春はまだ海の上


渇きを覚え、不意に意識が表層へ持ち上げられる感覚。あ、起きる、と思った時にはもう目が覚めていて、わたしの視界には、見覚えのない天井が広がっていた。
「!?」
自室じゃない!その驚きで飛び起きた拍子に布団が落ちる。普段は畳に布団敷いて寝てるのに、ベッドから布団が落ちる時点でもう頭はパニックだ。しかも、わたし、パンツしか履いてない!慌てて布団の中を漁るとブラジャーを発見した。服は床に無残に散らかっている。しかしわたしの服以外は完全に男の部屋という感じで、これは間違いなく、やらかした。っていうか、やった。
服を拾い上げては身につけて、昨日のことを思い出そうにも頭がズキズキ痛む。あと気持ちが悪い。明らかに二日酔いの症状全開、ということは飲みすぎた拍子で誰かとやらかしてしまったということになる。前に彼氏にフラれた翌日、Tinderで適当なのを誘って飲んだらやってしまって以来、二度とやるまいと思ってたのに、またやった。アホだ。言いようのないくらいアホである。
とりあえず自分のカバンを漁って財布大丈夫かな?とかスマホ生きてる?と確認してみるけれど、一揃い無事で安心する。いや、ここで安心してる場合じゃないけど。
わたしが床でゴソゴソと打ちひしがれていると、入口の方からひたひたと足音が聞こえた。当然ビビり散らかしながら振り返る。
そこには、かつて毎日のように拝んだイケメンフェイスがあった。
「さ、佐伯……」
「おはよ、起きた?腕時計探してるの?」
「お……はよ。そう」
「忘れんぼだなー。机の上に置いとくって言ったでしょ」
どうやら佐伯は私が自分の腕時計を探してると思ったようだった。全く何が何だかわかってない私を、寝ぼけてると思ったのか、佐伯は軽く抱き寄せて頬にキスをした。
何?今何した?てか何で?
「朝ごはんできてるよ。起こそうと思ったところだった」
「アリガトウゴザイマス……」
赤くなればいいのか青くなればいいのかわからない!腰に回された腕はしなやかでたくましい。わたしは、一抹の罪悪感、そして9割5分の「夢であってくれ」という気持ちをもって、ようやく疑問を投げ出した。
「あのさ、わたしと、佐伯、昨日、なにした?」
佐伯は切れ長のアーモンドアイを二度ほど、きょとんとまたたかせた。


ーー


佐伯虎次郎は中学の同級生で、わたしが東京の大学に出て奇跡的に再会した友人だ。
千葉でも田舎の方に住んでいたわたしは東京に間借りし、のんびり大学生活を過ごしていたが、佐伯と再会したのはほんの3ヶ月前のことだった。学部は違うが、履修人数の少ない選択科目でやたらに目立つ男前を見つけ、さらにその男前がよく見知った顔であった時は顎が外れるかと思った。中学の時からテニスの貴公子だの何だのと言われていた佐伯はモデルか俳優かと突っ込みたくなるほどかっこよくなっていた。憎い。イケメンはどうあがいてもイケメンである。
ちょっと、いやかなり声をかけるか迷ったわたしに対して、佐伯は目が合って早々「あれ、大学一緒だったんだ?」と嬉しそうに話しかけてきた。そのまま荷物を持ってわたしの隣の席へ移動してくる。お前さっき女に隣座っていい?って聞かれて断ってたじゃん!とは言えず、「あ、めっちゃ久々だね」とお茶を濁した。
「俺、ライン教えてもらえないまま卒業しちゃったから結構寂しかったよ」
「あー、教えないわけじゃなくて、学校にスマホ持ってくのがだるかっただけだから」
「じゃあ今教えてよ」
「おけー」
佐伯とは3年間クラスが一緒というレアなメンツで、生徒会でも一緒だったり、何やかんやと部活のメンバー以外では一番長く一緒に過ごしたかもしれない。ただ佐伯もわたしも運動部だったから、放課後どっか行ったとかそういうことは全くなかった。なんせ盆と正月くらいしか休みないもんね。今思えばブラック部活。
佐伯は追加したばかりのわたしのラインに、可愛いスタンプを送ってきた。パンダだ。
『よろしくね』
ありきたりだけど私も猫がペコペコするスタンプを送って、その日は終了。
それからちょくちょくラインしたり、週一で同じ授業を受けて、今回いっしょに飲みに行った。わたしは明日全休だからと調子に乗って、佐伯が止めるのも聞かずガバガバ飲んだと、そういうことらしい。
「えっ、じゃ、私が酔っ払って佐伯襲ったの!?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
すらすらと説明してくれた佐伯は、顔を青くしたわたしから視線を逸らした。なんと言葉にすればいいのか、考えあぐねているようだった。
「きみがあんまり酔っ払ってるから、俺のことどう思ってるのか本音が聞けると思って。でも何回聞いてもイケメン、としか言ってくれないし、じゃあ付き合える?って聞いたらうんって言ったから」
「まじで?わたし、頷いてた?」
「うん。一応念のため5回は聞いた」
「ヤバ、まって、まったく記憶ない、むり……」
「俺、ずっと好きだったんだよね」
「は?なにを」
「なにって、君を。中学の時から」
シャレにならん。
佐伯の顔はいたってド真面目で、冗談にしてはきつすぎる。わたしの心臓は恋のドキドキ!というよりは、突然の衝撃についていけずヒヤリとナイフで刺されたような感触だった。佐伯は眉を下げて、捨てられた子犬のような表情でこちらに向き直った。
「なかったことにしないでよ。俺と付き合って」
「ええ…………」
「昨日、キスはきみからしてきたよ」
「マジで?本当にすみませんでした」
「お詫びに付き合ってってば」
さすがに、中学時代からなにも成長してないなんてことはないと思うが、佐伯は結構めんどくさそうな男だと勝手に感じていた。しかも大学生になって顔面偏差値はさらに上がっている。付き合ったら絶対めんどうだ。
たしかに顔は超、超かっこいい。でもかっこいいだけで付き合ったら間違いなく、本当に間違いなく後悔する!
中学時代からなんて絶対嘘だしね。佐伯は告白された時に彼女がいなければ誰とでも付き合っていた。かなりの変わり者である。
「ね、だめ?」
佐伯はわたしの腰をゆるりと抱いた。そのままもう片方の手で髪を撫でては耳元で低くささやく。完全に落とす気満々なのが見て取れるのに、さすがに、これは弱った。柔軟剤の甘いにおいがする。香水ほどいやらしくなくて、でも、体温と一緒にかすかに香るそれにくらくらする。
「俺のこと絶対好きにさせるから」
おまえがイケメンじゃなかったらぶん殴ってたよ、と言いたかったのに。
「わ、かった」
わたしのバカ!


