姿かたちは知っていたはずなのに、わたしはあの日、あの瞬間から、彼に惹かれてしまったのだと思う。それは自分の力ではもうどうすることも出来なくて、けれど認めることもまた出来なかった。いっそのこと、彼の望む通り世界が変わってしまえば、わたしたちの関係もまたなにか変わったのだろうか。しかしこんなたらればの妄想も、もう意味の無いことなのだけれど。



 彼と初めて出会った場所は、その地域ではまあまあ大きく力のあるファミリーが主催したパーティーの会場内であった。わたしは自他共に認めた一番似合う色、形をしたドレスを纏って、光り輝いた会場内でヒールの音を鳴らしてゆっくりと中を徘徊していた。周りの視線が幾らか自分に向いていることにも気付いていたが、気付かない振りをして時折見知った顔や声をかけてきた人々と会話をする。ここまでは予定通りであった。そしてそのあとの行動も予定通りのものであった。そう、途中までは。
 会場内の中心付近。わたしと同じように人目を奪っていた、すらりとした体躯の持ち主に寄っていきパチリと視線を合わせる。そしてパッと視線を逸らして踵を返せば、「ねえ、君」と、予想通り、擽ったささえ感じる柔らかい声がわたしの耳に届いた。

「わたし、ですか?」
「そう、君。今、結構あからさまに視線逸らしたよね? ちょっと傷ついちゃったなーなんて」
「すみません……そんなつもりはなかったんですけど」

 彼はコツコツと靴音を鳴らしてわたしに近付いた。ふわふわとした白い髪と、それとは正反対な真っ黒なスーツ。手が届く範囲まで近付いた時、思っていたよりも視線が高いことに少しだけ驚いたけれど、彼はニコリと笑みを浮かべたあとに深く腰を折ってわたしと視線を合わせた。そうして薄い菫のような色をした瞳が、じっと、鋭くわたしを射抜く。「本当に?」続けられた言葉は、視線とは裏腹に酷く優しかった。
 本来ならば、わたしはこの場で謝罪をして、彼の名前を聞く予定であった。女性らしく、控えめに。しかし怯えた様子は見せず、この世界での立ち振る舞いを理解した者であると彼に知ってもらう必要があった。それなのに、この時のわたしはその目の前で真っ直ぐとわたしを射抜く瞳に見惚れてしまって、上手く言葉を紡ぎ出すことが出来なかった。固まるわたしに彼は小さく吹き出すと、「名前は?」とわたしの手を取る。彼の指先は酷く冷たかった。

「……なまえ、です」
「なまえチャンね、僕は白蘭。ね、今日は一人?」
「違いますけど……ちょっと嫌になっちゃって、抜け出してきました」
「へえ、意外と悪い子なんだ? じゃあこのまま僕と一緒にここ、抜け出してみる?」

 白蘭は──もちろん名前は初めから知っていたけど──わたしの指にゆっくりと自身の指を絡ませると、そっと耳元で囁いた。幾度となくこういう場を経験したことがあるのにもかかわらず、この日のわたしはまるで初な少女のように固まって、気の抜けた声しか出せなかった。思わぬ状況に自分でも混乱した。彼は再び吹き出すように笑って、「あはは、なまえチャン可愛いね」と言った。予定外ではあったがわたしたちの出会い方は決して悪くなかった。だからこの時に自分の異変には気付かない振りをして、わたしは彼の手を取った。 そうしてその日の夜、彼は本当に煌びやかな会場からわたしを夏の夜に連れ出した。




 こんなはずじゃなかった。そう思うようになったのは一体いつからだっただろうか。
 あの夏夜からわたしは白蘭に呼ばれることがしばしばあった。それは何日も前に「デートしよ」と予定を立ててきたり、「今から会えない?」と突然呼び出されることもあったり。そうして逢瀬を重ね彼のことを知っていく内に、彼はことごとくわたしの予想を越えてきた。それは良い意味でも、悪い意味でも。
 その見た目から、瞳から、彼はいつだって涼やかで、そして品のある人のように見えた。しかし実際は子供のようにひょうきんな一面も持っていて、楽しいことや面白いことが好きなこと、時間にルーズなところ。なににも囚われない様はとても自由そうに見えた。彼と過ごす時間はなにもかもを忘れてしまうほど楽しく、心地の良いものであった。
 中でも、そう思える要因の一つでもあり、またわたしの予想を越えてきた一番の理由がある。それは、彼は一度だってわたしの中を暴いたことがないということだ。出会った夏の夜も煌びやかなホールからわたしを連れ出したけれど、彼は川沿いをただふらふらと歩くだけでそのあとはベンチで他愛もない話をするだけだったのだ。彼はその時、わたしを揶揄うように「ちょっと期待した?」と頬をなぞったけれど、「手を出して今晩限りは勿体ないと思ったから。なまえチャンと普通に仲良くなりたいんだよね」とまるで睦言のように酷く甘ったるい声で言った。生ぬるい風が、余計にそう感じさせたのかもしれない。

