瞼の裏のジャコウアゲハ 「───あなた生きてたの?」 「はい、生きてました」
「開口一番それかあ」としのぶの前で苦笑いするのは 気持ちの悪い自己犠牲の塊───明生八千代であった。
藤襲山での最終戦別から三ヶ月半。 他人ばかりで命を粗末にする彼女はとっくのとうに討ち死に したものだとしのぶは思い込んでいた。
しかし現に八千代は生きていて、こうして藤の花の家紋の家で 偶然にも会ってしまった。
「しのぶちゃんも任務終わり?」 「ちょっと、ちゃんって…」 「ん?同じぐらいの年でしょ?」
無邪気な笑顔を見せる彼女にしのぶは頭が痛くなる。 馴れ馴れしくするなという意味合いで言ったのに誤解されている。
「あのね───」 「お話中のところ申し訳ありません。お部屋の準備が出来ました」
屋敷の住人の女性に言われてしのぶは渋々口を閉じる。 そのまま案内する女性の後ろに続いて(八千代はしのぶの横に並んで) 用意された部屋に辿り着くとしのぶは目を瞬かせた。
御膳があるのは問題ない。───問題なのはその数だ。一つではなく、二つ。 それも向かい合うように設置されているではないか。
「あの、これ、」
思わずしのぶが声をかけると、「お知り合いのようでしたので同じお部屋に させていただきました」そう頭を下げる彼女。
知らないわけではないのは確かだが、だからといって積もる話があるような 仲でもないのにとんだ気遣いだ。───手間をかけさせて申し訳ないが今からでも遅くない。 別々の部屋にして貰おうとしのぶは声をかけようとしたが、
「あ、どうもお気遣いありがとうございます!さあ、しのぶちゃん!食べよう、食べよう!」
先に八千代が屈託の無い笑顔でお礼を言って片方の御前の前に座ってしまった。 そして屋敷の者も彼女の言葉をそのまま受け取り、「ではごゆっくりと…」と 奥へと引っ込んでしまったのだった。
しのぶは頭を抱えたいのをぐっとこらえて眉間を押さえるにとどめた。 こうもままならないことが起きると、言いたいことは多々あれど実際は 出てこないものだ。
こうなってしまったものは、もうどうしようもない。 一時の我慢だと自分に言い聞かせて大人しく八千代の対面に座る。
「いただきます!」 「…いただきます」
彼女のあとに続いて掌を合わせ、食事に手を付ける。 しかしその表情は笑顔の八千代と仏頂面のしのぶで正反対の表情であった。
───食事はともかく、風呂にまで同行しようとした八千代を断固拒否して、 さっさと寝床に入り目を閉じたしのぶはふと目を覚ました。
縁側へと続く戸が少し開いており、その隙間から月の光が差し込んでいる。 それは隣に敷かれた彼女の布団と自分を隔てる境界線のようでもあった。 しかし隣の布団には八千代の姿はない。
そもそも綺麗なままの状態の布団を見るに、彼女は横になることすら していないのだろう。任務終わりだというのに休息を取らない彼女が 少し気にかかり、しのぶは起き上がって戸に手をかけた。
縁側には月を見上げている八千代の姿があった。 しのぶに気が付いた八千代はすっと瞳を細めた。 月明りを反射した両目が優し気に煌めく。
「ごめん、起こしちゃった?」 「…寝れないの?」
縁側には行かず、布団の上から彼女に話しかける。
「寝れないというか、寝ないというか…」
「寝ると疲れるから」と八千代は苦笑した。
寝ると疲れるとはどういうことなのか。 しかし、月明りに照らされたその顔の白さ─── 色白で片付くものではなく、少し病的な白さだ。それによって目元の隈が際立つ。 彼女の顔をよく見てなかったのもあって、しのぶは今やっと気が付いた。
「…それでも、寝れる時に寝た方がいいわよ」
しのぶは自分の荷物の中から香り袋を取り出して縁側にそっと置いた。
睡眠を怠るということは体の機能が著しく下がるのはもちろんだが、 なにより寿命が縮まる。そんな生活を送っていれば鬼なんかより自分の 不摂生がたたって八千代は命を落とすだろう。
「これは?」 「クチナシの香り袋。安眠の効果があるから」 「…くれるの?」
目を丸くする彼女に自分が予想外のことをしているのは分かっていた。 でもしのぶが八千代を気遣ったのは、姉のカナエだったらこうするだろうと思ったからだ。 なんてことはない。いつも正しくて優しい姉の行動をなぞっただけ。
「ええ、あげる」
これ以上の会話を続ける意味はないなと感じしのぶは布団に潜る。 そして再び瞳を閉じれば、
「ありがとう。やっぱり優しいんだねぇ」
彼女の優しいは何故だかどうしても気に障った、
2019.9.25
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