桃花のまなざし



「美味しい……!」
「本当? 良かった」

 今夜は珍しく二人で外食をしていた。どうやら最近とても雰囲気が良いお店を見つけたらしく、二人で行かないかと言われたのがつい昨晩のこと。そして今日は傑がお休みであったため、こうして久しぶりに外で二人きりの時間を過ごしていた。

「雰囲気も素敵だし、料理もすごく美味しい」
「この間のドラマの共演者さんに教えてもらったんだ」

 そう言って傑は、透明の液体が入ったガラスの猪口をゆっくりと傾けた。店内はざわざわと人が混み合い賑わっているが、わたしたちが座る席は壁に囲まれた個室であるのでゆったりとした空間に包まれている。
 こうして二人でゆっくりとお酒と料理を楽しみながら会話をするのは、本当に久々なような気がした。ここ最近は本当に忙しそうであったから、二人で外に出かける機会もほとんどなかったのだ。もとより、傑の職業柄あまり外で遊び回ることも出来ないのでこうして外食をすることもそれほど多くないのだが。
 すると隣の個室に新たにお客さんが入ったようで、女性数名の声が微かに聞こえてきた。おそらく二十代くらいだろうか。既にアルコールが入っているのか、はたまた単純に話が盛り上がっているだけなのかは定かではないが、意識せずともその隣からの会話が聞こえてきた。

「ねえ、そういえばあの雑誌見た?」
「あれでしょ! ランキング特集のやつ!」
「そうそう! 結婚したいランキング一位、ぶっちぎりで夏油傑だったよね」
「いやもうそれはそうでしょ!」

 突然浮上した彼の名前にわたしたちは見つめあったまましばらく固まった。しかしそんなことは見えぬ個室にいる彼女たちは露知らず、どんどん盛り上がりをみせていく。

「結婚してもずっと大事にしてくれそうだよね」
「わかるわかる」

 急に気恥ずかしくなってわたしは思わず俯いた。傑はそんな様子を見て、ふっと小さく吹き出している。「やめて笑わないで」小さく呟けば、「照れてるの?」と意地悪そうな笑みを浮かべてぐっと顔を近付けた。

「でもこの間のドラマの悪役めちゃくちゃハマり役だったと思うんだけど」
「確かに! 案外ああいうタイプとかだったらそれはそれで好きかも……」
「意外と独占欲とか強かったりして」

 かあっと、今度は顔が熱くなるのを感じた。先日首元や胸元に大量につけられたキスマークを、その言葉によって急に思い出したからだ。未だその痕は完全に消えていないので、今日はタートルネックのトップスを着ている。傑はじっとわたしを見つめるのをやめないまま、トントン、とそのキスマークがついている辺りを人差し指でそっと叩いた。

「思い出した?」
「……今ので、思い出した」
「嘘つき。隣の会話で思い出したんでしょ?」

 こてん、と首を傾けた仕草は酷くあざとかった。動作はとても可愛らしいのに、しかしその瞳は鋭くわたしを捉えていて視線を逸らすことを許さない。その上、照明によって艶やかに光る瞳の奥はほんの少しの燻りを見せていた。隣の会話は未だ止まることはない。

「普段優しいのに、強引な一面とか見せられたら堪らないよね。優しいけど隙はなさそうじゃない?」
「わかる」
「確かに五条悟とのやりとりとかは優しいだけじゃないよね」

 今すぐ隠れたくてしょうがなかった。隣の会話が聞こえてくる度に脳裏に浮かぶのは、今までの傑の姿であり、どれもこれも過去にときめいた部分ばかりだ。何年経ってもこんなにドキドキしているなんておかしいと思われるかもしれないけれど、わたしがそうなるように傑はわざとやってくるのだから決してわたしだけのせいではないと声を大にして言いたい。言う人なんて硝子くらいしかいないけど。
 彼はじりじりとわたしを追い詰めるように近付いた。逃げるように自然と仰け反っていく背中にも腕を回し、逃げ道を一つ一つ塞いでいく。すると隣の部屋との間にある、他よりも少しだけ薄い壁にトン、と肩がぶつかった。それほど大きくなければ聞こえることはないだろうが、隣からの会話が更に大きく聞こえたことで心臓がびくりと飛び跳ねる。彼はそんなわたしの心境を知ってか知らずか、いやおそらく知りつつ、わたしをその壁との間に挟み込むと、ゆっくりとわたしの唇にいつもよりも熱い唇を重ね合わさた。

「っ、ふ……」

 ぬるりと舌が這わされて、そのあと強引に唇の隙間を割り込んでいく。普段よりも熱くて緊張感のある口付けに、わたしは思わず傑の肩を掴んだ。しかし口内を這うように動き回る舌が止まることはない。鼻から空気が抜ける度に、ふわりとアルコールの香りがした。

「すぐ、る」
「聞こえちゃうよ」
「そんな薄く、ないって、」

 しかし、話し声はいつの間にかひそひそと小声に変わっていた。続けられる口付けに、次第に酸素が薄くなってきたように頭がぼんやりとしてきた頃、傑はパッと壁についていた手を離して元の場所へとわたしを移す。そうして「少しやりすぎたね」とわたしの目元を指の背でなぞった。

「ごめんごめん、睨まないで」
「折角美味しいご飯食べに来たのに……」
「あんまりにも可愛かったから。ね、許して?」
「そう言えば許してくれると思ってるんでしょ……」

 傑はなにも言わずに、ニコ、と笑みを浮かべた。大きくため息をつきたくなったが、しかしそれで許してしまうわたしもわたしなのだ。もとより初めから怒ってなどいないのだけれど。

「可愛いと思ったのは、本当。なまえ、ごめんね」
「別に、怒ってない……」
「ううん、それだけじゃなくて、最近忙しくて全然出かけられなかったから」
「…………」
「なまえと行きたいところがたくさんあるんだ。この間ロケで行った場所になまえが好きそうなところがあって」

 今度こそ傑は優しく、朗らかな眼差しをわたしに向けて指を絡めた。そうして視線を交わらせたままゆっくりと頷けば、彼の表情が綻ぶ。

「実は来月末いつもよりもお休みが取れそうなんだ」
「そう、なの?」
「うん。だから久々に旅行でもいかない?」
「それ、マネージャーさんに無理言ったとかじゃなくて?」
「うーん、まあ……ほんの少し」

 少しだけ下げられた眉に、わたしはその少しが全然少しではないことを理解した。しかしこう言ってきたということは既にもう休みは押さえられているのだろう。申し訳ない気持ちもありつつ、しかし喜びもまた同じ、いやそれ以上にわたしの中で湧き上がる。今度マネージャーさんに一言言っておかなければいけないな。

「とは言っても一泊くらいになっちゃうけど」
「ううん、ありがとう」
「行きたいところがあったらちゃんと言ってね」
「どこか決めてたんじゃないの?」
「うん。でも、一番はなまえが行きたいところがいいから」

 そう言って傑はわたしの髪をゆっくりと撫でた。その指先も、視線も、桃色のように柔らかくて甘い。気がつけば、隣の声は耳に入らなくなっていた。


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