第一話

 私と彼女が出会ったのは、彼女たちが高専に入学したばかりの春。
 そして初めて直接会話をしたのは、そこから約二ヶ月ほど経った、六月のことだった。

 その日は梅雨がはじまる前の、とてもからりとした暑い日だった。悟と硝子と三人での任務を終え、各自室へと戻る途中、報告書の存在を思い出して一人校舎へと踵を返した時のこと。
  ちょうど自販機のある部屋に差しかかる時、部屋の中からガコン、と鈍い音がした。首を動かさずにそっと視線を向ければ、自販機に向かい合う女子生徒が一人。
 つややかな濡羽色の髪、派手さはないけれど整った容姿、透き通るような白い肌、ほっそりとした長い指先。
 立花文乃。今年入学したばかりの、灰原と七海の同期である。
 彼女は自販機から吐き出された缶を手に取ると、隣にあるベンチに座るわけでも、プルタブを開けるわけでもなく、ただじっと手に持つそれを睨みつけていた。

「どうかしたの?」

 声をかけたのは、ただの気まぐれだった。立花が一人でいるところを、ほとんど見ることがなかったからというのもあるかもしれない。
 彼女は私に視線を向けると、「お疲れ様です」と丁寧に頭を下げた。そして問いには答えることなく、私が立つ扉とは別の、もう一つの出入口からこの部屋を抜け出そうと足を向ける。

「答えてくれないの? 寂しいな」

 我ながら意地の悪いことを言ったなと思った。扉に手をかけて固まったままの立花に静かに距離を詰めていくと、彼女はゆっくりと私の方に向き直って視線を絡めた。
 つんとした表情。深緑色の瞳は真っ直ぐ私を射抜いている。何度見ても、その顔は自分の好みのものであった。無愛想なのを除いて。
 彼女が入学したばかりの頃、悟が彼女のことを、顔だけはいいと言っていたことを思い出す。今まで私が直接会話をしてこなかったのは、どれだけ悟が話しかけてもそのつんとした表情で見つめられ、大した答えが返ってこないということを知っていたからだ。

「何か思いつめているように見えたんだけど、違った?」

 努めて優しく再び声をかければ、彼女は瞬きを二つほどしたあと、ゆっくりと俯いた。挨拶はきちんとするし言葉も丁寧だけれど、やはり会話をするとなるとそう簡単に答えてはくれなさそうだ。
 困ったな。このまま立ち去ってしまうのは後味が悪すぎる。悟は気にすることなく、ずけずけと質問を繰り返していたようだが。私はアイツとは違う。

「練習の、」
「え?」
「今日の練習での反省をしていました」

 しばらく、呆然と彼女を見下ろしてしまった。大きくはなかったけれど、思っていたよりもしっかりと返事が返ってきたことに驚きを隠せない。
 立花は俯いたまま力強く缶ジュースを握りしめていた。この子は、もしかして。

「今日は一年も任務じゃなかったかな?」
「…………」
「そのあと、練習していたのかい?」

 立花は静かに、「はい」と答えながら、こくんと頷いた。なんだ、ちゃんと会話、出来るじゃないか。言葉は少ないし相変わらず表情もほとんど変わらないけれど、答えようとしている様子は伺える。人と話すことが苦手なのだろうか。

「熱心だね」
「…………」
「いつもどの辺でやっているの?」
「裏の、森の方です」
「そのこと、灰原や七海は知ってる?」
「……はい。たまに、一緒にやったりするので」

 確かに同期三人でいるところをよく見かけていたが、思っていたよりも上手く交流出来ているようで少しだけ驚いた。おそらくあの二人は、彼女が無愛想なだけでないことを理解しているのだろう。
 そういえば前に悟がちょっかいを出していた時も、あまりいい顔をしていなかったことを思い出す。特に七海。今になってやっと、その表情の意味がしっかりと理解出来たような気がした。

「本当だ。ここ、葉っぱついてる」
「っ、」
「動かないで」

 屈んで、真っ直ぐと下ろされた髪に絡まった葉を取り除けば、俯いていた立花の深緑色の瞳と視線が絡んだ。
 先ほどよりも少しだけ眉を下げて、薄らと困惑した表情を浮かべている。しかし、視線はやはり真っ直ぐと私を射抜いていた。じりじりと焼け焦げてしまいそうな視線に、妙な感覚が襲ってくる。

「先輩……?」
「、ああ、取れたよ」

 立花はすぐさま私と距離を取って、「ありがとうございます」と再び丁寧に頭を下げると今度こそ部屋から抜け出した。
 しばしの間、彼女が抜け出した先をぼんやりと眺める。最後に浮べていた表情は、微かに頬が赤らんでいるようにも見えた気がした。あくまで気がするというだけで、実際にはほとんど変わっていなかったのだが。
 顔だけはいいだなんて、一体誰が言った? この数分で、彼女へのイメージががらりと変わってしまった。
 冷たさを孕んでいるのに、焦げてしまいそうになる視線。内側を擽られるような、妙な感覚。
 なんとなく、今日のことを悟には話したくないと思った。
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