 逢瀬は決して夜だけではなかった。雲ひとつない大空の下で、わたしは約束ぴったりの時間にいつもの場所へ向かう。初めこそ白蘭はわたしより先に約束の場所で待ってくれていたけれど、最近はわたしと同じか、それよりあとか。小煩い部下の立ち話が長かっただとか、夢を見ていて起きられなかっただとか、そんなようなことをいつも言っていた。本当か嘘か、わからないけれど。しかしその日はわたしが到着する前に、あのふわふわとした白菫色の髪が待ち合わせの場所で見えた。

「や。」
「珍しい……最近はいつも遅刻するのに」
「たまにはしっかりしていないとなまえチャンに捨てられそうだからね」
「しっかりしていない自覚、あったんだ」
「そこは絶対捨てない! って否定してくれてもいいんじゃない?」

 わざとらしく、ぷくっと頬を膨らませる様子にわたしは「ごめん」と、人差し指で膨らんだそこを軽く押した。白蘭はその手を取るとケロリといつものように笑みを浮かべて、「じゃ、行こっか」とわたしを引き連れる。

「今日はどこ行くの?」
「んー、特に決めてない。暑い?」
「まあ、少し」
「じゃあジェラートでも食べよっか」

 道沿いに植えられた木々の下を手を繋いで歩く。白蘭の手は夏でもほんのりと冷たく、それが酷く心地良かった。逆にわたしの手は暑くないだろうかと意識するようになったのはほとんど初めからのことで、彼は「ぜーんぜん」と、なにも気にしていないようにあの日からその日までどんなに暑い日でも必ずわたしと指を絡めた。「何味にしようかな」と浮かれた様子で歩く姿は、どう見たって現在裏社会で恐れられているマフィアのボスとは思えなかった。

「マシマロ味ないかな」
「そんなの一度も見たことないよ」
「絶対美味しいと思うんだけどな」

 やはり、そんな人には到底見えなかった。




 この時には、わたしはもう戻れないところまで来ていることを自覚していた。自分を取り巻く環境も彼の立ち位置も忘れ、時間を重ねていた。その頃からだろうか。彼が自由に見えて、不自由にも見えるようになってきたのは。楽しいことが好きだと思っていたけれど、なにも楽しくないと思っているのではと感じる時があったのは。

 そうしてそれが確信めいたものになったのは、好きな映画の話になった日のことだ。わたしはこれといって好きなものはないけれどホラー映画だけは苦手だと告げると、白蘭は特に苦手なものはないけれど好きなものもないと言った。だから、その時に一番流行っていた映画を二人で見た。運命的な出会いをして、二人で幾つもの試練を乗り越えた先に結ばれるラブロマンス。わたしはその時正直それほど面白くないなと思ったけれど、彼は面白かったねと言ったのでなにも言わなかった。しかしそのあと夕食を食べた時も、その帰りも、映画のことは何一つ話さなかった。わたしは彼と別れる最後、「ごめん、あの映画、わたしはあんまり好きになれなかった」と白状した。 すると彼は、わたしの手を引いて力強く抱き締めたのだ。

「馬鹿だなあ、本当」
「白、蘭……?」
「ごめん、嘘ついた。僕も、面白いと思えなかった」

 まばらとはいえ、人が行き交う広場の片隅で抱き合うわたしたちは、まるでつい数時間前に見たあの映画のようにロマンスに溢れているように見えただろう。しかし街頭に背を向けて影に隠れた白蘭の瞳は酷く哀愁を帯びていて、出会った当初の鋭さは欠片もなかった。単なる気の所為かもしれない。けれどこの時、わたしは初めて彼の心に触れたような気がした。

「みんなが好きなものが必ず好きとは限らないから」
「うん……ねえ、なまえチャン」
「ん?」
「今日は、帰らないで」

 ゆっくりと、夏夜のぬるい風がわたしの心臓をなぞるような心地がした。どこか寂しく、けれど確実に熱で溶けていくような感覚。ああ、もう戻れない。少し前から自覚していたことではあったが、この瞬間が一番強く感じた時であった。そうしてわたしは彼の唇に自らの唇を重ね合わせた。




「愛情表現の最上はセックスだと思う?」

 落ち着いた色の家具と、薄明るい間接照明だけが灯る空間。白蘭はあのあとこの付近で一番大きくて名の知れたホテルに連れて行くと、わたしをソファに座らせてからそう尋ねた。肌触りもよく、柔らかなソファはわたしを包み込んで深く沈む。彼は逃れられぬように目の前に立ち塞がった。

「急に、なに、」
「僕はそうは思わないんだよね……もちろん性欲がないという訳じゃないんだけど、人間の最低限の欲求が特定の誰かに対する愛情表現になるのかというのがわからないんだ」

