暗がりに倒れて
始まり、というと、どこか明るく前向きなイメージを持たれやすいけれど、実際のところはそうでもないとわたしは思う。始まり、には大抵それなりの労力を費やすことになるし、それなりの努力もまた必要とされるときがくるからだ。そしてときに新たなものを受け入れる代わりに、なにかを失うことだってある。もちろん必ずではないだろうが、絶対ないとも言いきれない。
「まじで言ってる? それ」
日中はまだまだ暑いけれど、夜になれば鈴虫の音が聞こえてくる季節となった。肌をなぞる風は涼しく、かすかに金木犀の香りを纏わせている。
「まじだけど……そんなに驚く?」
「いや驚くだろ、普通に」
「……夏油がそんなこと言ってたの?」
「頑なに言わねーからそうだろうと思ってた」
特別飲みたいものがあったわけではないけれど、妙に目が冴えてしまって自販機の方まで来てみたら、ばったりと五条に遭遇した。ここ最近の彼の成長速度は目まぐるしく、こうして二人きりで話すのは本当に久しぶりのことだった。元気? から始まり、五条がいないと授業が静かでいい、硝子と喜んでる、といったような話をしたのち、全然気分じゃなかったカルピスを一口飲む。去年はこの時期あたりに自販機から消えたらしいそれは、並ぶうちは一択でこれを選んでいるという彼の奢りでもらったものだ。
そうして他愛ない会話が続いたあと、五条がなにげなく「傑とは上手くいってんの?」と聞いた。上手くいくもなにも、夏油だって五条のように単独任務が多くなったし、二人で組むこともそれほど多いわけでもない。なにを上手くなのだろうと眉を顰めたとき、「お前ら付き合ってんじゃねぇの?」と彼は言ったのだ。わたしはくちびるを一度きゅっと結んでから、「そんなわけない」と答えた。
「一年のころからあんなに距離感バグってたくせに? どう考えても付き合う流れだったじゃん」
「それは夏油が心配性なだけで……そんなんじゃない。それに最近は向こうも忙しくて会えてないよ」
そもそも距離感がバグっているのは五条だってそうだと思う。もちろんわたしに対してではなく、夏油とか七海とか、彼が気に入っている人間に対してだが。しかし五条はわたしの答えが腑に落ちなかったようで難しい顔をしていた。
とはいえ五条がそういうのも理解出来るし、特別驚きもしなかった。一年前のわたしだったらほんの少しは喜んでいたかもしれない。しかし今はそれよりも、妙な居心地の悪さを感じた。別に一度もそういう関係にもなったことがないくせに、別れ際のような感覚というか。別に悪いことをしているわけでもないのに、誰にもそのことについて触れて欲しくないというか。
「二人でいるなんて珍しいな」
廊下の暗がりの方から声が掛かって、わたしは勢いよく顔を上げた。明るい室内に目が慣れてしまったせいか、声の主の姿を上手く認識出来ずに何度かまばたきを繰り返す。しかし隣で五条が、傑、と確かにそう言ったので、やはり夏油に間違いないのだろう。
「お前こそ珍しいじゃん。疲れてるとか言ってたから爆睡してんのかと思ってた」
「疲れててもやることはあるだろう。報告書とか課題とか」
「んなの適当にやりゃいいのに」
「不備が理由で戻ってくる方が面倒だろ。……それよりなんで二人はここに?」
いつも通りのテンポのいい二人の会話から急に夏油の視線がこちらに向いたので、わたしは「……偶然。眠れなくてここに来たら五条がいた」と簡潔に答えた。しかし内心は緊張で声が震えそうだった。夏油は少しの間を空けてから「そう」と冷淡気味に返事をする。すると五条が長い足を伸ばしてから立ち上がり、出口へ向かって歩き出した。カルピスはもう半分以上なくなっている。
「んじゃ俺戻るわ」
「ん、おやすみ」
「カルピスありがと」
「おー」
ひらひらと手を振りながら立ち去る彼と入れ違うように、夏油がわたしの隣に腰掛ける。五条が座っていた場所よりもうんと近いところに、だ。どうやら自販機に用はないらしい。
「なに話してたの?」
「……なんでもないよ。任務の話とか、五条がいなくて授業が静かでいいとか」
二人きりの室内に鈴虫の音が小さく響き渡る。すると夏油は「そう」と先ほどと同じように単調な声で答えると、「でも、あまりこの時間に出歩くのはよくないと思うよ」と言った。
夏油と二人で会話するのもこれまた久しいことだった。とはいえ五条と比べればそれほどではないけれど。メッセージだけなら二日に一度は取るし。任務や休日の日程報告、その日にあった些細な出来事など。とはいえ、むかしに比べればそれもかなり頻度が下がった方だが。
そういう期間が長すぎて、わたしは怖くなってしまったのかもしれない。今更告白することも、それまでの関係を捨てることも。頻繁に考えるのだ。もしわたしたちが本当に付き合っていたら、今ごろ会えない日々が続いて関係も悪くなり最悪別れてしまっているのではないだろうか、とか。ずっとこのままだったら、たとえなにかあっても傷は浅いのではないか、とか。臆病で向上心のないわたしは、ずっとそんなことを考えながら生きている。
忙しくなって彼と連絡するペースはどんどん落ちていった。確かに五条の言うように距離感はおかしいかとしれないけれど、しかしそれは前と比べれば落ち着いた。
ごめん、と小さく呟いたわたしに、夏油はなにも言わなかった。わたしはなにに緊張しているのだろう。こうして二人きりで話すのが久しぶりだったから? 用事もないのに彼がここに現れたから? それとも嫌われたくないから?
「もっと早くにこうすればよかったな」
「え?」
「いいや、甘えてた私も同じか……」
わたしに言っているようでほとんど独り言に近かったそれは、理解するには少々言葉が足らず、わたしはもう一度、え? と首を傾げた。しかし夏油はやはりそれには答えない。わかっているだろ? と言われているような気がした。思わず口を噤むわたしに、夏油はわたしの頬を指の背でなぞると僅かに目を細める。そうしてすっと顔が近付いたかと思えば、そのままくちびるが重なった。
「付き合おうか」
隙のない、断定的なものだった。しかし断る勇気もなかった。あんなにも悩み、一時は夢に出るほど望んでいたはずのそれは簡単に始まり、けれどももどかしく居心地のよかった関係もまた、一年以上もの期間を経て呆気なく終わった。