どうか離さないで、壊さないで



 突然の土砂降りに見舞われたような気持ちであった。喉に張り付くようなじめじめとした嫌な空気。まるでこれから起こりうる災いを知らせるような不穏な雷の音。たった一枚。とある記者が撮ったそれらしき写真一枚で、わたしたちの生活はあっという間に平穏な日々から一変した。梅雨が始まったばかりの出来事であった。

『祓ったれ本舗、夏油傑。熱愛発覚! 相手は一般人女性か?』

 とある写真と共に載せられたその一文は世間を大きく騒がせた。

 今から約十二時間前。仕事中であるはずの傑から突然着信があった。その時はちょうどわたしは買い物中で近所のスーパーにいた。彼の毎日のスケジュールはなんとなく把握している。確か今日は午前と午後にスタジオ撮影が二件入っていて、ちょうど昼過ぎであったから一つ目の撮影が終わったところだろうかと思いながら、会計後にその電話を取った。

「もしもし……」
「なまえ、今どこにいる」
「えっ……今? いつものスーパーだけど……」

 しかしその時の傑の声が想像以上に焦りを含んでいたため、スマートフォン越しにそれが伝染したようにわたしの心臓もどくんと大きく嫌な音を立てた。すると彼は「詳細はあとで話すからとりあえず今はすぐに家に戻って欲しい」とだけ告げる。

「う、うん……わかった」
「それと、テレビも付けないで」
「……わかった」

 その言葉で悟ってしまった。ああ、ついにこの日がしてしまったのかと。気をつけていたとはいえ、それほど慎重になっていたかと問われれば二人で出かけることもたまにはあったし少し不用心だったかもしれない。けれどこうして世間にバレてしまったであろう今に後悔しても既に今更なのだ。傑に迷惑をかけてしまった。思わずきつくバッグを握りしめた時、彼は見透かしたようにわたしの名前を優しく呼んだ。

「なにもなまえは悪くない。そもそも私たちは悪いことをしているわけじゃないんだから」
「でも……」
「私はむしろ好都合だと思ってる。でももしかしたらこれからマスコミが家の方まで来るかもしれないから、念のために家にいて欲しいんだ」
「……うん、ごめん」
「ごめんはなし。私は撮影のあと事務所にいかなくちゃいけなくなったから悟がそっちに行くよ。不本意だけど」
「……わかった、ありがとう」

 傑の声の奥から「なんかあったら僕が守ってあげるよ」なんて、いつも通りの悟の声が聞こえる。けれどもそれがわたしを安心させるためだなんてことは、知り合って十年以上も経っていればすぐにわかってしまうことだった。

***

 インターホンの音と共にモニターに映し出された見知った顔にわたしはオートロックを解除して、再度モニター見えた姿にわたしはすぐさま玄関扉を開けた。

「悟、ごめん」
「んーん。そこはありがとうって言って欲しいかな」
「……ありがとう」
「どういたしまして。流石にまだ下には誰もいなかったよ」

 あの電話から数時間後。悟からメッセージが届いたのち、彼はすぐにここにやってきた。傑に言われた通りテレビはあのあと一切付けていないから部屋の中はしんと静まり返っている。けれども悟はその静寂を破るように「お腹空いたぁ」と声を上げて廊下を進んでいった。

「夕飯食べる?」
「まじ? 食べる」
「一応さっき作ったから、すぐ食べられるよ」
「ラッキー。じゃあ傑帰ってくる前に食べちゃおうよ」

 アイツ絶対変な顔するよ、と笑いながら言う悟に小さく胸を撫で下ろす。正直静かすぎる家内は少し心細かったから、彼の明るさが今はとても安心出来た。作ったばかりの味噌汁を温めながら、お玉でくるくるとかき混ぜる。傑は今、事務所で今後の話でもしているのだろうか。

「まあなまえのことだから察してると思うけど」

 そう切り出した悟にわたしはその先を促すように視線を向けた。けれども彼は「まあこの話は傑がするべきだろうから僕からは言えないけど」と降参するように両手を小さく上げる。でもきっと、ああして切り出したということはそういうことなのだろう。

「大丈夫だよ。電話でも言ってたけどアイツはむしろこのタイミングを逃すつもりなんてないだろうし」
「うん……」
「だからその重っくるしい顔やめなよ」
「……酷い」
「本当のことだろ」

 少しだけ声のトーンを下げ、昔の口調に戻った悟がサングラスをズラしてわたしを見つめる。その表情は昔まだわたしたちが学生だった頃、わたしに意地悪なことを言う時と同じでどこまでも不敵な笑みだった。

