短 篇 蒐


▼ 虹色の約束

「こんななにもない村に、なにしにきたんだよ?」

 宿を探していた旅人風の少年に、同い年くらいの少年が話しかけた。
 旅人風の少年は、辺りを軽く見回してから、質問に答える前に少年に問い返す。

「お前、ここの村のヤツ?」
「そうだけど」

 背負い袋と短剣という軽装はどう見ても長旅をする装備ではなく、聞けば旅人風の少年は隣の村から山を一つ越えてきたのだそう。村人の少年は青い目を瞬かせて首を傾げ、だから何だと言いたげにしている。

「じゃあさ、虹の竜がいるって噂、知ってるか?」
「……知ってるけど、お伽噺だよ、それ。子供が深い谷に近付かないようにっていうよくあるヤツさ。三歳過ぎても信じるヤツなんて、村にはいないよ」

 少し馬鹿にしたような物言いに、旅人風の少年はムッとした顔になる。だが、噂の存在は確かにあったのだとわかり、少しだけ内心安堵していた。

「いないってことを確かめたわけじゃないんだろ」
「お伽噺だからな。それに、誰が好き好んでなにもない谷なんか行くんだよ」
「なにもないってのも、お前が自分で確かめたわけじゃないんだろ」
「……そうだけど」

 村の少年の目にも、僅かながら好奇心が映っている。大人たちから言い含められていることだからと自分に言い聞かせてきたが、年相応に冒険心はあるのだ。
 ただ、彼のように確かめようという気になれないだけで。
 村で生きるには、村の決まり事を守らないといけないから。

 言いつけと好奇心のあいだで揺れているのを察した旅人の少年が、笑って言う。

「じゃあ、こっそり行こう。もし大人になんか言われたら俺が無理矢理誘ったことにしていいからさ」
「それはいい。でも……一人で谷に行かせるのは心配だから、ついて行ってやるよ」
「そうこなくっちゃ!」

 案内するよ、と言って歩き出してから、村の少年は思い出したように振り返った。

「俺、リァン・フォン。あんたは?」
「俺はユェン・シー。よろしくな、リァン」
「いきなり呼び捨てかよ……いいけど」

 不服そうな言葉のわりには、リァンの耳が赤い。そのことに気付いたユェンは機嫌良さそうに笑ってリァンの肩を叩いた。
 道すがら、リァンは聞かれるままに村のことを話して聞かせた。
 年に一度の虹竜祭にはお伽噺に出てくる村の守り神である虹の竜を模した像を花で飾り、一年の豊穣と無事を祈るという話。遠い王都と違って、村では女は十二、男は十五で結婚出来ること。昔と比べて、祭りが形骸化してきているということなど。
 ユェンの村では信仰が深く根付いており、精霊を軽んじる発言をすれば長老の拳が頭をかち割らんばかりに飛んでくるのに、たった山一つ越えただけで、これほど村の守り神への考え方が違うものなのかと感心した。

「ねえ」

 話しながら村を抜けて森沿いに歩いていると、不意に背後から声がかかった。

「あんたたち、どこ行くの?」

 大人に見つかったかと思って怖々と振り向いた二人の目に映ったのは、二人よりも少し年上に見える少女だった。リァンがユェンの横で「げっ」と小さく呟いたのを、少女が目敏く見咎めて睨む。

「またろくでもないこと企んでるんじゃないでしょうね」
「またって何だよ。ていうか、あんたには関係ない」
「関係なくない!……別にあんたが構わないなら、ここで大声出してもいいのよ?」
「……はぁ……面倒なのに見つかった」
「面倒ってなによ!」

 いまにも喧嘩が始まりそうな空気をどうにかしようと、ユェンが口を開く。

「待った待った。俺が言い出したんだ。この先の谷に虹の竜がいるって伝説を聞いて確かめたくてさ」
「はぁ? あんなもの、子供だましのお伽噺じゃない」

 村の中でも聞いた言葉が少女からも返ってきて、ユェンは肩を竦めた。やはりこの村の人は伝統を守ってはいるが、心から信じてはいないようだ。
 そうなった理由がわからないため、下手な口出しは出来ないが、ユェンは何となく寂しいと思った。

「俺は自分で確かめたものしか信じねーの。まあ、でも、村の決まりでここのヤツは谷にいけないっていうなら、俺一人で行くからいいよ」
「待てよ。別にそんな厳しい掟とかじゃないんだから、俺も行く」
「いいのか? あいつは行ってほしくなさそうだけど」
「どうでもいいよ、あんなの」
「ちょっと!」

