第六話

 がらんどうの共有スペース。ひとりソファに座って窓の外を見ていても寂しい気持ちにならないのは、透明なガラスに何度も打ち付ける雨のせいだろうか。静かであるはずの空間が、自然の音によって空白を埋めていく。
 今日はおやすみだ。灰原くんと七海くんは任務が入ってしまったので、わたし一人でお留守番。普段であれば鍛錬に勤しむところであるが、ここ最近は毎日悪天候が続いているためそれもおやすみだ。梅雨に入り、夏油先輩に見てもらう約束も未だ果たせていなかった。

「立花?」

 ちょうど、頭の中に思い浮かべていた人物の声がした。くるりと背後を振り向けば、そこには驚いたように目を見開いてこちらを見つめている夏油先輩。その姿はいつもの制服姿ではなく、ゆるりとした私服姿であった。

「お疲れ様です」
「お疲れ様、今日おやすみだったの?」
「はい、夏油先輩も……ですか?」
「いや、私は少し前に任務から戻ってきて着替えてきたところだよ。雨にも濡れちゃったしね」

 こういうときは、なんと言うべきだっただろうか。彼は少しだけ首を傾げながら、わたしの言葉を待っている。もうこうしてわたしがなにかを言いたそうにしていることも、すぐにバレてしまうようになった。

「おかえりなさい、ませ……?」

 おかえりなさいでは、なんとなく軽すぎるような気がした。夏油先輩は少しだけ目を見開いたあと、空気を漏らすように軽く笑って、「堅いね」と呟く。

「なんとなく、憚られたので」
「そこまで気にする必要ないよ」
「そう、でしょうか」
「今度からは、おかえりなさいって言ってくれると嬉しいな」
「わかりました」

 すると夏油先輩は柔らかく微笑んだあと、「まだ時間ある?」とわたしに尋ねた。「とくに予定もないので、大丈夫ですよ」と答えると彼は、「ちょっと待ってて」と言って踵を返し姿を消してしまった。
 その背中をぼんやりと見つめる。わたしはあの日から未だに、あの口付けの意味を理解しきれていない。世界から切り離されたあの一瞬の出来事がもはや夢だったのではないのかと思えるほど、今は少し前と変わらぬ空気が流れている。それが寂しい、とまではいかないけれど、あの口付けは大きくわたしの中に残っていた。
 なぜなら、わたしのファーストキスだったからだ。

「ごめんね、おまたせ」

 ソファに座りしばらく待っていると、夏油先輩はわたしの隣に静かに腰を下ろした。途端にふわりと、シャンプーの香りが鼻を擽る。雨に濡れたと言っていたので、そのままシャワーを浴びたのだろう。

「お土産を買ってきたんだ」
「わたしに、ですか?」
「うん。まあでも、遠くにいったわけではないから名産品とかではないんだけど」

 そう言ってからりと手のひらに乗せられたのは、色鮮やかな金平糖であった。透明な瓶の中には、桃花色や蜂蜜色、若菜色などの春から初夏にかけた柔らかい色が集まった小さな飴の粒がからからと音を立てて転がる。

「……きれい」
「甘いの、平気?」
「はい……好きです」
「良かった」

 なによりも、夏油先輩がわたしのためにこれを選んでくれたということが嬉しかった。任務の合間かその前後か、少しでもわたしのことを思い出してくれたというだけで胸があたたかくなる。

「勿体なくて、食べられないです」
「またいつでも買ってこれるよ」

 しかしなんてことないその言葉が、突然妙に切なくなった。ぎゅう、と金平糖が入った瓶を握りしめれば、夏油先輩はわたしの名前を呼んで顔を覗きこむ。

「あ……すみません」
「ううん。ごめん、なにか嫌だった?」
「いえその、嫌だったとかではなく……」
「立花は思い詰めたりするとき、なにかを強く握る癖があるよね」

 心臓がゆっくり鼓動したような気がした。強い自覚はなかったけれど、言われてみればそうなのかもしれない。夏油先輩の顔を見上げれば、彼はまっすぐわたしの瞳を射抜いていた。

