あまくてにがい



 翌日。わたしは傑からの電話のあと初めてテレビをつけた。そこには案の定傑の熱愛報道がされていて、暗い路地に並んで歩くわたしたちの後ろ姿の写真が一枚画面上に写り、芸能リポーターが相手である一般女性の仕入れた情報を語っていく。それは当たっていることもあれば外れていることもしばしばあって、噂だけがどんどん独り歩きしてしまいそうで少しだけぞっとした。
 傑は結婚発表をするための会場やスケジュールなどの準備や調整が山積みのため、朝早くに仕事へと向かってしまった。わたしは念のため家からあまり出ない方がいいだろうということになったので、大人しく留守番。傑だけが頑張っていて、なにも出来ない自分が歯がゆかった。

***

 それから数日後。あっという間にわたしたちが住むマンション付近にマスコミの人たちは現れた。幸い詳しい住所はバレていないらしく、目撃情報を頼りにここまできたようだ。それでもすぐ側まで来ていることに恐怖を感じながら、わたしはなるべく目立たぬようにここ数日を過ごしている。買い物もなるべくまとめ買いをするか、ネットで頼むか。その際に出来るだけ人と会わないようにもした。
 けれどもそれも時間の問題だったようで、わたしは久しぶりの買い物帰りにちょうどマンションが見え始めたところで足を止めた。入口前にカメラなどを持った見慣れぬ人たちが数人歩いているところを目撃してしまったのだ。心臓がドキドキと激しく音を立てる。バレてはいないと思うけれど、さすがに今あの中を通り抜けられる自信はない。わたしは咄嗟に曲がり角で方向転換をして、くるりと一周してスーパー前まで戻った。どうしよう。さすがにこの辺りをうろちょろしていたら確実にバレるだろうし、これを持ったままでは遠くに行くことも出来ない。最悪タクシーを拾って実家の方まで行ってしまおうか。不安が襲いかかる中、頭の中ではぐるぐるとまとまらない考えだけが渦を巻いていく。

「あの、すみません」

 するとつい先ほど訪れたばかりのスーパーから女性の店員さんが一人外まで出てきて、わたしに声をかけた。よく見ればその店員さんは何度かここで見たことのある人で、思わず身構えたわたしに申し訳なさそうに再度「すみません」と謝罪をする。

「あの……実はここでお二人を何度か見かけたことがあるので、事情はなんとなくわかっているつもりです。なにかお困りでしたら一度店内の奥に従業員用の休憩室があるのでそちらに来ませんか? 今なら誰もいないので」
「え、でも……ご迷惑になりますし……」
「もちろん無理にとは言いません。ですがここにも朝からお二人のことを尋ねてくる人が何人かいたので、もしかしたらまた来るかもと思って……」

 日が暮れる少し手前の時刻。このままこの付近を彷徨うよりかは遥かにいいのかもしれない。迷うわたしに彼女は「このまま放っておく方が私は気になってしまいますし」と後押しするように続ける。その言葉にわたしは情けなくも「お願いします」と頭を下げて中へと案内してもらったのだ。

***

 しばらくしたら休憩に入るので、それまでは誰も来ませんからゆっくりしてください。

 そう言われてから三十分ほどしたのち、部屋の扉が開かれる。するとあの女性店員さんがおそるおそると隙間から顔を覗かせ「少し落ち着きましたか?」と尋ねた。

「はい。すみません、ご迷惑をおかけして……」
「いえ、凄く焦った様子にみられたので……。こちらこそ急にすみませんでした」

 そうして「ご挨拶が遅れてすみません」と彼女はエプロンに付けた名札を少しだけ持ち上げてから名前を告げた。釣られてわたしも「夏油なまえです」と慌てて頭を下げる。すると彼女は少しだけ固まってから、ペットボトルのお茶をテーブルの上に置いた。

「こんなものですみません。ここ、なにもなくて……一応今日はこのあと他のバイトの子も来ませんし、ゆっくりしていってください」
「いえ、そんな……わざわざすみません……」

 報道のことを聞かれるかとも思ったが、彼女はなにも聞かなかった。ここのスーパーへは傑ともよく来ていて、彼女の言う通りわたしと傑の姿を何度も見たことがあるようだったし、気を遣ってくれているのだろう。けれどもいつまでもここにお邪魔するわけにはいかない。マスコミの人たちがいつまでこの辺りにいるかはわからないけれど、これ以上いては更に迷惑がかかる。やはり実家の方まで一旦逃げようか。
 傑に連絡をしようかとも思った。スケジュール的にはもうすぐロケが終わる頃だとは思うけれど、もし長引いていたら迷惑になってしまうし。少しずつ追い詰められていくような焦燥感に思わず泣きそうになる。駄目だな、頑張るって決めたのに。もしかしたらこの先もっと大変なことがあるかもしれないのに。

「夏油さん!」
「えっ!? は、はいっ」
「電話、鳴ってますよ」

 彼女に言われるまで全く気付かなかったスマートフォンの振動に慌てて画面を見る。するとそこには“傑”と表示されていて、そっと目の前に座る彼女に視線を向ける。すると彼女は「大丈夫ですよ、一度退室しますね」と言って部屋を退出した。

「も、もしもし」
「なまえ!? 今どこにいる!?」
「え、えっと……近所のスーパー」

 開口一番焦った様子で声を上げた傑が「はぁぁ」と長い息を吐き出す。

「……よかった。マネージャーがそっちに行ったのにインターホンを何度も押しても家の電話にかけても出ないって言うから、なにかあったのかと」
「あ、いや……スーパーなんだけど、実は社員さん用の部屋にお邪魔させていただいてて……」
「なにがあった」

 傑の低くなったトーンに「うっ」と言葉を詰まらせる。「家の前に、人が……」とおそるおそる告げれば、今度は苛立ちを含んだため息をついた。そうしてしばらく沈黙が続いたのち、「マネージャーがすぐ近くにいるはずだから迎えにいかせる」と淡々と告げる。怒ってる。それはもうここ最近で一番だ。傑は案外短気だけれど、こんなに酷いのはそうそうない。わたしは思わずきつくスマートフォンを握りしめてから、「うん」とだけ呟いた。

「私も今から帰るから」
「仕事、大丈夫なの……?」
「ああ、もう準備は終わった。だからもうしばらくすれば家の前の奴らも来なくなるはずだから。怖がらせてすまない」
「ううん、傑のせいじゃないよ」

 話している内にようやく安心出来たのか、わたしから零れた声は言葉とは裏腹にか細く弱々しかった。傑もそれに気がついたのか「出来るだけ早く戻る。マネージャーの車に乗ったらまた連絡するから別の場所で合流しよう」と酷くやさしい声で言う。ああ、駄目だ。迷惑だとか、決意だとか、もうどこかに飛んでいってしまった。早く。早く会いたい。あの安心出来る腕の中に飛び込みたいと、そう思ってしまった。


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