閉園時間


女の子はお腹に海を飼っている、と羽風薫は思う。子宮。羽風薫にはない。男という生物である以上至極当然のことで、羽風は自分の性別に違和感を感じたことも、不満を持ったこともなかったが、その事実はどうしてかひどくさみしいもののように思った。血と肉のゆりかごは開花の時を待つように、女のお腹の中でぱっくりあくびをしている。
夜、窓の外で星がさえずりを始めるころ、羽風はひとり校内に残っていた。ユニット練習はなく、海洋生物部に寄る気も起きず、テラスでお茶を啜っていたらこんな時間になっていた。空調のない廊下は底冷えするほどで、ブレザーの上からさらに上着を羽織っていてもまだ寒い。
「羽風先輩」
「!あぁ、名前ちゃんか」
突然後ろからかけられた声に驚き立ちすくむが、その声の主人はこの学院内唯一の女子生徒だった。いくぶんも目線は低いけれどぴんと伸びた背筋、長い髪はまっすぐ地に向かって落ちる。
名前の場合は自分とはわけが違うだろう、と考える。ぐうたらして夜になっていた自分と、おそらくプロデューサー業が忙しなくこの時間まで残らざるを得なかったあんずが並んで歩くのは気が引けて、同時に、そんな遠慮が己の裡にまだあることに、喉だけで笑みを押し殺した。
彼女から声をかけてくることは珍しい。好かれるようなことをしたこともなく、むしろ、暇さえあればお茶に誘う行為を彼女は嫌悪しているようだった。
羽風にとって愛は平等でありたいものだった。愛が平等に配られるものではないことを知っていたから、女の子にだけは、平等に配り歩く存在でありたかった。
その羽風の思想と彼女のプロデュース業はどこか似通っている。羽風の軟派な行動を嫌悪していても羽風自身を色眼鏡で見ることはなく、どこかのユニットを極端に嫌ったり、贔屓したりはしなかった。学院に革命を起こすまではトリックスターに肩入れをしていた節はあるが、UNDEAD自身叛逆者の立ち位置に近く、羽風がどうこう言える義理ではない。
彼女は愛を振りまく。天上で美しく、輝かしくあれ、とアイドルの原石を丁寧に磨いていく。その彼らからの愛情を、自身は決して受け取らないままに。
「羽風先輩は、レッスンですか」
「んーん。帰りたくないだけ」
へらへら笑っているが本心からの言葉であると分かったようで、彼女は平行だった眉毛をほんのちょっと下げた。そこでふと違和感に気づく。
「顔色、悪くない?」
蛍光灯、とは名ばかりの、自然と対極を走り抜く青白い光は彼女の顔をはっきりと照らす。化粧気のないシンプルな顔立ちが、今はやたらと血の気がなく見えた。
羽風の言葉に名前は答えなかった。代わりに濡羽の睫毛が伏せられて揺れた。自分のこととなると途端に後回しと無視を決め込んでこの有様である。
「きみが倒れたら、仕事も手につかなくなるような野郎がこの学院にはいっぱいいるんだよ。休息は取らなきゃ」
「分かってます。迷惑はかけません」
羽風は静かに瞳を細めた。
「ホントに分かってたら、そんなことは言わないだろうね」
迷惑だから休めと言っているのではない。心配だから休め、それだけのことすら伝わらないもどかしさに語調がきつくなる。
一度気にかかってしまえば、その唇の色のなさや、寒さにもかかわらず薄着であることも目についた。羽風のことばに身を縮こまらせうつむいていた彼女は、視線は下げたまま、聞こえるかどうか瀬戸際のかすかな声を発した。
「お腹が、痛くて」
「…………」
「保健室から、教室に荷物を取りにいくところでした」
道理で。
羽風は己の不慮を心底悔やんだ。女性の扱いにはたいそう自信のある己が転校生を相手に言動を間違え、女性にとっては言いづらいことを白状させる形になってしまった。
男だらけの学院である。肋骨からつくられた一対の性、それを持つ彼女がどのような苦労を肩に乗せているのか知るすべはない。だからこそ、自分が慮らねばいけないはずだったのに。他の奴と自分は違うとどこか思い上がっていたような気がした。
