砂糖が焦げる一歩手前

 ねえねえ、ねえってば。
 しばらく前からもうずっとこれだ。隣から何度も名前を呼ばれては、お土産を買ってきただとか、執務室に置く花が変わったことだとか、仕事に関係のない話ばかり。しかしこれは今日に始まったことでもないので、いつも通り無視を続けカタカタとキーボードを叩いていると「構ってくれなくてツマンナイ」とぼやき始めてから今度は、つんとしたところも可愛いだとか、雷が怖いところも意外で好きだとか口説き始めた。思ってもいないことをよくペラペラと話せたものだと思ったが、彼の本心なんてそもそも誰もわかりはしないのだからこれも今に始まったことではない。

「白蘭」
「ん? なあに? ちょっと照れた?」
「うるさいから静かにして」

 目の前の画面から一切視線を逸らさずそう言えば、彼は隣の空いたデスクに突っ伏すように腕を伸ばして「全然効果ない……」と独り言を漏らした。そもそも現在は隣にいる白蘭含め仕事をするべき時間であり、こうして隣でサボられると皺寄せがどんどんわたしにくるので早く執務室に戻って欲しいくらいである。

「今日やるべき仕事、まだ終わってないでしょう?」
「あとでやるから大丈夫だよ。正チャンが」
「正一に回さないで、自分でやって」
「やる気を出そうとこうして来たのに、構ってくれないから戻ろうにも戻れないんだよ」

 ああ言えばこう言う。しかしこのような会話もほとんど毎日のことだった。執務室の隣にあるここ、秘書室にすぐ立ち寄っては隣に腰掛け永遠と構ってアピールをしてくる。本当は白蘭が座る席に秘書がもう一人いたのだが、いつの間にか姿を消してしまった。なのでミルフィオーレ結成前から白蘭と正一と関係のあるわたしだけが現在彼の秘書──と言っても彼は基本一人でふらふらと動いてしまうので仕事の割り振りやデスク作業──としてここで働いている。
 尚も居座り続ける白蘭にわたしは今度こそキーボードを叩く手を止めて、くるりと彼に向き合った。しかし彼は不貞腐れたようにデスクに突っ伏したままで視線が合うことはない。

「白蘭」
「なまえチャンが全然構ってくれないからもう話すネタなくなっちゃった。お土産だって買ってきたのに」

 ならもう部屋に戻ってくれと思ったけれど、流石にそれは酷すぎるかと思い言わなかった。確かに毎日長い時は一時間以上いる時だってあるが、本当に疲れている時もあるだろうしストレスも溜まっているのかもしれない。話くらい聞いてあげればよかっただろうか。ほんの少しだけ罪悪感を抱いた。

「ごめんね、白蘭。お土産ありがとう」
「うん」
「お花も、わたしが好きなやつにしてくれたんでしょ?」
「うん」
「……どうしたらやる気出してくれる?」
「……ちゅーして」
「ん?」
「だから、ちゅーして」

 一瞬自分の耳がおかしくなったのかと思った。白蘭は依然としてデスクに突っ伏したままなのでハッキリと表情は見えないけれど、いつもの揶揄う時のような空気は感じられない。え、流石に冗談だよね? なんでなにも言ってくれないの?
 なんて答えようか迷っていると白蘭はもぞもぞとようやく動き出したかと思えば、ジト、と不機嫌そうな視線をわざとらしくわたしに向ける。そんな目をしてもちゅーはしませんから。なんでもやるとは言っていない。

「ケチ」
「まだなにも言ってない」
「目で言ってる。絶対やらないって」
「ちゅ……キスは、違うでしょ」

 すると白蘭は「あーあ、やる気なくなってきちゃった」とわざとらしく呟いてわたしの肩にもたれかかった。ソファならまだしもお互いデスクチェアに座っているため、反動でキャスターがカラカラと動いてしまう。「ちょっと、」肩にのしかかったその大きな体を押し戻そうと手を伸ばした時、待ってましたと言わんばかりに口角を上げた彼がすかさずわたしの手を取った。

──ちゅ。

「え」
「はい、ごちそうさま」
「え?」
「やる気でた〜」

 いやいやいやちょっと待って。なに勝手にキスしてるの。そしてなに勝手に満足してるの。言いたいことはこれ以上にたくさんあるのに、わたしの口はパクパクと酸欠になった魚のように反復するだけだった。白蘭が執務室への扉に手をかける。そうして一度わたしの方を振り返った時、彼はニヤニヤと笑みを浮かべてから「なに? もう一回したくなっちゃった?」と、こてんと首を傾けた。


2021.07.22



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