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 まだ空が白む早朝に、なまえは川沿いを歩いていた。起き出してきた鳥たちのさえずりに耳を傾け、美しく整備された川の流れを見て息を深く吸う。早起きは得意ではないが、フィレンツェの朝は穏やかで気持ちのいいものだった。大きな籠を手に持ち、スカートの裾を揺らしてしばらく行くと向いから誰かが歩いてくる影が見えた。朝靄に目を凝らして人物を確認すると、なまえは飛び上がって花のような笑顔になった。

「ジョヴァンニおじさま!」

「ん?おやなまえじゃないか。おはよう」

「おはようございます。それから、ああ!ロレンツォさま!なんてことでしょう。まさかご当主さまに会えるだなんて思いもしませんでした。これは失礼致しました」

 そう言ってなまえは汚れていないスカートをわざわざ払って、持っていた籠を両手に持ち替え慌ててお辞儀をした。快活な彼女に男二人は顔をほころばせる。
 ロレンツォ・デ・メディチはここフィレンツェの統治者だ。彼は市民に公平で有能な政治家だったから、このフィレンツェが平和で安定していることをなまえも知っている。そんな彼に会えたことが素直に嬉しかった。

「そんなに改まらないでくれ、シニョリーナ。わたしにもジョヴァンニに向けるような笑顔を見せてくれないか」

「え、あ、そんな…」

「ははは。ロレンツォ殿、あまりなまえをからかわないでやって下さい。ところでなまえ、こんな朝早くからどうしたのだ?」

「はい、もちろんお二人にお会いするために!…と言いたいところですが、今日はアルノ川沿いの通りに市が立つと聞いたので食料を買いに行くところなんですよ」

「わざわざおまえがか?」

「ええ、家には手伝いがいないので私が小間使い役なんです。安くて、新鮮なものを出来るだけたくさん探しに」

「そうか、おまえは偉いな」

 そうジョヴァンニに誉められると、なまえは嬉しそうにはにかんだ。
 彼はフィレンツェで有力な銀行家、アウディトーレ家の主人である。なまえの父が彼に雇われていたこともあって、なまえは幼い頃からジョヴァンニに可愛がられていた。また、ジョヴァンニにももちろん妻と子はおり、なまえと同い年のエツィオ、その兄のフェデリコ、妹のクラウディア、弟のペトルチオは幼い頃からなまえのよき友人たちだった。
 そんな睦まじい二人の様子を見て、ロレンツォは興味深く顎をなでた。

「やけにお嬢さんの信頼を得ているな、ジョヴァンニ」

「いえそんな」

「ええ、ロレンツォさま。私はジョヴァンニおじさまが大好きなんです。だって優しいし、格好いいし。私、マリアおばさまの次にジョヴァンニおじさまに似合う女になりたいんです」

 いつしか握り拳を作って語るなまえにロレンツォはいよいよ笑い声を上げ、ジョヴァンニは困ったように優しい苦笑を浮かべた。

「おまえは可愛いわたしの娘だよ、なまえ。だがな、フェデリコがおまえを気に入っているんだ。我が息子の好意にも気づいてやってくれないか」

「それはちがうわ、おじさま。フェデリコは私をクラウディアと並べて妹として可愛がってくれているんです」

「やれやれ、困ったな…。まあいい、フェデリコのこれからの頑張りに期待しよう。さてなまえ、おまえの父親は家にいるかな」

「はい。父に何かご用で?」

「少しね」

「お父さま、もう起き出していたかしら。粗相がないといいですけど…」

 うーん、と首を傾げてみるなまえは愛らしく、長身の男たちは早朝のこの出会いを貴重なものに感じていた。彼らの内心を知らずになまえはハッとして背筋を伸ばした。

「では、私も行きます。ジョヴァンニおじさま、ロレンツォさま、お相手下さってありがとうございました」

 頭を下げるなまえにロレンツォは笑顔で片手をあげて返した。

「こちらこそシニョリーナ。今日がよい日であるように」

「気をつけてな」

 ジョヴァンニが温かな深い青色の瞳を向けるとなまえは頬をほのかに染めて頷いた。二人に会えただけで彼女にとって今日はよい日だった。ただ、なぜジョヴァンニだけでなくロレンツォまでが自分の父に会いに来たのか、しかもこんな早朝に。疑問はあったが彼らの様子を見るに悪いことはないだろうと思い直した時、空からなまえを呼ぶ声が降ってきた。



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