 白蘭はわたしの手を取って、手首にそっと口付けを落とした。果たしてその意味を、彼は理解してそこに落としたのだろうか。彼が紡ぐ言葉と、行動と、漂う空気がちぐはぐすぎて、頭が混乱しそうになる。そうなる一歩手前で留まっていられるのは、彼の涼やかな瞳が真っ直ぐとわたしを射抜いているからだろう。

「……わたしは、」
「うん」
「愛のあるセックスは好きだし、愛情表現だとも思う。けど、白蘭が言ってることがわからないわけじゃない……だから、否定するつもりもない」
「なまえチャンは正直だね」
「白蘭だってそうだと思うけど……」
「僕は、違うかな」

 彼はそのあと、わたしにたくさんの口付けを落とした。もちろん、唇にも。今までその柔らかな舌が絡み合ったことはなかったけれど、その時初めて彼の内側の温度を知った。不思議な感覚だった。彼は、少々潔癖なところがあると思っていたから。その行為も、それほど好きではないだろうと思っていたから。とはいえ本人に確認をしたことがないから、本当のことは結局最後までわからなかったけれど。
 彼は初めに言った通り、わたしと性行為をすることはなかった。しかし入浴を済ませたあとはわたしの髪を乾かしてくれたし、お互いが眠たくなるまでソファで寄り添った。そうして眠る時は同じベッドの上で、彼の腕の中で眠った。朝起きた時も、眠る前と同じ光景が広がっていた。




 日照時間が少しばかり短くなり、日が沈む前から心地の良い温度の風が流れるようになった頃の話だ。既にこの時には、互いの事情をなんとなく知った上で隣にいることを理解していた。言葉にしたことはない。けれど、わたしがなぜ彼の前に現れたのかということ。そしてその答えを果たせていないこと。白蘭は、おそらくどちらも初めから理解していたんだろうけれど、それでも、彼は一度だってわたしを殺そうとはしなかったし、会わないという選択肢も取らなかった。わたしは、それが彼の答えなのだと思った。それを理解してから、彼との逢瀬に以前よりも幸福を感じるようになり、手を伸ばしたい衝動にも駆られていた。奥底にある罪悪感も相まったのかもしれない。しかし、物事はいつだって唐突に起こり得る。出会いも、そして別れも。

 初めて寄り添って眠ったホテルに滞在していた日のこと。あの柔らかなソファに腰掛け、白蘭はわたしの髪をくるくると遊ぶように指へと絡ませていた。会話は特になかったが、それでも漂う空気は柔らかかったと思う。彼からの一言が耳に届くまでは。

「しばらく会えなくなる」

 唐突に告げられた言葉に、わたしの体は指の先までぴたりと固まった。そうしてゆっくりと頭の中でその意味を咀嚼して、ただ一言「うん」と答えた。本来ならば、理由も、期間も、聞くべきなのはわかっていた。白蘭は長いため息をついたあと、わたしの肩に額を押し付けた。

「……こんなはずじゃなかったんだけどな」
「え?」
「酷いと思うかもしれないけど、なまえチャンと一緒にいるの思ってたより心地よくて、」

 この時のわたしはおそらく酷い顔をしていたのだと思う。白蘭は小さく笑ったあと、「血が出ちゃうよ」と言ってわたしの唇を人差し指の腹でそっとなぞった。そうして唇が開きかけて思わず言葉を口にしそうになった時、今度は「駄目だよ」と彼は唇でそれを塞いだ。結局わたしたちは最後まで大事なことはなにも言葉にせず、嘘か本当かわからない会話をして時間を重ねていただけであった。けれど寄り添っていた時間は確かに心地の良いものであったと思う。彼の手がわたしの頬に添えられ、唇の角度を変えて、幾度となく口付けを重ねる。これが、わたしたちの最後のキスであった。



 最後のキスをした日からしばらくの時が経ち、わたしは白蘭がこの世からいなくなったことを知った。そして、世界を手に入れるために白蘭が心を破壊して奪い取った少女も。白蘭は、過去から来たボンゴレファミリーの十代目ボスによって倒されたそうだ。わたしはそれを自らが所属するファミリーに聞かされるまで、なにも知らなかった。本来ならば探らなければいけなかったことのはずなのに。気がついたら全てが終わっていて、わたし一人だけがこの世界に取り残されていた。しかし、よく考えてみれば、わたしと白蘭の関係はそもそもなにも始まってなどいなく、お互いのこともなにも知らないままであった。互いを表す言葉も、本当の気持ちも。なにも、なにも。それは彼の優しさによって作られたわたしの逃げ道だということも理解してはいたけれど、それならいっそのこと連れ去られてしまった方が幸せだったと今になって思うのだ。そうしてわたしは今更になって彼のことを愛していたことに目を背けていたことを後悔した。



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