薄暑

 ゴールデンウィークが明け、梅雨が始まる少し前。春の面影はあっさりと姿を消して、夏の日射しがわたしたちの頭上からぎらぎらと照りつけていた。午前中や昼頃はとくに気温も高くなり、軽く動いただけで汗が滲む。しかし夏服にするには気が早いような気もして、多少の暑さを堪えながらも任務をこなした。ずっと先のアスファルトとの境目がゆらゆらと揺れている。眩暈が、しそうだった。

「あっっつい……!」
「急に夏日になったからね」
「……そういう夏油は全然暑そうじゃないけど」
「さっきまで日陰にいたからかな。でも暑いのには変わりないよ」

 夏油との二人の任務は、彼のおかげであっさりと終了した。少し前まではみんなで任務に向かうことが多かったけれど、ついこの間の春以降、五条は一人で任務に就くことが多くなった。それは夏油も同じことで、しかしわたしは一人で任務に向かうには力量不足なことから、二人のどちらかに着いていくことが多くなった。彼らは一人でも任務を遂行することが出来る。わたしの出来ることは本当に極わずかなことだけだ。
 補助監督が待つ場所まで、二人で並んでアスファルトの上を歩いた。夏油はさりげなく車道側を歩いて、わたしに木陰の下を歩かせる。ちょうど二人の間で木々の影は終わっていて、彼は照りつける日の下を歩いていた。それでも、彼がわたしのように暑がる素振りはない。その様子はどこか彼を浮世離れさせるようにも見えた。

「っ、なに?」
「なにって、そっち暑いでしょう」

 半ば無理やりであった。わたしは木陰に引きずり込むようにして夏油の手を引いて歩いた。不意打ちであったからか、彼の体は思った通りにわたしの後ろへと回り、その時の表情はハッキリとはわからなかったけれど、少しだけ見えた横顔は驚いているように見えた。そのまま構わず足を進める。わたしの両手の温度は、次第に左右で異様に違っていった。
 まだ蝉の鳴く声は聞こえない。風が吹く度に木々の揺らめく音だけが二人の間をすり抜けていった。そうしてしばらく風の音と、数台車が走り抜けた音がしたあと、背後から「なまえ」と彼がわたしの名前を呼んだ。その時には、わたしは手を離す瞬間を見失っていた。

「もしかして緊張してる?」

 足を止め、わたしはようやく夏油の手を離そうとした。しかし今度は彼の手がわたしを離さぬように強く握りしめる。滲み出る汗が出来るだけ付着しないように、ぴん、と指先まで伸ばして、わたしはおそるおそる背後を振り向いた。

「わかってて聞いてるでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ離して」
「それは嫌かな」

 緩く微笑んだ夏油はいつもと変わらぬ様子であった。わたしは彼の言葉によって、自分の眉間に皺が寄ったのを自覚した。

「結構今、嬉しかったから」
「……なんの話」
「なんでも。さ、帰ろう」

 そう言って今度はわたしの手を引くように夏油は前を歩いていく。手汗をかいていることなど、彼にはとっくのとうにバレているだろう。それでも、彼はなにも言わずにただ前を歩き続けた。しばらく続く木陰の道。わたしは沈黙に耐えきれず、ずっと喉の奥の方で詰まりかけていた言葉を零した。

「わたしがいない方が楽でしょ」
「なんの話?」

 夏油は、はぐらかすように呟いた。まるでその先の会話をする気がないとでも言うように。わたしが諦めるのを待っているように。

「任務。夏油一人で事足りる」

 車がまた一台、わたしたちの横を通り過ぎた。運転席に座っていた男性はわたしたちのことをどう捉えただろう。付き合っているように見えただろうか。授業をサボっていると思われただろうか。前を歩く彼は、未だなにも答えない。すると歩道沿いにぽつんと立つ自販機が見えた時、夏油は突然、「喉乾いた?」と何事もなかったかのようにわたしに尋ねた。

「……乾いた」
「ん、」

 夏油はポケットから財布を取り出して、わたしに向かって小銭が入っている部分を差し出した。手を解けばいいに、と思ったけれど、わたしは彼の表情を伺いながらその部分のファスナーを外す。「なに飲むの?」と尋ねれば、彼はわたしが選んだものを少し飲むと言った。

「飲みたいのないの?」
「なまえが選んだのが飲みたい」
「なにそれ、困る」
「いいから」

 気分的は炭酸飲料が飲みたかったけれど、わたしが押したのは冷たいスポーツドリンクであった。夏油は財布をポケットにしまってから、その長い足を折り曲げることなくペットボトルを取り出すと、わたしの手に持たせてからキャップを開ける。

「なんで好きなの選ばなかった?」
「逆になんでわたしの好きなもの知ってるの」
「そりゃ一年一緒にいればわかる」

 多分五条はわたしがこのタイミングでなにを選ぶかなんて予想すらしないだろう。しかし、夏油はこういう人間であった。わたしは彼に開けてもらったスポーツドリンクを一口飲んでから、「真夏でなくても熱中症は起きるらしいよ」と素直に答えれば、彼は驚くこともなく、むしろそれすらも予想していたかのように満足気に目元を緩めた。それが無性に居心地悪く感じて再び眉を寄せれば、彼はわたしの手からそのスポーツドリンクを奪い取ると、なんの躊躇もなくそれに口を付けた。それはわたしたち二人の間では初めての行為であったが、まるで初めてとは思えないほど滑らかな動作であった。繋がれたままの片手が更に熱くなったような気がする。回し飲みとか出来るんだ、と思ったけれど、今この状況で聞くのは流石に都合が良すぎると思った。

「見すぎ」
「は……」
「こんなこと、なまえとかしないよ」

 心を読んでいるのかと思ったが、どうやらわたしは彼から見ればとてもわかりやすいらしい。それを知るのはもう少しあとの話になるのだが、結局この日はあの話の続きをしてもらえなかった。しかしこの日を境に、わたしは夏油の任務に着いていくことがとても多くなった。
 わたしは最後までその理由を知ることはなかったけれど、今日という日がきっかけで、夏油の中のわたしに対する感情が変わったことはまず間違いなかった。
 夏はまだ始まったばかりであった。



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