■ 1
「―― 帰ろうよ、エドガー」
エドガーの手首を掴み、強く引っ張ってみても、彼はこちらを見向きもしない。
その視線の先には、今日知り合ったばかりの女の子…… ううん、出会ったのは今日が初めてじゃない。
つい先日、町で見かけた時から、エドガーは彼女の事ばかり考えていた。
黒い髪の、どこか心細げな眼をしたブランカ。
たった一度見かけただけだったから、僕はもう忘れかけていたのに。
でも、エドガーは…… ずっと考えていたんだ。あの子のことを。
空襲でロンドンの家が焼けてしまい、戦火を逃れてやってきたこの地で、エドガーと僕と二人、ようやく静かに時を過ごせると思っていたのに。
シューベルトの『春の夢』に誘われて、僕達の住む赤い家に、突然ドイツ語を話す男の子が迷い込んできた。それがブランカの弟のノアだった。
ノアを家まで送る途中で、彼を探していたブランカに、再び出会ったんだ。
「ねえったら! ここまで送ってきたんだから、もういいでしょ?外は寒い」
アングルシー島の風は強い。ここは海から距離はあるはずなのに、潮の匂いが疎林の隙間を吹き抜ける風と共に流れてくる。
寒々しい姿の木々の枝達が、キシキシと擦れ合う。
「なら、アランだけ先に帰れば?」
やっと応えが返ってきて、エドガーは一瞬だけ僕を振り返るけど、またすぐにその青い瞳はブランカの姿を追っていた。
僕の方を見ないエドガーの、襟足の薄茶色の巻き毛が、風に震えてる。何も言い返すこともできないで、後ろからそれを見ていると、何故か胸の奥が締め付けられた。
ブランカとノアの声と、枝の軋む音と、風と小川の流れる音。
たぶんここは平和なのだろう。
そして僕は、いつもの不安が込み上げてくる。
―― どうせ僕は……
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【clap】
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