「……荷物は俺が取りに行くから。名前ちゃんはここで待ってて」
「いえ、自分で……わっ」
上着を彼女の方へ放り投げて、急いで突き当たりの階段を駆け上る。校舎内はいつにも増して寒くて、それが今では自分の体にどこか心地よかった。冷静になれ、と声が聞こえる。けれどどれだけ落ち着き払ってかっこいい男になったって、女の子ひとり助けられないようじゃ、ダメじゃん。頭の芯は氷のような冷たいのに、指先がじんじんと熱い。
教室に入るとすぐに彼女の荷物は見つかった。指定鞄と裁縫セット。がらんとした夜の教室は水底のようだと思った。か細い月光は明かりとしては心もとない。施錠時間に間に合ってラッキー、とだけ考えて、また来た道を走って戻る。
彼女は廊下の端に座り込んでいた。羽風の貸した上着を着てもまだ寒いらしく、膝を抱えてまあるい姿勢になっている。足音に顔だけを上げて、目が合うと「ありがとうございます。お手数おかけしました」と律儀な礼をした。そのまま立ち上がって受け取ろうとする彼女を、羽風は手で制止した。
「待って、俺ってそんなに薄情な男に見えてるの?」
「? いいえ」
「体調の悪い女の子を放って帰るほど甲斐性のない男じゃないよ。荷物は俺が持つ。大人しくおぶられて」
おぶられて、の部分に、あからさまに渋い顔をするのがちょっとだけ微笑ましい。拒否されているというのに、小さい子の駄々に付き合うようなあたたかさをほんの少し感じて。羽風がくるりと背中を向けて「ほら」としゃがむと、しばしの逡巡ののち、思ったよりずっと軽い感触がした。ちゃんと食べてる?と聞きたいけれど、余計なことを喋ったら彼女はきっと嫌がるだろう、とも考えられて、静かに進むことにした。
学院のそばは閑静だし、なによりこの時間だった。校門を出ると夜風の強さが身に染みて、彼女の体がぎゅっと縮こまるのが分かった。「寒い?」と聞くと短く「いえ」と返ってきた。
少しは弱音を吐いて欲しかった。折れてから修復することはなんだって難しい。今ならきっと風にとけてしまうよ、と羽風は言った。返事もない。ただ、かすかに口を開くか迷う気配はした。




「こんなのいらなかったのに」
ひとりごと以外の意味を持たないことばが宙に浮かんでは消えた。こんなの、そうか、彼女にとっては、こんなのか。声は震えていて、ひょっとしたら泣いているのかもしれない。彼女の性格的に、悔しさから。こんなのがなければもっといっぱい働けたのに。こんなのがなければもう少し無茶も効いたのに。直接は言わないがつまりそういうことだろう。
生まれつき持たざる者であった羽風には、うまいことばが見つけられなかった。遊んでいる女の子たちが生理だるいだとか、とっちゃいたいだとか、冗談めいて言うことはあっても、それは彼女の言葉の重みとは段違いだった。だから容易な返事は許されず、自分の思考を拾い集めては、ちぐはぐに縫った返事で包み込んだ。
「名前ちゃん、俺はわりと、海で死にたいと思ってる男なんだけど」
無言で、彼女の吐息だけが近く聞こえる。
「君からそれがなくなったら、俺は死んだ時どこにも帰れなくなりそうなんだよ」
「……じゃあ、死なないでください」
「んーー、正論!」
羽風がけたけた笑うと、背中の彼女も同じように揺れて、その髪がさらりと羽風の首筋に落ちた。くすぐったいし照れくさい。
夜の道は変わらず暗く、背中の彼女の表情はわからない。アイドルだって言うのに、身近な女ひとり満足に慰めてあげられない。空っぽの自分のお腹を恨むようにため息をひとつついて、ぬるい背中の柔さに、海に帰るときはこのくらいあたたかければいいと思った。
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