短 篇 蒐


▼ 美の秘密

 宝石を砕いてちりばめたような夜空の下。
 一人の少女が、細い喉を震わせて歌っていた。美しい彫刻が施された東屋の椅子に腰掛け、長い睫毛を伏せて、薔薇の花弁で染めたかの如きつややかな唇で歌を紡ぐ。
 東屋の周囲には馨しい薔薇が植えられ、色とりどりの花を咲かせている。ほかにも艶やかな花が競い合うように咲き誇り、少女を取り囲んでいた。
 しかしどれほど美しい花も、美術品が如き東屋も、少女の持つ可憐な美貌の前では引き立て役でしかない。幼さを残した輪郭に、磨き上げられた紅玉の如き瞳。白銀の髪は絹のようにさらりと伸び、白魚の指先が花弁を擽れば、花は歓喜するかのように甘く香る。白皙の肌には一点の穢れもなく、内側から輝いているように美しい。
 どれほど精巧に作られた美術品も、どれほど丹精を込めて育てた花々も、この世のいかなる宝石であろうとも、少女の前では色褪せて見える。

 其処は、少女のために作られた箱庭だった。
 高くそびえる壁と鉄柵の門扉が、少女を外界と切り離して閉じ込めている。まるで人の手に触れることの赦されないたおやかな花を、そうするかのように。

 神々の楽園もかくやという庭園で少女が歌っていると、一人の少年が鉄柵を掴んで麗しの箱庭を覗き見た。思わず息を飲み、両手で自らの口を押さえる。
 しかし、慌てて鉄柵から手を離したせいで金属音が鳴ってしまい、少女の愛らしい歌声が止んでしまった。

「……誰か、いるの?」

 ふと、深い後悔と自責の念に囚われていた少年の耳を、小鳥のような声が撫でた。歌声にも劣らぬ甘やかな声は、少年の心を優しく擽った。
 やわらかな下生えを踏む微かな音が、ゆっくりと少年の元へ近付いてくる。それが少女の足音だと気付いたとき、少年は思わず目を瞠った。
 いままで生きて来て、これほど美しい少女は見たことがなかった。――否。少女に限った話ではない。少年が暮らしている孤児院に佇む女神像も、その背後で日の光を受けてキラキラと輝くステンドグラスも、奉仕活動で一度だけ見た、美術館の彫刻や立派な壷、宝石をたくさん使った装飾品も。
 過日に抱いた感動が偽りだったのかとさえ思うほど、目の前の少女は可憐だった。自らの吐息さえも煩わしく感じ、少年は両手を口元から離すことが出来ずにいた。

「あなたは……街からきたの?」

 少年は、必死にこくこくと頷いた。
 ふと。少女の視線が、少年の肩から斜めにかけられた鞄にぎっしりと詰まっている新聞へと移る。つられて其方を見ると、少女が「それはなに?」と訊ねた。
 思わぬ言葉に、少年の手が口元から外れる。呆けた顔を取り繕い、口を開いた。

「新聞だよ。見たことない? 夜明け前に、街で配ってるんだ」
「ええ。ここには、誰も来ないもの。……あなた、お名前は?」
「じ、ジュリアン……」
「ジュリアン。素敵なお名前ね」

 深海の真珠の如き侵し難い白肌が、月光を受けて淡く光を放っているように見え、少年は無意識に目を擦った。
 その、ときだった。

「わ……!」

 稚い少女の手が、やんわりと少年の手首を掴んだ。
 思わぬやわらかな感触に、少年は石化したかのように動きを止める。

「そんなふうに扱わないで。せっかくきれいなのに、傷ついてしまうわ」

 少女の瞳は、少年の目を真っ直ぐに見つめている。

「きれいな青色ね。素敵。もっと近くで見たいわ」

 そう言うと少女は、カタンと音を立てて鍵を外し、門扉を開いて微笑んだ。微かな金属音を奏で、番が軋む。
 少年が子供一人分ほどの隙間と少女を見比べていると、しなやかな腕が伸びてきて少年の手を握った。労働の繰り返しで煤汚れに塗れ、マメだらけになった手と違い、少女の手には僅かな傷も汚れも存在しない。

「よ、汚れちゃうよ」
「へいきよ。それより、もっとあなたの瞳を見せて」

 少女に手を引かれ、少年は花園の奥へと進んでいく。そして秀麗な東屋まで来ると少女は長椅子に腰掛け、少年に向けて両手を伸ばした。
 それを見た少年は、まるでそうすることが当然であるかのように、少女の前に膝をついて少女を仰いだ。毎朝のお祈りよりも真剣に、真っ直ぐに少女を見つめる。その青い瞳には、得も言われぬ熱と陶酔が映っている。

「ああ……思ったとおり、とてもきれいだわ」

 少女の言葉が、麻酔のように少年の心をとかしていく。
 少年の顔を包む小さな白い手が、愛おしげに頬を撫で上げ、そして。少女の美しい顔が、少年の視界を埋め尽くした。


 宝石をちりばめたような夜空の下。
 一人の少女が細い喉を震わせて歌っていた。うっとりとした歌声は、誰のためでもなく。聞くものは少女を彩る花々だけ。少女の足下には、彼女を仰ぎ見るようにしてプリムラが咲き誇っている。

「良い夜ね。あなたもそう思わない?」

 少女の歌うような囀りに答えるように、プリムラが夜風に揺れてさざめく。
 とろけるようなアメジストの瞳は、月光を受けて美しく煌めいていた。



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