第十五話
目が覚めたら、昨夜は聞こえなかったはずの雨音が響いていた。数日前にそろそろ梅雨入りをすると聞いていたけれど、どうやら今日がその日であったらしい。午前五時頃。本降りではないものの、ぽつりぽつりと空から絶え間なくそのしずくは零れ落ちていて、外は酷く薄暗い。
任務漬けの日々で昨夜はすぐに眠ってしまった。そして今日は久しぶりの休日で、早く起きる必要もない。このままもう一眠りしてしまおうか。しかしわたしの視界に入り込んだのは、枕元で淡く点滅していた携帯電話。そしてそれを確認したのち、わたしは準備もそこそこに自室を出た。淡く点滅していたその色は、傑先輩にだけ設定された色であった。
「夏油、お迎えだよ」
彼の部屋はもぬけの殻であったので、ぐるりと一周したあと医務室に足を向けた。その推測は正しかったようで、こんな時間であるのにその出入口からは微かに光が漏れている。半分ほど開け放たれた扉の隙間から中の様子を覗けば、先輩たち二人の姿。わたしの存在に先に気付いたのはちょうど出入口側を向いていた家入先輩の方で、彼女は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、そのあとすぐに薄く目を細めて、わたしに背を向けて座る傑先輩に声をかけた。
「……迎え?」
傑先輩は訝しげな表情を浮かべながら、家入先輩の視線の先にいるわたしの方を振り返った。ぱちりと目が合えば、彼は途端に目を見開いて「文乃?」と驚いたように声を上げる。
「わたしはもう寝るからな」
「ああ、すまない硝子」
「本当にな」
大きくため息をつきながら家入先輩は真っ直ぐと出入口の方へと向かってくる。そしてわたしの隣を通り過ぎるとき、「大した怪我じゃないよ、大丈夫」と柔らかい声音で呟いた。繁忙期に突入し、忙しいのは彼女だって同じ、というよりも彼女こそ一番忙しいはずであった。その証拠に目の下には薄らと隈が浮かび上がっている。わたしは、「ありがとうございます」とたくさんの意を込めて返事をした。
家入先輩の姿が見えなくなったあと、傑先輩はパイプ椅子を揺らしてわたしの方へと近付けば、「どうしてここに……今何時だと」と困惑した表情を見せた。
「おかえりなさいって、言いたくて……それと、最近会えていなかったので」
最後の方はもはや聞き取れぬほど小さくなってしまった気がする。傑先輩は大きく息を吐き出すと、そっとわたしを抱きしめた。
「おかえりなさい」
「、ただいま」
大きな背中に腕を回せば、傑先輩もまたわたしを抱く力をこめる。彼とこうして触れ合うのは、かれこれ二週間ぶりくらいのことであった。
「わたしも、今日はおやすみです」
「ゆっくり寝ててもよかったのに」
「……傑先輩と一緒がいいです」
「今日は随分と甘えただね、寂しかった?」
安心する匂いがゆっくりと肺を満たしていき、規則的に活動を続ける鼓動の音が鼓膜を揺らす。わたしはそのあたたかな温もりに擦り寄り、静かに頷いた。すると傑先輩はぴたりと動きを止め、困ったように小さく笑い声を漏らすと「参ったな」と独り言のように呟いた。
約一週間ぶりに主が戻った室内は薄暗いままであったが、確かにそこに温度はあった。大きな荷物を片付けることもせずシャワーを浴びてきた傑先輩は、わたしを抱きかかえるとすぐにベッドへと潜り込んだ。カーテンの隙間から薄らと淡い光が差し込んでいる。その透明なガラス越しからは、やはり変わらず雨音が微かに聞こえた。
「怪我は、」
「大丈夫、大したことないよ」
緩いトップスの下。そこには跡など一つもなく、綺麗な素肌が存在しているのだろう。しかしそこに傷を負ったことは確かであり、また消えることのない事実であった。もしそれが、手遅れなものであったとしたら。その可能性だって、十二分にあり得るのだ。ふと、一年前に傑先輩から“わたしの痛くないは信用ならない”と言われたときのことを思い出す。あの時の彼は、こんな気持ちだったのだろうか。
