▼ 20

 いくつかの季節が巡り、その間もフィレンツェは穏やかとは言えなかった。それはトスカーナでもフォルリでも、ヴェネツィアでも同じで、時代がまさに激動の時だった。

 後の世に、ルネッサンスと謳われるこの時代。

 水の都ヴェネツィア。水路のせいもあり複雑に入り組んだ街をふたりの若者が歩いている。ひとりは、短い黒髪に青白い肌をした思想家の風貌の青年。もうひとりはスカートに大胆なスリットが深く入っている娼婦だった。胸元にはアルファベットの“A”を象った銀のペンダントが揺れている。

「マキャベリ。私、思ったわ」

「何を?」

「やっぱりアサシン教団の中では、ジョヴァンニおじさまがいちばん素敵だったのよ」

「ほう。なぜそう思われるんです?」

「だって、アントニオは酔っぱらうと面倒くさいし、バルトロメオはビアンカビアンカうるさいし、狐はいやみだし、マリオおじさまは鍛錬しろってしつこいもの」

「では、わたしは?」

「マキャベリは細かくて小言っぽい」

「はあ。言わせてもらえばあなただって、余計なひとことは多いと思いますよ。今だってそうだ」

「私の話はいいの。でもね、パオラも言ってた。ジョヴァンニさまがいちばん素敵だったって…」

 遠い日に目を細める彼女にマキャベリは苦笑した。

「余計なひとことは多いが、あなたは変わりました。わたしが会った当初のあなたには感情というものが、まったくありませんでしたから。多少なり口が悪くても、わたしは今のあなたのほうが好感がもてますよ、なまえ」

「あら、口が悪いのはお互いさまだわ。でも、ふふ。ありがとう、マキャベリ」

 そう微笑むなまえにはかつての少女の面影があった。

「じゃあ私はここで。先にテオドラに報告しておいてね」

「どこに行くんです」

「友人のところへ。お父さまの形見のナイフが壊れてしまったから直してもらうんだ」

「ダ・ヴィンチ氏はヴェネツィア海軍に仕事の依頼をされているのでしょう。あまり彼の邪魔をしてはいけませんよ」

「わかってるわよ!じゃあ報告よろしくね」

 逃げるように走り出したなまえはマキャベリにウインクをして人混みに消えていった。
 ヴェネツィアのパトロンに工房をもらったレオナルドはなまえを見るや満面の笑みと抱擁で迎えた。

「なまえじゃありませんか、ようこそ!」

「レオナルドっ」

「そろそろあなたが来る頃だろうと思ってお待ちしておりましたよ。ケーキとそれからいいワインが手に入ったんです。これがベネトワインで…あ、もちろん、本場のミラノのワインには適いませんがね。それでもなかなかの良作ですよ。ね、エツィオ」

「エツィオ?」

 レオナルドのおしゃべりになまえは笑っていたが、すぐ思わぬ名前が飛び出したことに驚いた。フィレンツェよりはだいぶ広く、弟子が何人か仕事をしているその工房の中、がらくたに囲まれたテーブルにはエツィオが座っていた。

「やあなまえか、奇遇だな」

「奇遇だな、じゃないわよエツィオ。私が来る前にワインを開けちゃうだなんて。レディーファーストはどこへ行ったの」

「毒見しておいたんだシニョーラ。ぬるいワインだった」

「ちょっとエツィオ、酷いですよ。たしかに冷やすことをすっかり忘れていたのはわたしの落ち度ですがね、半分以上も飲んでおいてそれはないでしょう」

「はははっ。悪い、レオナルド」

 あの日、悪夢のような日から変わってしまったものは多く、そのほとんどが取り戻せないものだった。絶望もしたし、涙にくれた日々もあった。だが彼らは歩みを止めなかった。時に並行し、時に交わる彼らの人生は決して変わり果てた世界で孤独ではなかったから。

「なまえ、きみはまだ懲りずに娼婦の格好なんかしてるのか。やめろよ似合わない」

「失礼ね。私はパオラやテオドラのようになりたいのよ」

「はあ?無理だろ。だいたい、未だにフェデリコ兄さんしか知らないくせに」

「…エツィオ!もう怒ったわ!レオナルド!ナイフが壊れたの。私の大切なナイフを直してちょうだい」

「おっと、このタイミングで仕事の依頼ですか。相変わらず秀逸な方だ。いいでしょう、このわたしが腕によりをかけて最高の切れ味のナイフをご覧に入れますよ」

「…勘弁してくれよふたりとも」

 笑い声の響くがらくたまみれの部屋の中。移りゆく季節の中で、変わらないものも確かにここにある。
 両親に守られて過ごした少年時代が過ぎ、生き方を模索するしかない暗闇の中に放り出されたあの時。エツィオは復讐のために、なまえは人々の自由を守るために、アサシンとなる道を選んだ。かつて父がそうであったように、先祖がそうであったように。レオナルドは好奇心の赴くままに“何でも屋”として日々を送っていた。時になまえとエツィオの武器の修理や、貴族の肖像画の作成、病院から死体を引き取り解剖の研究をすることもあった。

 世界は彼らにとって悲しく残酷だった。世界は彼らの願いを叶えてはくれなかった。世界は彼らを救わなかった。

 だがわかったことがある。彼らが自分たちで世界を切り開いていくために、民衆を弾圧する支配者は必要なく。強大な支配者を弱き民衆が制裁するためには法ではない手段が必要だということ。
 かつての少女はアサシンとして、父とその親友が守ろうとしたものを継いだ。ロレンツォ・デ・メディチをよく守り戦い、青春時代を駆け抜けた。かつての少年は知らず仲間に助けられながら、ひたすら復讐の時を過ごした。彼はいずれアサシン教団の長として諸悪に立ち向かうのだろう。

 これはアサシンの信条。先祖から語り継がれてきた言葉。少女は口ずさむ、

「真実はない、許されぬことなどない」

 人々が真実を妄信しようとも、人々が道徳や法律に縛られようとも、我々は闇の中で生き、光に奉仕する、と。

 この先、アサシンは圧政を強いるテンプル騎士ロドリゴ・ボルジア、ローマの教皇を許さないだろう。そしてレオナルド・ダ・ヴィンチはローマ軍チェーザレ・ボルジアの軍事顧問に迎えられることになる…。


end


(ねえレオナルド、私、娼婦の格好そんなに似合わない?)
(いいえ。とんでもない。ですがわたしとしては、娼婦の真似も危険なこともぜんぶやめて、あなたがわたしと暮らしてくれたらいいのにと思いますよ)
((え!?))




prev / next






‐*

戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -