エンジェライトの貞操
「カナコってさ、頼んだら───」
宿舎で男子二人が話していたその内容に、エレンは体中の熱が一気に顔に集まるのを感じた。
卑しく上がった唇から出た言葉は佳奈子を、いや、女性を侮辱するものだった。
なんと下劣なのだろうか!同期を仲間をそんな風に見るなど恥晒しだ。
元来、こういった正義から外れたものを許せないエレン。
彼らの言葉を耳にした途端、脊髄反射で掴みかかっていた。
「おい、お前ら!もう一度言ってみろ・・・!」
激昂したエレンが暴れて、ライナー達に取り押さえられたあと同期二人と一緒に
教官に連行されて少し。静まりつつある宿舎でジャンはもやもやとした気持ちを抱えていた。
なぜエレンが急に騒ぎ始めたか知らない者が大半だろうが、ジャンはその理由を知っている。
『カナコってさ、頼んだら───』
にやにやとした気持ちの悪い笑みを浮かべた彼らが口にしたものにはジャンでさえ嫌悪感を感じた。
耳から入ったそれを吐き出さず飲み込んだ自分とは違って、エレンは直ぐ様突き返したのだ。
己が正義だと信じて疑わない彼の行動には呆れることが多いが、今回ばかりは正しい行いに近いだろう。
きっと、ジャンも聞き流さないでエレンのように動くべきだったのだ。でも出来なかった。
───しなかった。
エレンもあの二人もいくら教官に扱かれようとも原因を詳しくは話さないだろう。
これ以上佳奈子を辱めることをエレンは良しとしないだろうし、彼らにとっては恥部を晒すようなもの。
明るみにはなら無い、つまりは得にはなら無い。
誰にも褒め称えられない行為などなんの意味があるのか。
ジャンは無意識の内に損得を天秤にかけ、結果、自分の得にはなら無いと判断したのだ。
彼女の名誉よりも自分の得を取ったのである。
エレンはそんなことを考えない人間だから、尚更ジャンのそれは顕になってしまった。
行動を起こさないお前も下劣で同罪なのだと責め立てられてしまったのだ。
だからこんなにも心がもやもやと居心地が悪い。
エレンは一体どうしたのだろうと、隣で心配しているおせっかいなマルコのことは無視して
ジャンはベッドに潜った。佳奈子に盲目的に恋してる彼がこの事実を知れば酷く傷つくはずだ。
知らない方が幸せである。ジャンは目を閉じて今日を終わらせた。
次の日。損得勘定で動いた報いなのか、立体機動の訓練のグループが佳奈子と一緒になってしまった。
しかも自分達のグループは最後の方と来た。待ち時間が大分ある。
会話しなければいいと思うだろうが、そういうわけにもいかない。
ジャンと佳奈子はそれなりに会話をする。急に止めたら変に思われる。
まぁ、そうでなくとも遅かれ早かれ───
「昨日、エレンが大暴れしたって聞いたけど・・・」
彼女の方からこうして話しかけてくるのだから避けようがない。
ジャンは当たり障りなく返すことにした。
「・・・まぁな。よくは知らねぇがキャンキャン吠えてたな」
「ふぅん・・・揉めた相手はあそこの"男前"になった二人って聞いたけど」
自分達より三つ前の列に並んでいる件の彼ら。ちらりと見える横顔には大きなガーゼが存在していた。
エレンと取っ組み合った末の産物だ。彼女はそれを皮肉を込めて"男前"と称したのだ。
「あと、私が関係してるっていうのも聞いたかな」
「・・・誰が言った、」
ジャンはしまったと思い、口を噤んだ。佳奈子は意地悪く笑っている。───カマをかけられたのだ。
「テメェ、汚ねぇぞおチビちゃん」
いつもだったら引っかかることは無い単純なカマかけ。
彼女に対して罪悪感があったからか、気が緩んでしまった。
「あはは。ごめん、ごめん。でもあの二人と揉めたんならそうかなぁって・・・」
「・・・どういうことだよ」
含みのある言い方にどきりとした。
佳奈子がもしかしてあの言葉を聞いたかもしれないと思うと気が咎めた。
小柄で、それから童顔の幼さが際立った彼女にはとても不道徳に思えたのだ。
けれど佳奈子はその小さな唇から出してしまう。
「前にたまたま聞いちゃったんだけど、カナコって頼んだらヤらせてくれそうだよなぁって」
絞られた音量でも充分届いた言葉に居た堪れなくなる。とても酷く心臓が痛い。
だが、いつもの笑顔を壊さずに言い切った彼女に疑問が募った。
「お前それ聞いて黙ってたのか?」
「"女の子"がなにか言い返せると思う?」
気持ち悪いとは思ったけどと、佳奈子は眉根を寄せて不快そうな感情を見せた。
なにが女の子だ。そんなか弱い生き物じゃないだろうに。
しかし、実際言い返せるものでもないかと納得した。
「別に私そんな尻軽じゃありませんし?あとは・・・私が怒らなくても周りが怒ってくれるからね。主にミカサが」
『ミカサが聞いてたら殺されてるとこだぞ!』
確か二人に掴みかかったエレンがそんなことを言ってた気がする。
彼女は自分の味方を作るのが実に上手い。そしてそれらを使うのも巧みだ。口が裂けても言わないが。
「でもエレンだったのは意外だったなあ」
「アイツは自分が正しいって疑わない馬鹿だからな」
「あはは、相変わらずエレンに噛み付くねぇ」
列が動いて前に進む。飛んでいったあの"男前"二人にいつもより教官が罵声を浴びせている。
「あ、そういえばありがとう」
心なしか嬉しそうな声と表情で佳奈子に礼を言われた。
意味が分からないのでジャンは怪訝な顔で彼女を見下ろす。
「あ?なんだよ急に」
「私が傷つかないように知らないフリしてくれたんでしょ?」
下から向けられた微笑に言葉が詰まる。そういった意図が無かったとも言い切れない。
が、ただジャンは無関係を装いたかっただけなのだ。
知らないフリを貫き通せれば損得勘定で動いた責任から逃れられると思い込んだだけだ。
そんな礼を言われる価値は決してない。
ジャンは佳奈子の笑みから忌避するように前を向いた。
「・・・知らねぇよ」
2017.12.5