「傑も俺もいるんだから大丈夫に決まってんだろ。なんたって最強だし」
「うん、そうだったね」
「いつも通りにしてりゃいいんだよ」
「……悟」
「なに?」
「ありがと」
「夕飯でチャラにしてあげる」

 仕方ないから僕オススメの映画持ってきてあげたよ、と再び口調が戻った頃には、先ほどまでの冷たい空気がどこかへと消え去っていた。

***

 悟が持ってきてくれた映画が見終わる頃、傑は帰ってきた。ガチャン、と扉が開錠された音がすると、悟は「迎えてあげたら?」と言ってくれたので玄関までパタパタと向かう。

「傑……!」

 いつもより少しだけ草臥れた様子の傑はわたしに手を伸ばすと、きゅうっときつく抱きしめた。そうして首元に擦り寄るようにして「ただいま」と耳元で呟く。別に普段だってこれくらいの時間に帰ってくるなんてよくあるのに今日は無性に彼に会いたくて仕方がなくて、わたしも同じように彼の背に腕を回してしがみつくように抱きしめる。悟は気を遣ってくれたのかリビングから出てくることはなかった。

「大丈夫だった?」
「うん、悟が来てくれたし」
「そう、よかった」
「傑は……」
「ん? 平気だよ。なまえはなにも心配しなくていい」

 髪を梳くように、傑の手が何度もわたしの頭に触れる。そうして「お腹空いた」と零す彼に、わたしは慌てて手を引いてリビングへ向かった。

「お疲れさん」
「すまなかったね」
「いいや? お前がいない間に先に飯食べさせてもらったし」

 じゃあ僕行くよ、と入れ違いにリビングを退出する悟にせめて見送りをと踵を返せば、彼は「いいよ、今日はそっちにいてあげなよ」と言って手をひらひらと揺らした。今度悟にはきちんとお礼をしておこう。そうして扉が閉まる音が響いたあと、傑はわたしを後ろから抱きすくめるようにして再び腕に閉じ込める。

「ご飯は……」
「ん、あとでいいよ。その前にこうしていたい。話さなきゃいけないこともあるし」
「……うん」

 傑はソファにわたしを連れていくと、横抱きにしながら膝の上にわたしを乗せた。そうして今回の出来事や今後のことについて全てを話してくれた。
 やはりわたしの予想通り傑がわたしと付き合っているという記事が上がってしまったらしい。その話が傑の元に届く頃には世間に出回る直前で、どうにも抑えられなかったようだ。けれどまだ結婚していることがバレたわけではなく熱愛報道として取り上げられていて、マスコミは真相を掴もうと傑の周辺を調べたりしていると言う。マネージャーさんからの提案もあり、自宅がバレる可能性もあるためあの時すぐにわたしに連絡したそうだ。

「私はこれを機にもう結婚していることを発表しようと思っている」
「え、でもそれは、事務所やマネージャーさんと話をして決めたことなんじゃ……」
「今日その話を事務所にもしたんだ。もちろん悟にも。このまま有耶無耶にしておく方が面倒になるだろうしファンを裏切る行為にもなると思うから、どちらも了承してくれたよ。まあ悟はそもそも隠す必要なんてないって初めから言っていたしね」
「う、うん……」
「不安、だよね、ごめん」
「ううん、そうじゃないけど……傑はいいの?」

 真実を逃さないようにじっと下から見つめれば、傑はふっと目元を緩めて額同士をこつんと合わせた。そうして「私はむしろ、初めからなまえと結婚したんだってことを言いたかったよ」と伏し目がちに言って、瞬きを一つしたあとわたしの目をじっと見つめる。わたしは、なぜだかわからないけれど急に目の奥が熱くなって視界が歪んだ。そうしてほろりと熱いしずくが零れていって、傑の服を濡らしていく。

「なまえが怖いならもちろん言わない」
「ううん、違うの……わたしも、言いたい。傑が大好きなんだってこと」
「うん、うん……今まで窮屈な思いをさせてごめん」
「そんなことない。傑の邪魔もしたくなかったから。だから、謝らないで、わたしも頑張るから」

 手を伸ばして、首に腕を回して。泣きながら縋りつきながら、好きだと言った。恐怖もある。不安もある。だけれどそれよりも、傑と一緒にいたいから。不安と恐怖に負けたくなんてなかったから。傑がたくさんわたしを守ってきたように、彼の心を今度はわたしが守りたい。静かにそう誓って、わたしはもう一度彼のことを抱きしめた。


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