ーー


佐伯とわたしが付き合う上で取り決めた約束ごとは一つだけ。大学では付き合ってることは言わない、隠す、ということ。週一授業が被っているだけだがこればかりははっきりと分かる。大学の女に(いや、男にも!)付き合ってることがバレたら最高にめんどくさい。釣り合わんとか言われるだけならまだしも、わたしが寝込みを襲ったとか既成事実を作ったとか弱みを握ったとか、そういう方に話がねじ曲がること請け合いだ。
佐伯は不満そうな顔をしていたが、あまりに必死にわたしが頼むものだから、渋々というふうに頷いた。ただし彼女ができたという事実は隠す気がないらしく、翌週飲みの誘いを「彼女ができたからごめん」と断っていた時は、狭い教室に微妙な空気が漂った。なんだか居たたまれなくなったが、別にわたしだとバレなければいいわけだし澄ました顔を取り繕った。
わたしは居酒屋でバイトをしていて、帰りが遅くなる日もある。そういう日はきまって佐伯が近くまで迎えに来た。彼の定期圏内にわたしのバイト先があるから丁度いい、らしい。どこが丁度いいのかさっぱりだけど、佐伯の話は結構面白いのでわたしとしては得をした気分だった。なにより顔がいい。バイト終わりに見ると疲れがどっかへ吹っ飛ぶ。ただし、良すぎてたまに腹が立ってくるというデメリットもある。これは完全な八つ当たりだ。
「今日は泊まれそう?」
「そのつもりだけど、眠気がすごすぎて2秒で寝るかも」
「あはは、別にいいよ。寝顔も可愛いから」
ぞぞぞーっ!!という効果音が頭をよぎる。これはわたしが鳥肌を立てた音だ。よくまあぬけぬけとそんなお世辞が真顔で言える!とキレ散らかしそうになったけど、これをいうと更に真顔で返される未来が見えたので、わたしは大人しく黙っていた。佐伯の褒め言葉は照れるというより冷静にお世辞だと受け止められるので、ある意味マシかもしれない。


