大したことないよ」
「大したことなくない」

 硝子の反転術式でも治らないくらいだ。そんなわけがない。

「ちゃんと、言って。……心配くらいさせて欲しい」

 傑は「うん、ごめんね」と言いながらわたしの髪を撫でた。しかしそう言いつつも結局彼は正しい姿であろうとするから、わたしには言ってくれないのだろうと思った。



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