第五話

 遠ざかっていた雨音が次第に耳に入るようになった。ざあざあと空から降り落ちる雫が、地面に叩きつけられる音がする。
 雨音が響く中、絡み合った視線を逸らすことが出来ずにわたしはじっと夏油先輩の瞳を見つめていた。すると彼は、はっとしたような表情を浮かべてから血の気が引いていくように顔を青くさせ、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。

「さっきのは、その」

 夏油先輩は狼狽えるように言葉を詰まらせた。聡明で、普段はなんでも卒なくこなすような印象があるからか、その姿は珍しく感じられる。そっと下から表情を伺えば、彼は悔やむように険しい表情を浮かべてわたしを見つめた。

「立花が生きていたとわかったら、安心して……すまない、許されることではないのはわかってる」

 夏油先輩はぎゅう、と拳を強く握った。そして眉をひそめたままゆっくりと瞼を閉じると、「それと、あまりにも綺麗だったから」と言葉を続けた。
 ──綺麗。わたしはその言葉の意味を、よく理解することが出来なかった。綺麗と言われる理由が、わからなかったからである。
 しかし前者は痛いほど理解出来た。かつてわたしも、同じような経験をしたことがあったからだ。

「……三級以上の呪霊が現れたとき、本当はわたし、今日で死ぬんだって思いました」

 そう言うと、夏油先輩は悲痛な表情を浮かべた。
 死ぬ覚悟を決めた時、脳裏に浮かんだのは家族の姿、同期二人の姿、そして最後に浮かんだのは夏油先輩の姿。

「最後の一体を倒して、夏油先輩の声が聞こえて……一瞬、死んだのかと錯覚したんです」
「…………」
「最後に会いたいって思っていたから」

 彼の目が大きく見開かれる。

「でも姿を見た時、生きてるんだってやっと理解しました。それと同時に、安心もしました」

 それはおそらく、夏油先輩だったからこそ強く思ったのだと思う。会話をし始めたのはつい最近のことだけれど、少しずつ彼の存在はわたしの中で大きくなっていた。

「夏油先輩が来てくれて、嬉しかったです」

 心臓がきゅう、と苦しくなる。
 家族以外に、ここまで自分の気持ちを話したことがあっただろうか。少なくともこんなに短期間で話すようになったのは、夏油先輩が初めてだと思う。上手く、伝わっただろうか。
 呟くように気持ちを伝えたあと、俯いていた顔を上げる。彼は固まったまま、じっとわたしを見つめていた。

「すみません……わたし、」
「違う、違うんだ」

 夏油先輩は困ったように手のひらで目を覆った。

「立花が話してくれて、嬉しいんだ」

 じわりと、胸の奥でなにが滲んでいくような気がした。暖かいなにかが広がって、雨で冷たくなった体が溶けていくよう。
 夏油先輩は手のひらを目元から退けると、じっとわたしの顔を見つめた。顔、というより、おそらく頬に出来た傷を。

「痛かっただろう」
「そんなに、痛くないですよ」
「立花の痛くないは、あんまり信用出来ないな」
「……どうしてですか」
「君は、頑張りすぎるところがあるからね」

 困ったように眉を下げながら夏油先輩は言った。頬に出来た傷の少し下の辺りを、彼の指がそっとなぞる。じんわりと、指先から優しさが伝わってくるような気がした。

「そんなこと、ないです」
「私が同じ傷を負っていても、立花はそう言うかい?」
「……言わないです」
「そういうことだよ」

 戻ろう。補助監督の人が心配している。
 夏油先輩はわたしの手を取った。目の前では少し勢いは収まったものの、それでも変わらず雨は降り続いている。彼はわたしの方を振り返った。

「走れる?」
「大丈夫です」
「…………」
「夏油先輩……?」

 彼は一歩わたしに近づくと、繋いだ手を解いた。そしてわたしの背中と膝の裏に腕をのばすと、体がふわりと宙に浮く。

「っ!」
「こっちのが早い」
「あ、あの……夏油先輩……っ」
「ごめん、嫌だった……?」
「嫌では……ないです、けど……その、恥ずかしいです」
「なら問題ないね」

 思わず、目を見開いた。五条先輩や七海くんたちに見せているような、意地悪そうな笑みを少しだけ浮かべていたからだ。先ほど狼狽えていた姿とは違い、すっかり元の調子を取り戻したように見える。

「……夏油先輩って」
「うん」
「やっぱり、少し、意地悪……ですか」
「やっぱりってことは、そう思ってたの?」
「…………」
「酷いなあ」
「す、すみません……」
「怒っていないよ、むしろ嬉しい」

 嬉しい? どうして、嬉しいと思うのだろう。

「立花が思っていたことを素直に話してくれたから、だよ」
「どうして、わかったんですか」
「顔に書いてあったからね」
「……初めて言われました」

 そう言うと夏油先輩は、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
 なにを考えているかわからない。無表情。冷たい。どれもこれも、過去に言われたことのある言葉たちだ。

「夏油先輩は、凄いですね」
「私が凄いからわかったんじゃなくて、立花の表情が初めより柔らかく変化するようになったからだよ」
「…………」
「緊張しなくなってきているって、受け取っていいのかな」

 やはり、夏油先輩は凄いと思う。こうしてわたしが今まで緊張していたことも理解して、ずっと返事を待っていてくれていたのだから。

「まだ、少し緊張しますけど……」
「うん」
「夏油先輩と話すのは、好きです」

 彼の腕に力が込められた。「なるべく揺らさないように気をつけるけど、しっかり握っていて」と声をかけられ、言われた通りに強く夏油先輩の服を握れば、彼はぱしゃん、と水たまりに足を踏み入れた。


*  *  *


 帳を出たあと、補助監督の方にとても心配された。
 大きなタオルを持って体を包むようにかけられると、車の後部座席に押し込まれる。そして夏油先輩も同じようにタオルを肩にかけられてから隣へと押し込まれた。

「とにかく、二人が無事で本当に良かったです」
「……すみません」
「寒くないですか? なるべく急いで帰りますから」
「大丈夫、です……っくしゅ!」
「ああ……! 言わんこっちゃない。すみません夏油さん、後ろにもう一枚タオルあるので、取ってもらってもいいですか?」
「わかりました」

 夏油先輩は後部座席の後ろのスペースからタオルを取ると、わたしの頭の上にふわりとそれを乗せた。そして優しく髪の水気を取るように、ゆっくりと撫でるように動かしていく。

「あ、あの……」
「ん?」
「自分で、出来ます……」
「動かしたら傷が痛むだろう」
「大丈夫です」
「駄目です。立花さんはすぐ無茶しますから」
「そんなこと……」

 じっと、四つの眼がわたしを見つめた。

「わ、わかりました……」
「もしかして、いつも補助監督の人は一緒?」
「そう……ですね、なるべくそうしてもらってます」
「なるほど」
「どうして、ですか?」
「立花がリラックスして話しているように見えたから」

 言われてみれば、そうかもしれない。ちらりと運転席に視線を向ければ、補助監督の彼女もまた、嬉しそうに表情を緩めている。

「さ、早く帰りましょう。戻ったら、その傷見てもらって下さいね」

 ゆっくりと車が発進する。窓ガラスに打ちつける雨の音を聞きながら、わたしは夏油先輩に髪を拭かれる。高専に来てから、人の優しさに触れることが多くて、なんだか溶けてしまいそうだ。
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