金曜にバイトを入れているときは、だいたい佐伯が迎えに来た後二人で佐伯の家まで向かうのがパターンだった。用意も一式佐伯の家に置きっぱにして、身一つで向かうので気楽だった。
佐伯は料理がめっぽう得意だ。やたらに味付けの濃いまかないより、佐伯の作る胃に優しい味のごはんの方がわたしは好きだった。へとへとで着くなりバタンキューしてしまうわたしに、佐伯はまめまめしく世話を焼いて、用意したごはんを温めて、あとは食べるだけ、の状態まで準備してくれる。性別が逆転していて申し訳ないことこの上ないけれど、心底楽しそうにしているのでまあいいか、と思ってしまう。本当にダメ人間ここに極まれりだ。
「いただきます」
「めしあがれ。……おいしい?」
「めちゃうまい。天才」
わたしの雑な褒め方にも頬を緩め美青年スマイルを炸裂させるのでむずがゆい。
佐伯は先に晩を済ませているので、向かいに座ってただただ食べるわたしを眺めている。やりづらいけれど、彼はなんだかんだと理屈をつけてどかないことを知っているのでとうに諦めた。空気というには華やかすぎる彼をできるだけ見ないようにして、無心で料理を味わう。
あっという間に食べきってしまって、「ごちそうさま」と両手を合わせると、間も無く「お粗末様」と微笑んだ佐伯が皿を運んでいってしまった。
「皿洗いくらいする!」
「いいよ。眠いだろ、風呂入っておいで」
こんなに甘やかされたらただの肉塊になっちゃいそう、と思いつつも、眠いのは本当なのでお言葉に甘えることにした。神がもしいるなら適当な罰を与えておいてほしいレベルの自堕落である。
お風呂場に置いたお気に入りのシャンプー。はちみつの香りがしてよく眠れる。たまに佐伯がわたしのシャンプーを使っているとにおいですぐに分かる。そのとききまって佐伯はご機嫌で、お揃いの香りがするわたしの髪を綺麗な指先で掬う。なんとなくそのときの触り方を思い出して気恥ずかしくなりながら、容赦なく襲ってくる睡魔を振り払うように熱いシャワーを浴びた。
元々長風呂する方ではないので早めに上がって、テキトーにドライヤーで乾かして、ぼろいTシャツに中学の体操ズボンというあまりにもあまりな格好で居間へと飛び出す。窓から吹き込む夜風が火照った肌に心地よかった。
佐伯はソファにもたれかかって本を読んでいた。憎らしいほど絵になる男だ。
むかつくなー、という行き場のない気持ちを込めて、肩にかけてたタオルをぽんっと佐伯の頭に置く。そこでようやくわたしに気づいたようで、白い手がわたしの手首をやさしく触れる。
「もう上がったの?」
「んー」
生返事で横に座る。ソファーは元々少し大きめの一人用で、わたしたちにはやや窮屈だった。佐伯の体温はひんやりとしていた。
佐伯は読んでいた本をテーブルに置いて、わたしをじっと見つめる。嫌な予感を察知するやいなや立ち上がろうとするわたしに対して、素早く腰からつかんで離さない。なんだこいつの早業は。狭いソファに体が沈む。お尻をぶつけた痛みでむっと目を閉じてしまって、次に開いた時には天井ではなく佐伯の顔が映った。
だめだ!
本能が喰われると叫んでいる。佐伯の瞳はぎらぎらと獣のような獰猛さと星の王子さまみたいな輝きを湛えて、まっすぐ、ただまっすぐこちらを見ている。
不意に、この目に見覚えがあることを、思い出した。中3の卒業式、クラスメイトの男の子に呼び出された。付き合ってほしいと言われて、これから新天地なのに長続きするわけない、と思ったわたしは即座に断った。穏便にお引き取り願うと入れ違いに佐伯がやってきて、今と同じぎらぎらの瞳で、「断ったの?」とだけ聞いた。無言で頷くわたしを満足そうに眺めて、そっか、と独り言みたいに呟いていた。ほんとうにそれだけの話だった。でも、なんで忘れてたのか不思議なくらい鮮明な記憶だ。あの時思ったはずなのに、これで佐伯ともお別れなんだって、そのときは、なぜか、寂しさよりほっとした気持ちが優っていた。
「眠い?」
「眠い」
「俺はしたい」
佐伯がこうなったら止まらないことは短い交際生活の中でわかっている。何でもお願いを聞いてあげるって顔して、何でも望み通りに叶えてくれる顔して、佐伯は思うようにことを運ぶ。
Tシャツをめくる手のひらが冷たい。だいたい、初手は酒で潰れたので記憶が皆無だけど、本当に意識が飛ぶまで抱かれるので体力がもたない。こちらの反応を逐一見て、体がびくんと跳ねるたびにあのぎらついた瞳をきゅっと細めて、満足そうに笑う。普段の爽やか青年とは真逆の淫靡な笑みがどうにも恐い。
佐伯にどろどろに溶かされるときのあの感覚は、肉食獣に捕食されるときときっと似ている。かすかに熱を持ったふとももを撫でる手つきを、どこか他人ごとのように感じていると、「なに考えてるの」と不機嫌な声で一喝されて、ごめん、と謝った。
「俺のことだけ考えて、俺のことだけ好きになって」
強引にベッドまで運ばれて、その腕の中で、わたしは金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。どうせわたしの話は聞かないし。やめての言葉は通じないし。気持ちいいことだけは確かだから、早めに終わればいいのにな、くらいのポジティブさを持って、佐伯の唇のたしかに人間らしい熱だけを頼りに、わたしはそっと瞳を閉じた。

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