「初めて話したあの日も、思い詰めていたように見えた」
「あの日、は……」
「この間の雨の日も」

 切り離そうとしても切り離せない、記憶と強い思いだ。それは、わたしが呪術師を目指すきっかけになった出来事。しかしそれは、酷く冷たくて暗い過去の話。こんなこと、人に話してもいいのだろうか。

「話したくないことは話さなくていい。でもね、立花。話せば心が軽くなることもあるし、どんな話だろうと私は聞きたくなかっただなんて思わないよ」
「……どうして、ですか」
「言っただろう? 立花のこと、もっと知りたいんだ」

 好きなことも、嫌いなことも。
 悲しいことも、嬉しいことも。

 誰かと気持ちを共有するということは、わたしにとって馴染みのないことだ。そしてそれを悲しいだとか、辛いだとか、それほど思ったことはなかった。

「ある日突然……日常が非日常になる瞬間が、怖いんです」
「それは過去にあった、ってこと?」

 わたしは静かに頷いた。

「……家族が」
「うん」
「大切な両親が、呪霊に襲われたんです」

 俯いて、もう一度色とりどりの金平糖が入った瓶を握りしめた。夏油先輩は返事をすることなく、じっと言葉の続きを待っている。
 とても嫌な記憶だ。今でもその記憶は鮮明にわたしの中に残り続けている。忘れようとも思わないけれど。

*  *  *


 人とは違うなにかが見えると伝えたとき、両親は泣きそうな表情を浮かべた。いや母は、涙を浮かべていたような気がする。
 自分が他人とは違うこと、そして、他人にはそれが理解されないこと。包み隠さず言えば、父は優しくわたしを抱きしめて、「話してくれてありがとう」と声を震わせながら呟いたのを覚えている。
 両親は同じように呪霊が視える人たちであったが、わたしのようにはっきりと目視することは出来ぬようであった。しかしその存在が何者なのか、そしてわたしたちのように視える人たちが他にもいることは知っているようであった。

「大丈夫、あなたは一人じゃない」

 両親はわたしを否定することはしなかった。あたたかい言葉をたくさん紡いで、たくさんの愛情を注いでくれた。そしてそれらは幼いわたしが現実を受け入れられる希望でもあった。わたしの普通は周りの人たちとは違うけれど、家族と共にこのあたたかな日常が続くのなら生きていけるような気がした。
 しかしそんな日常は、ある日突然起きた非日常により一瞬にして崩れ去ってしまう。

 その日はなんてことのない一日のはずだった。夏の終わりを告げるように、カナカナと外でひぐらしが鳴いていた。世界が橙色に包まれた日暮れ、逢魔が時。わたしたち家族は、呪霊に襲われた。
 今のわたしからすれば、ただの低級呪霊だった。しかしそんな低級呪霊にすら立ち向かう力を、わたしたちは誰も持ち得なかった。目の前で何人もの人が倒れ、見るも無惨な姿になっていく。恐怖が蔓延る空気の中で父はわたしたち二人を庇うようにして立ち、母は薄らとしか見えない敵からわたしを守るように抱えこんだ。
 しかし一瞬にしてわたしの世界は暗転する。
 その姿を、そのあたたかい温度を、わたしは一生忘れることはない。

*  *  *


「母は生きてはいますが……精神的ショックで、今も通院する日々です……父は……わたしたちを庇って亡くなりました」
「…………」
「すみません……こんな暗い話」

 恐る恐る下から夏油先輩の顔を覗きこめば、彼は黙り込んだまま首を左右に振った。そして、思い詰めたような表情を浮かべると、そっとわたしの背に腕を回す。こつん、と彼の胸元に額がぶつかった。

「話してくれて、ありがとう」

 その瞬間、知らない感情が胸の奥で広がった。一生消えることのない悲しい記憶だけれど、枯れるほどまで泣いたお陰か、今はもう涙が零れることはない。それなのに、再びじわりとなにかが溢れ出そうな感覚がしたのだ。
- ナノ -