 顔を赤くして食ってかかった少女を、リァンは冷めた目で一瞥する。

「いつもみたいにいい子ぶって、大人に告げ口しにいけばいいだろ。ほら、行こう。日が暮れたらさすがに降りられないからな」
「お、おう……」

 ユェンの手首を掴んでリァンが問答無用で歩き出すと、つられる形でユェンも歩き出す。二人の背を睨んでいたかと思うと、少女は小走りでその背に駆け寄った。

「あんたたちだけじゃ心配だから、あたしもついて行く!」
「……あとで怒られたとき、俺たちが無理矢理連れて行ったとかふざけたことを言い出さないならな」
「失礼ね! そこまでバカじゃないわよ!」

 眉をつり上げて大声でリァンに噛みついたかと思うと真逆の笑顔になり、ユェンに向き直って右手を差し出した。

「あたしはミァン・メイリー。よろしく!」
「あ、ああ、ミァンな。……てか、お前らって」
「あたし、リァンの従姉なの。もう十五だから結婚も出来る年なのよ」

 そういってミァンはリァンをチラリと見たが、リァンは全く興味を示しておらず、ミァンは不満そうに頬を膨らませた。その様子から、何となくミァンはリァンが気になっているのだろうなとユェンは察したが、谷の入口で馬に蹴られては真っ逆さまに落ちるしかないと、口に出す野暮はしなかった。
 ユェンの村にも、ミァンに似た雰囲気の少女がいる。
 ちょっと逆らっただけで、一言が三倍になって返ってくる気丈な少女だ。

「ここから降りられるみたいだ」
「一応、道にはなってるんだな。なにがそんなに危険なんだろ?」
「さあ……?」

 三人は谷の入口で顔を見合わせた。
 というのも、その谷は舗装というほどではないにせよ、歩くのに不便しない程度に道が出来ていて、所々に転落防止用の柵も作られているのだ。明らかに、過去に人が通っていた痕跡があることに訝りながらも、リァンを先頭、最後尾をユェンにして、縦に並んで歩を進めていく。

「そういやさ、村に伝わるお伽噺って何なんだ? 子供が谷に近付かないようにするための話ってことは、怖かったりすんのか?」

 暫く下って、ふと気になったのかユェンが二人のどちらということもなく訊ねた。

「そんな大層なものじゃないよ」 
「まあ、そうね。村はずれには虹の竜がいて、昔から村を守ってきたんだけど、あるとき村に大きな災害が起こって、それを村人は竜が守らなかったせいだって言って、竜を谷底に突き落としたの」
「えっ」
「そのときから、夜になると谷底から恨みがましい竜の声がするって話ね。実際は、渓谷を風が抜ける音だと思うわ」「ふぅん……」

 思っていたよりひどい内容で、ユェンは眉を寄せた。

「お伽噺ならいいけどよ、もしほんとに昔あったことなら村人ひどくね?」
「……ただのお伽噺だよ」
「そうよ。それに、竜って凄く大きいんでしょう? そんなの村人が集まったって、谷底になんか落とせるわけないじゃない」

 何となく気まずくなり、沈黙が流れる。

 それから、どれほど歩いただろうか。
 前方に横穴を見つけ、三人は足を止めた。 

「洞窟かな? 奥はそんなに深くなさそうだ」
「あたしランタン持ってるわよ、ほら」
「なんでそんなもの……」
「薬草摘みの途中であんたたちを見つけたからよ」

 言葉通り、ミァンの腰には半分ほどまで薬草が詰まった籠が下がっている。
 差し出されたランタンに火をつけて、リァンが洞窟内に向けて翳す。すると、奥でなにやら小さな影が動いた気がして首を傾げ、目を凝らした。

「なによ、リァン」
「なにかいた。大きさからして熊とかじゃなさそうだ」
「一応警戒はして行くぞ」

 ユェンが腰の短剣に手をかけながら言うと、二人も緊張の面持ちで頷き、明かりを手にしているリァンを先頭にしつつ歪な横並びで奥へ進んでいった。
 洞窟は本当に然程深くはなく、背後に光が見えているうちに突き当たりが見えた。奥は岩が密集したような形で行き止まりとなっており、村で採れるものと同じ木材の破片が、所々に散らばっているのが見える。

