短 篇 蒐


▼ ワールドエンドレストラン

 人気の無い黄昏時の住宅街を、一人の老婦人が歩いている。
 ふと立ち止まっては不安そうな表情で辺りを見回し、また歩き出す。そんな仕草を繰り返し、繰り返し。そうして辿り着いたのは、一件の小さなレストランだった。
 扉にかけられた木製の看板には玉兎亭と書かれており、三日月と兎のシルエットが描かれている。

「まあ、こんなところに……道をお尋ねするだけなんて迷惑かしら……」

 暫し逡巡して、俯き、振り返り、首を振って。
 老婦人は意を決して扉を開けた。

 ――――カラン。

 軽やかなドアベルの音が鳴り、温かな紅茶の香りが鼻腔を擽った。穏やかな音楽がどこからともなく流れており、落ち着いた雰囲気の内装は喫茶店の風情がある。
 思わず感嘆の息を漏らすと、奥から「いらっしゃいませ!」と元気な声がした。

「一名様ですー?」

 店の奥、カウンターの先にある潜り口から出てきたのは、メイド服姿の小柄な少女だった。膝丈のスカートに白いエプロン、頭にホワイトブリムというお手本のようなメイド服は、誂えたようにこの空間と合っている。この店のコンセプトなのか、白いエプロンの胸元に小さく兎のシルエットが印刷されており、よく周りを見れば小物や食器類にも兎の影が見られた。

「あ……ええと、ごめんなさい。道をお尋ねしたかったの。お財布も持ってなくて、冷やかしてごめんなさい」
「いえ、この辺りは入り組んでいますから。さあどうぞ、お掛けくださいです」
「そんな、ご迷惑だわ。本当になにも持っていないの」
「大丈夫です。此処に来た人はみんなお客さんなのです。さあ、どうぞ」

 遠慮する老婦人の背を押して、少女がソファ席へと案内する。
 怖ず怖ずと座ったのを確かめてから、少女はカウンターのウォーターサーバーから冷水を汲んで老婦人に出した。氷の揺れる音とグラスの結露に呼ばれて一口飲むと、自覚していないだけで随分と疲れていたのか水がスッと染みる心地がした。

「はぁ……美味しい。本当にごめんなさいね。どうして迷ってしまったのか、私にもわからなくて。考えたくないけれど、認知症かしら……」
「この辺で迷われる方は多いのですよー。何年経っても道が複雑なのです。わたしもバイト始めた頃は大変だったのですー」
「あら、そうなの。お嬢さん、お若いのに感心ねえ」
「ありがとうございますー」

 少女と老婦人が話していると、奥からもう一人、今度は若い男性が現れた。
 長い白髪を一纏めに結んだ髪型と緋色の瞳が特徴的で、服装は白シャツにベストと琥珀のループタイ、黒のスラックスに黒の革靴を合わせた、モノクロの出で立ちだ。
 男性が「いらっしゃいませ」と声をかけると少女が「マスター」と、うれしそうな声をあげてカウンターへ戻っていった。どうやら彼が店主であるようだ。

「マスター、お客様です。迷われたそうでー」
「ああ、此処ではよくありますからねえ。どうぞご遠慮なさらず、寛いでください。ご覧の通り混雑とは無縁の店ですから」
「そんな、とんでもない。とてもいい雰囲気ですわ」
「恐縮です」

 にっこりと笑いかけ、店主は冊子を手に老婦人の席までやってきた。
 臙脂の表紙に金の箔押し文字で、シンプルにMenuと書かれている。それを目の前で開き、店主は困惑する老婦人に「どうぞ」と微笑みかけた。

「あの、あちらのお嬢さんにもお伝えしたのだけど、私お財布を持っていなくて……お支払い出来ないんです。道をお尋ねするつもりで入ったのはごめんなさい。ただ、私は……」

 其処で言葉を句切り、老婦人はそのあとどう続けるつもりでいたのか、言葉が全く出ないことに気付いた。
 目を見開く老婦人に、店主は優しく語りかける。

「さて。どちらへ向かわれるおつもりでしたか?」
「私は……」

 何処へ、など。そんなのは決まっている。家族が待つ家に帰るつもりだった。
 何処から? いったい財布も持たずに、何処へ行くことが出来たというのか。
 如何して? 出かけるにしても全く見知らぬ土地にいるのはどういうことか。
 如何やって。辿ってきた道を、出かけた先を、思い出そうとしても思い出せない。いままで何処にいたのか、欠片も出てこない。

