傑は基本毎日家に帰ってくるし、晩御飯もほとんど帰宅後家で食べる。しかしその時間は日によってまちまちで、わたしはその間一通り家事を終えてからテレビを見ていたり、硝子に付き合ってもらって通話をしていたりすることが多かった。
そして今日は前者で、傑が出演しているドラマを見ているところであった。役者としても人気のある彼は出演者として抜擢されることも少なくない。しかしその役はどれも主演ではなく、また役柄もある程度は系統が似通っていた。それはあくまでもお笑いコンビであるということと、恋愛ドラマでのキスシーンおよびラブシーンなどはNGを出しているということが関係している。これらは直接本人に聞いたわけではなく、悟と、祓本二人のマネージャーから聞いた話だ。しかし話を聞いた時わたしは別段驚くこともなく、むしろそうだろうなとなんとなく前から思っていたことなのでやっぱりかと納得した。そしてそれに対して申し訳ないだとか、そういうことは一切思ったことはない。なぜなら、たとえ二人を応援していると言えど、わたしだって傑のそういうシーンはあまり見たいものではないからだ。
今回傑の役柄は主演俳優が時々仕事終わりに寄るバーのバーテンダーさんだったか。同じ会社の上司である女性に恋をして、仕事を頑張りながらも少しずつその上司とも距離を縮めていくような、そんな話。そして目の前で流れているのはその主演俳優さんが告白をして見事成就するシーンであった。いつもはキリリとした上司が狼狽える瞬間、奪い取るかのように引き寄せて唇を寄せる。
その瞬間、もしこれが傑だったら、とありもしない想像をした。普段ならば傑が出演している作品だとしてもそうでなくとも、わざわざこんな想像などしない。だから、これはたまたまだ。しかしたまたまであっても、傑がわざわざNGを出してまで避けているシーンをわたしの脳内で再生してしまったことに申し訳なさを感じた。それと同時にその光景に酷く苦しくなった。
けれど一度始まってしまった想像はそう簡単に消えるものでもなかった。傑の唇が再び女性の薄い唇に合わさって、こじ開けるようにそっと舌が這わされる。そうして頬にかかる髪を耳にかけて。そのまま耳の縁に指を滑らせて。最後に引き寄せるように腰に手を、
──ガチャン
その音でハッとした。慌ててテレビの電源を落とし、玄関へと向かう。パタパタとスリッパが擦れる音を鳴らしながら出迎えれば、傑は驚いたように目を見開いてわたしを見下ろした。
「ただいま……って、どうしたの……?」
「ううん、なんでもない。おかえりなさい」
「なんでもなくないでしょ、泣きそうな顔してる」
傑は靴を脱ぐのもそこそこにわたしの顔を覗き込むように屈む。疲れているはずなのに、こうしてわたしのことを優先してくれるのだ。甘やかしてくれていることも、尽くしてくれていることもわかっている。わたしは更に、ありもしない想像をした自分を恨めしくなった。
「ほらおいで、ちゃんと話聞くから」
傑はわたしの手を引いてリビングへと向かっていく。そうして扉を開けてシンと静まり返ったリビングに足を踏み入れた時、普段はわざわざテレビの電源など落としていないことにようやく気付いた。ますます彼はわたしの普段とは違う行動に心配の声を上げる。
「それで? なにがあったの?」
「いや、本当になにもなくて……」
言えない。傑が女優さんとキスするシーンを思い浮かべて勝手に傷付いているだなんて。傑にも失礼だし、なによりも情けなさすぎる。勝手に想像して勝手に傷付いているだけだ。あまりにも恥ずかしくて言いたくない。
傑はソファに深く座り込むと、わたしを膝の上に乗せた。そしてわたしのお尻のあたりで手を組むように腕を回すとそっと下からわたしを覗き見る。
「私には言えないこと?」
「ち、ちが、そういうわけじゃなくて……」
「なにか嫌なことがあった? それとも寂しかった?」
傑から逃れられるわけがない。そんなのはもうずっとずっと前からわかっていることだ。怒られることはないだろうが、もしかしなくとも嫌な気持ちにはなるだろう。目を合わせていられなくて、わたしは思わず逸らすように額をこつんと傑の肩の辺りに乗せる。
「嫌な気持ちになったらごめんね」
「うん?」
「その、ドラマ見てて、傑が出てるやつ、最終回の最後のところ」
「えーと、上司に告白するところ?」
「……うん」
「それで?」
「もし主演が傑だったらって想像してちょっと嫌な気持ちになったのと、そんな自分が嫌になって……」
どうしてあんな想像をしてしまったんだろう。そうしたらお互い不快な思いもせず、今だってこんな空気にならなかったはずなのに。少し前の自分に嫌気がさす。しかし傑は怒ることもせず、また「そんなこと?」と笑いもしなかった。ただ、ぽんぽんと優しく頭を撫でて、それからわたしを抱きしめる。
「なまえには言ってなかったけど、そういうシーンは一応受けないようにしてるから」
「うん……知ってる」
「え、知ってたの? 誰? 悟?」
「悟と、マネージャーさん」
「言わないでって言ったはずなんだけどな」
「前にわたしが聞いて、二人は答えてくれただけだけ……。だから、絶対ないってわかってたのにそういう想像をしたの。ごめんね」
傑は「ううん」と呟いたあと、わたしの髪を一撫でして下からそっと唇を合わせた。逃れられないようにしっかりと後頭部には手が添えられていて、彼はそのまま何度か啄むように角度を変えていく。
そうして頬にかかる髪をわたしの耳にかけ、唇の隙間に舌をゆっくりと這わされた時、あの時想像した傑のキスだ、と頭の片隅で思った。さわさわと耳の縁をなぞる指先。唇が離れた瞬間に漏れる吐息。はっと小さく息を吐き出せば、すかさず傑の熱い舌がわたしのを追いかけるように奥へと入り込んだ。同時にびくりと震える体を押え付けるように抱きしめる逞しい腕。その瞬間、やはりこのキスはわたしだけが知っていたいとこの時強く思った。
「舌、出して」
少しだけ掠れた傑の声にわたしは簡単に彼の言葉に従った。逸る気持ちと比例するようにわたしたちの舌は先程よりも性急に絡み合う。彼の様子を伺うように薄目を開けた瞬間、真っ直ぐわたしを射抜いていた視線と交わって心臓からお腹のあたりがきゅっと苦しくなった。思わず縋るように肩を掴めば、離される唇。薄ぼんやりとしてきた意識の中でおそるおそるもう一度瞼を持ち上げれば、そこには愛おしむようにわたしを見上げる彼がいた。
「仕事だとしてもなまえ以外とキスとか、それ以外にもしたくないから」
「うん……ごめんね」
「ううん。最近忙しかったし、寂しくさせてごめん。それに本音はヤキモチ妬いてるなまえが見れたの、ちょっと嬉しかったから」
恥ずかしくなってもう一度顔を隠すように抱きつけば傑は「もっとキスしたいからこっち見て」とわざとらしくリップ音を鳴らしながら耳元に口付けた。