 そして、その手前にリァンが見たという影の正体も、あった。

「――――……誰?」

 枯葉や布きれを集めて作った鳥の巣のようなものの中心に、それはいた。
 虹色に輝く髪と瞳を持つ、線の細い青年が。

「こんなところまで、なにをしにきたの?」 

 洞窟に反響しているのか、それとも彼自身の声音なのか。
 不思議な響きを持った音で、青年は訊ねる。真っ直ぐな瞳は三人を見つめていて、その色に一切の敵意も害意も映っていない。

「えっと……何となく、好奇心で。ここに虹の竜がいるって噂を聞いたから」
「そう」

 ユェンが答えると、青年はリァンとミァンを交互に見た。

「君たちはこの上の村に住んでる子だね」
「…………」

 二人が同じ動作で頷くのを見、青年は僅かに目を細めた。

「いま、村はどうなっているのかな。作物は採れている? 熊や狼が降りてきたりはしていない?」
「えっ……う、うん、不作の年もあるけど、村の人が生きていけないくらいだなんてことは俺たちが産まれてから一回もないよ」
「獣も、森の奥までいかなければ出会ったりしないわ」

 ほら、と言ってミァンは籠の中身を青年に見せた。そこにある薬草は、村の近くにある森で採れるささやかなものばかりだ。

「そうか」

 言葉は短いけれど、その表情と声に安堵が含まれていることを三人は感じ取った。

「あんたは、なんでこんなところに?」
「さあ、どうしてだろう。他に行くところもないからかな」
「不便じゃないの? 村まで来ればいいのに」
「ありがたいけど、僕は静かなほうが好きだから」

 ユェンとミァンの言葉に、はぐらかすような答えを寄越しながら、青年はゆるりと三人を見回した。

「……ねえ。それより、外の話を聞かせてよ。眺めることは出来ても体験することは出来ないから、色々知りたいんだ」

 青年の不思議な言い回しを奇妙に思いながらも、彼の非日常的な雰囲気に飲まれた三人は、代わる代わる自分たちが体験した出来事を話して聞かせた。

「―――だから俺は、いつか隣村だけじゃなくもっと遠い世界も見に行くんだ」
「あんたの行動力見てると、ほんとにどこまでも行きそうね」
「今日だって、朝起きて思い立って、そのまま来たんだろ? 信じられないよ」
「そうかなあ?」

 青年は、そんな三人のやりとりを愉しげに笑って眺めている。

「お兄さんは、その……もしかしてずっとここに……?」

 ふと、自分たちばかりが話していることに気付いたミァンが、青年を気遣わしげに見た。青年は首を横に振り、おっとりした笑みで答える。

「ううん、僕もいくつか見てきたものはあるよ。えっとね……」

 三人の話と引き換えに、青年も山をいくつも越えた先にある王国の話や、荒れ狂う火山の話、どこまでも広がる水平線の話などを、まるで見てきたかのように話した。静かな場所が好きだというわりに、賑やかな朝市の様子や遠い国の王様がパレードを行ったときの話も紛れていて、三人は目を輝かせて聞き入った。
 青年の声はどこまでも透き通っていて、雨だれのようでも、鈴のようでも、月光のようでもあった。聞いているだけで心が洗われていく心地がした。そしてなにより、揺り籠の中で優しい母の子守歌を聴きながら、なにを案じることもなく眠っていた、物心着く前の無垢な魂が戻ったような感覚になる。
 青年の話は特にユェンの冒険心を擽ったようで、いつか同じ景色を自分で見たいというユェンに、青年も「君なら出来るよ」と優しく応援した。

「……ああ、いけない。日が暮れてしまうね」
「えっ、もう?」

 リァンが洞窟入口を振り返る。遠くに見える光は弱く、間もなく橙に染まろうかという頃だった。
 入口まで送るという青年の言葉に甘えて、名残を惜しむかのように話を続けながら外を目指してゆっくり歩く。

