葬儀屋はハレの日を知らない


 墓氷-Bohyou-


「逃げろ。逃げなければ死ぬぞ。逃げても殺すがな」

 極地の冷気が、背後から迫るのを感じた。
 強者であったはずのNOISEが、惨めなネズミのように薄汚い路地を駆け回る。出血はない。彼女の氷が、未だに傷口に張り付いている。逃すまいと爪を立てられているかのように。傷口に痛みもない。
 凍てついた切断部付近は、最早何の機能も持たない肉の塊と化していた。傷口から侵蝕する凍気が、針のように全身を抉る。
 驚異的であったはずの再生力を上回る強靱な氷が、僅かの修復も赦さない。
 もしもNOISEが人の姿をしていたなら、顔色が青白くなっていたことだろう。毛皮の奥に守られている肉体が、じわじわと冷えていく。外気温の変化には強くとも内部から冷やされてはどうすることも出来ない。

「ざけんな! 俺は……俺は支配者になったんだ! 群れるしか能のないバカ共も、バカに群がるバカメスも殺してやった! 俺が正義だ! 俺が……ッ」

 闇雲に逃げていたNOISEが、とうとう袋小路に追い詰められて足を止めた。
 振り返れば、悠々と歩いてくる白髪の少女が怯えるNOISEの目に映る。手には白い刀を携えているが、それさえなければエリート中学の制服を着た女子中学生で、驚異になるような相手ではないはずなのに。
 ――――否。これまでNOISEを狩りにきたソルジャーも、武器を持っていた。だが彼らの武器はNOISEに僅かな傷も残せなかった。たかが日本刀如き、大した脅威になり得ないはずだ。そうでなければならない。なのに、何故。

「あり得ねえんだよ!! 俺は支配者だ!! テメエみてえなガキが、俺に楯突いていいはずねえんだよ!! いいから早く泣いて命乞いしろよ!!」

 最早言っていることが滅茶苦茶であることも理解出来ていない。
 狂気に飲まれたNOISEは例外なくまともな会話が出来ないものだが、この手の矛盾を叫ぶNOISEは初めてだった。

「支配者を名乗るには、頭も能力も弱すぎだ」

 その言葉を彼が認識出来たかどうか。
 次の瞬間にはNOISEの全身が氷に包まれていた。趣味の悪いオブジェのようなものが路地の奥で形成される。墓標と呼ぶにはあまりにも歪なそれを、椿は無慈悲に打ち砕いた。
 支配者の夢を見たNOISEだったものが、暗灰色の地面に転がる。氷が砕けても特に変異する様子はない。

「……屍化はしないか。なにか条件でもあるのか……?」

 一つ息を吐き、椿は後方支援部隊、隠を要請した。
 これまで十数人の命を奪ってきたNOISEは、今後は研究所で何らかの役に立つことだろう。うっかりバラバラにしてしまったので、使い勝手は悪いだろうが。

「お待たせ致しました、ゲルダ様。途中に落ちていた腕を二本拾ってきたのですが、落とした部位は以上でしょうか?」

 到着した隠の隊員が、丸太のような腕を二人がかりで持ちながら声をかけてきた。腕の切断面には氷が張り付いており、断面側を抱えている隊員が寒そうにしている。

「ああ、悪い。拾っておけば良かったな」
「いえ、これも私どもの仕事ですから。あとはやっておきますので、ゲルダ様は先にお戻りください」

 リーダーの証である白い狐の半面をつけた男がそういうと、黒い狐の面頬をつけた隊員たちが、一様に直立の姿勢で胸元へ拳を当てる格好を取った。下位から上位への敬礼――心臓に誓い、命をかけることを意味するこの礼は、何度受けても慣れない。

「わかった。頼んだ」
「畏まりました」

 隠たちに見送られつつ夏の熱気を纏いながら、一人帰路につく。明日もまた死者を保つために地下へ潜り、彼らの寝室を氷で満たす。
 たとえまともじゃないと言われても、死は常に生者の隣でじっと邂逅を待っているものだから。




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