「傑先輩の気持ちが、やっと今わかったような気がします」
「なんの話?」
「去年の梅雨の……そうであったとしても、心配はします」
彼はその言葉に合点が付いたように、「……そうだね、ごめん。でももう硝子に治してもらったから本当に大丈夫だよ」と優しくわたしの頭を撫でた。 完治した怪我についてこれ以上の会話は無用なのかもしれないけれど、わたしたちにとって突然身に降りかかるその災いは決して軽んじてはならないものであった。
頭を撫でていた傑先輩の指がわたしの毛先に触れる。そこは、まるであの日のことがなかったかのように以前と同じくらいまで伸びていた。
* * *
夢を見た。はっきりとは覚えていないが、悪夢であったことには間違いなかった。滲む汗、上がる吐息、雨のせいで冷たい空気に包まれていた部屋の中が突然恐ろしいと感じられる。恐ろしいものはもっと他にたくさんあるというのに。──らしくない。自分でもそう思った。
「すぐる、せんぱい?」
上がる吐息を抑える間もなく、隣で眠る文乃が私に声をかけた。起こしてしまったか。未だ激しく脈打つ心臓の音を抑えるように、私は大きく深呼吸をする。
「……ごめん、起こした?」
「…………」
「文乃?」
彼女は私の問いに答えることなく、ぼんやりとした瞳を私に向けていた。もしかしたら、まだ意識は微睡みの中にいるのだろうか。私はもう一度、彼女の名前を呼んでみる。すると彼女はゆったりとした動きで腕を伸ばすと、私の頬を撫で、身を寄せるように背中に腕を回した。そして私の激しく脈打つ心臓を落ち着かせるように、彼女の手が何度も私の背を往復する。
「わたしはずっと、ここにいます」
とろりとした声音は半分寝惚けているようにも聞こえた。そしてその言葉は半ば無意識漏れたような発言で、それが彼女の本心なのだと私はしっかりと理解することが出来た。ずっと、だなんて彼女は早々口にしない。それを把握していたからこそ、本音のようなその言葉が、鼓膜から、触れた肌から、体中を巡るような感覚がした。好きすぎて、胸が苦しい。そんな在りきたりなラブソングのような感情が、私の中を満たしていく。私の安心は目の前にいる彼女がいるからこそ得られるものなのだと、改めて思った。
彼女の手の動きに釣られように次第に重くなる瞼。いつの間にか、部屋中に蔓延っていた冷たい空気を恐ろしいとは感じなくなっていた。
再び目が覚めたときには正午を過ぎていた。しかし外は未だ暗いままで雨が止むことはなく、むしろ強まっているような気がする。文乃は先ほどから窓の外をじっと見つめていた。
「どうかした?」
「紫陽花、一緒に見たかったなと思って」
「……ああ、あそこの」
しかし、降り続ける雨が止む気配はない。それでも、彼女は願うように視線を逸らすことはしなかった。
「行ってみる?」
「え……今日、ですか?」
「うん、次いつ会えるかわからないしね」
その事実に、自分で言ったあと少しだけ後悔をした。案の定文乃は眉を寄せて、唇をきゅっと噤んでいる。全く、今日は本当にらしくない。
「ううん、ごめん。そんなつもりで言ったわけじゃない」
「大丈夫です、わかってます」
文乃は両手で私の手を握り、そっと目を閉じると、「紫陽花、見に行きたいです」と祈るように囁いた。
そうして私たちは二人並んで傘を差し、ぬかるんだ山道を登ってあの場所へ向かった。会話は雨音でかき消されてしまい、いつの間にかお互い無言のままであった。次第に強まる雨。本音を隠すことが出来なかった、あの雨の日を思い出させるようであった。
「──美しいと思えるのは、」
雨粒に打たれながらもそれは確かに咲き誇っていた。色とりどりの花弁。艶やかな緑色の葉。文乃のその言葉の前後は、雨音のせいではっきりとは聞こえなかった。そして彼女の表情も、傘に隠れてよく見えることが出来なかった。