「私、は……」
「この辺は、迷われる方が多いんです」

 ハッとして顔を上げると、店主が眉を下げて優しい眼差しで見下ろしていた。その隣では、心配そうな顔でメイド姿の少女も老婦人を見つめている。

「メニューをどうぞ。お代は結構です。此処はそういう店ですから」
「ど、どういうことなの……? ボランティアでやってらっしゃるの?」
「ええ、まあ。そんなところです。迷われた方に一品お出ししているんですよ。後日請求書が届くなんてこともありませんから、ご遠慮なさらず」

 冗談めかして言われ、老婦人はそういうことならとメニューに目を落とした。
 其処にはたった一つ、丸ごとスイカのフルーツポンチが写真付きで載っていた。

「これは……」

 その写真を見た瞬間、ずっとなにも思い出せなかったのが嘘のように鮮明な記憶がぶわりと蘇った。
 むせ返る夏の匂い。遠く近く響き渡る蝉の声。何処かではしゃぐ子供たちの声に、近所で飼われている犬が吼える声。鮮烈な青と白で塗られた空から降り注ぐ容赦ない日差しに、生ぬるい風。

「ああ…………なんてこと……!」

 老婦人は顔を覆い、涙を流した。

 毎年夏になると、スイカと炭酸飲料が大好きだった夫のためにスイカを買ってきてフルーツポンチを作ったこと。夫が亡くなってから、思い出すのが哀しくてスイカも炭酸飲料も買わなくなったこと。節目の度に娘夫婦が慰めてくれたこと。
 そして……先日迎えた、十三回忌。
 やっと、やっと。十二年もかかって、夫の死に真っ直ぐ向き合えるようになって、彼が大好きだったフルーツポンチを作ろうと買い物に出たこと。その道中、熱中症で倒れてしまったこと。

 全て、全て、思い出した。

「私は……帰れなかったのね……せめてあの人に、作ってあげたかったのに……」

 拭えぬ後悔を嘆く老婦人の前に、白いハンカチが差し出された。
 見れば少女がまん丸な瞳で、老婦人を見上げている。

「ありがとう……ごめんなさいね、みっともないところを見せて」

 ふるふると首を振り、少女は「スイカと炭酸、あるですよ。作るですか?」と首を傾げた。少女が指すほうを見れば、老婦人にとっては見覚えのあるエコバッグがさも当然の顔をしてカウンターに鎮座していた。

「えっ……あれは、私の……」
「はいです。おばさまが思い出されたので、お荷物さんも見えるようになったです」

 差し出された手を取り、まるで孫娘とお使いに出たときのような格好で手を繋ぎ、カウンター席までの僅かな距離を歩く。
 間近で見ても間違いなく自分の荷物で、老婦人は混乱した。

「どうぞ、此方で作ってください。器具は揃っておりますから」
「え、ええ……お借りしますわ」

 混乱しつつも、何処かで自分の死を自覚したからか、細かいところは突っ込まずに言われるままキッチンに入った。
 スイカを切り、くりぬき、炭酸を中に注いで、スイカを浮かべる。そうして出来たフルーツポンチをテーブルに持っていくと、老婦人の正面の席にぼんやりとした影が浮かび上がった。

「あなた……!」

 厳格そうな顔つきの老人が、目尻に皺を刻んで老婦人を見つめて微笑んでいる。
 その姿を見た瞬間、またも老婦人の目から涙が溢れた。

「置いて行って悪かったなあ」
「いいえ……私のほうこそ、ずっとごめんなさい……」

 控えめに手を取りあい、再会を喜ぶ老夫婦の元に、一対のカトラリーが置かれた。綺麗に磨かれた金色のスプーンには、やはり兎がかたどられている。

「どうぞ、お召し上がりください。お二人のためのメニューで御座いますので」
「ありがとう」

 老夫婦は照れ臭そうに笑いながらスプーンを手に取り、十二年ぶりの夏の味を堪能した。

「ああ、美味いなあ……お前の作るフルーツポンチが一番美味い」
「ふふ。そうですねえ。夏はこれが一番ですねえ」

 しゃくしゃくと水気を含んだ爽やかな音を伴い、果実に含んだ炭酸が弾ける。
 そうしてゆっくりと思い出の夏を楽しんだ老夫婦は、陽炎のように消えた。

「良かったです。真っ直ぐ還れたようですねー」
「そうですね。スイカだけ先に店に来たときはさすがに驚きましたが、何とかなってよかったです。娥もお疲れ様でした」
「はいですー。お片付け終わったら撫でてくださいです」
「ええ、勿論です」

 メイドの少女、娥は、少しだけ惜しみつつもスイカの器と食器を片付け、小さな体でくるくると店内を掃除して回った。

 店内に漂う幽かな夏の名残は、旅立つ二人のあとを追うかのように、空気にとけて紛れて消えて行った。



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