第三話

「校舎の裏にある誰も来ない秘密の場所、知ってる?」

 そう問いかけた夏油先輩の言葉に、わたしは無言で首を左右に振った。
 春は過ぎ、初夏を感じるような陽射しに変わってきた頃。わたしと夏油先輩の小さな交流は始まった。

 初めはただ、驚いた。まさか夏油先輩がわたしに声をかけるなんて、思ってもみなかったからである。
 入学して約二ヶ月あまり。初めの頃は五条先輩によく話しかけられていたけれど、ここ最近はそれも少なくなっていた。原因はおそらく、というより確実に、わたしがうまく答えられなかったせい。そしてその場に夏油先輩がいることも少なくなく、また彼は五条先輩の隣でわたしたちの様子を見ているだけで今まで直接話したことは一度もなかったから、尚更驚いた。

「梅雨が始まる少し前から見頃になるんだ」

 石畳の階段を登りながら、夏油先輩はそう呟いた。見頃、とは一体どういうことだろう。隣を歩く彼に少しだけ首を傾げながら視線を向けてみたが、「着いたらわかるよ」と彼は表情を和らげるだけで答えてはくれなかった。
 偶然会った時に他愛もない会話をする。それはごくありふれた関係性なんだろうけれど、わたしにとってはその距離感がちょうどよく、また居心地よく感じていた。それが彼だからなのか、それともこの関係性がわたしにとっては珍しいことであるからなのか、はたまたどちらもなのか、自分でもよくわからないけれど。

「おいで、こっちだよ」

 階段を登ったあと、夏油先輩は道から外れた木々の間を潜り抜けていった。道無き道を迷わず進み続ける彼から離れぬよう、わたしはその大きな背中を追うようにして着いていく。

「着いたよ」

 しばらく歩いたあと、夏油先輩はそう言ってくるりと振り返った。生い茂る木々の中、振り返った隙間から覗く陽射しが少しだけ眩しい。一瞬眩むように目を細めれば、彼はそっとわたしの手を取ると導くように腕を引いた。その力はうんと優しく、柔らかい木漏れ日のようにあたたかい。そしてその先に見えたのは、少し開けた場所に咲く色とりどりの花たち。梅雨の時期に見頃を迎える、紫陽花の花が咲き誇っていた。

「…………」

 思わず、大きく息を吸った。木々に囲まれたそこは人の気配もせず、静寂に包まれている。柔らかい初夏の陽射しが降り注ぐ中、青や紫、白色の花が一面に咲いている景色はとてもとても、美しい。
 沈黙が続く。美しい景色にこんなにも胸を打たれているというのに、その感情を上手く表すことが出来ない自分が恨めしく、そして悲しいと思った。夏油先輩は今、なにを思っているだろう。なにも言わないわたしに、連れてきたことを後悔しているだろうか。
 言葉を探して口を開きかける。しかしその瞬間、「よかった」と、予想とは違った言葉が頭上から降り落ちた。

「え……」
「喜んでくれて」

 じわりと、あたたかいなにかが滲んだような気がした。
 初めて会話をしたあの日も、そして今も、彼はわたしの言葉足らずな会話や表情から一つ一つ感情を掬いあげてくれる。それが堪らなく嬉しくて、けれど同時に申し訳なくもあって、もっと彼と上手く話せたらいいのにと何度思ったことだろう。
 話すことが嫌いなわけではない。人と一緒にいることも嫌いではない。ただ、幼い頃から呪霊が見えていたせいで、人との関わり方がわからなくなってしまったのだ。

「綺麗です」
「うん」
「……本当に、綺麗」
「去年、偶然見つけたんだ」

 夏油先輩は開けた真ん中の部分まで歩いていくと、ゆっくりとわたしの方を振り返る。

「立花と同じように練習をしていた時、たまたまここに着いた」

 呪術師としての正しい在り方、そしてそれに伴う大きな力。夏油先輩はどちらも兼ね備えている人間だ。そしてそれは、おそらく彼の努力によって叶えられた姿なのだと思う。わたしはまだ彼のことを全然知らないけれど、内に秘めた呪術師としての大きな思いは、ここ最近の会話でなんとなく気づいたことであった。

「人が来ないから、一人になりたいときはたまにここに来るんだ」
「……わたしに教えて良かったんですか?」
「立花にだけは、教えたくなったんだよ」

 心臓の奥が少しだけ疼いたような気がした。嬉しいような、苦しいような、不思議な感覚がわたしを襲う。彼のことをまた一つ知ることが出来たからだろうか。

「夏油先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。気に入ってくれた?」
「はい、とても」

 雨の日はまた違った美しさがあるのだろう。艶やかに光る花弁と、美しい緑。雨の中、力強く咲くその姿を想像するだけでも神秘的な景色が広がるようだった。

 わたしたちはしばらくその景色を見つめていた。柔らかな風、ゆったりと流れる雲。酷く穏やかな時間は、少しずつわたしの中にあった強ばるなにかを解いていく。
 しかしこの時間が永遠ではないことを、わたしは身を持って体験している。だからこそ、この一瞬一瞬を大切にしなければならないし、していきたいと思う。
 息を吸えば微かに香る花の匂いと、土の匂い。
 もうすぐ梅雨が始まる。
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