「さいごに、君たちだけに特別な景色を見せてあげる」

 そういうと一瞬辺りを眩い光が包み、三人は思わず目を閉じた。
 次の瞬間、ふわりと体が浮く感覚がして、怖々目を開く。

「わ……!」
「え、う、嘘でしょ!?」

 飛び込んできた光景に対して、ユェンとリァンは感嘆の声を上げ、そしてミァンは驚愕と恐怖が入り交じった声を上げた。ミァンは無意識のうちにリァンの体にしがみついているが、二人ともそれどころではないらしく、キツくひっつき合ったまま目を見開いていた。
 反応は三者三様だが、彼らが見ている景色は、同じもの――――渓谷からの夕陽という、一生見ることがないであろう雄大な景色だった。
 しかも三人は、ただのお伽噺だったはずの、虹の竜の背に乗っている。

「やっぱり、伝説は本当だったんだ」

 感嘆の溜息と共に、ユェンが呟く。

 夢なのか現実なのか、境界が曖昧になる心地だった。
 昼と夜の境界が、夕陽によってとかされていくように。

 ――――ここのことは忘れて、二度ときてはいけないよ。

 遠くで、そんな声がした気がして……それがとても寂しそうに聞こえて、どうしてそんな哀しいことを言うのかと訊ねようと口を開いた瞬間、ハッと目が覚めた。

「…………え、っと……ここは……?」

 三人はなにが起きたのか理解出来ないといった表情で、辺りを見回す。
 体を起こすと、そこはミァンと合流した谷の入口付近だった。

「夢、だったの……?」
「そんなはず……」

 そう言って立ち上がろうとしたとき、ユェンの膝からなにかがこぼれ落ちた。

「なんだ?」

 それは、虹色に輝く鱗だった。
 小さな貝殻のようにも見えるそれは、光に翳すと輝きを変える、不思議な色をしている。まるであの青年の髪や瞳のように。そして、僅かなあいだだったけれど確かに目にした、夕陽の中にあって尚赤く染まらない、虹色の竜の広い背中のように。

「あ、あたしのとこにもあった」
「……俺もだ」

 指の爪より僅かに大きいそれを、三人は夕陽に翳して眺めてみる。橙の光に翳しているのに、その鱗は鮮やかな虹色を保っていた。

「…………最後に、って言ってたな。もう来るなとも」

 彼の言う最後は“最期”だったのではと、ユェンが俯く。

「そういうの、考えるのはやめよう?」
「そうだよ。それに……」

 泣きそうなミァンに同意し、リァンが呟く。

「人間は死んだら終わりだけど、あんな不思議な生き物だったんだし。またどこかで物語か伝説になってたりするよ、きっと」
「うん……そうよね」

 ミァンも、気休めだとわかっていた。けれどいまだけはリァンの不器用な優しさを茶化す気にも、余計なお世話だと突っぱねる気にも、どうしてもなれなかった。

「俺、世界を見て回ったら、また来るよ」

 沈んだ空気を吹き飛ばすように、なにより泣きそうな自分を奮い立たせるように、声に出して決意を新たにする。ユェンは虹の鱗を胸に、静かに宣言する。

「あいつが見たって言う景色を全制覇して、お前らに……それからあいつにも、報告しに来る。もしかしたら、旅の途中でまた会ったりしてな」
「ユェン……」

 目尻に滲んだ涙を拭い、ミァンは下手に笑って見せた。

「ほんと、あんたならやってくれそうだから笑っちゃうわ」

 帰路につきながら、三人は無理矢理だと頭の片隅でわかっていても笑って話した。

「結局あんまり薬草摘めなかったから、母さんに怒られそ……」

 語尾が不自然に途切れたことを訝り、リァンとユェンが首を傾げる。
 ミァンが手振りで籠を差すので、不思議がりながらも揃って覗き込んだ。

「リャンシィの花……?」

 籠の中には、谷へ行く前には半分しかなかった薬草が満杯詰まっていて、一番上に淡い桃色の大きな花が、そっと置かれていた。リャンシィの花とは恐らくそれのことだろうが、ユェンには聞き慣れない名だった。

「なんだそれ?」
「…………」

 ユェンが何気なく訪ねると、二人が酸っぱいものでも口に放り込まれたような顔をして、互いに目を合わせた。暫しの沈黙合戦ののちに負けたのはリァンのほうだったようで、深く長い溜息を吐いてから話し始めた。

「花嫁になる娘が、婚姻を申し込むときに髪に付ける花だよ」
「言っとくけど、あたしが摘んだんじゃないわよ」
「わかってるよ……」

 幼馴染み二人は不自然なほどに目を逸らしながら、村への道を辿っていく。
 必要ないというなら、知らないものだというなら、その辺に捨てていくことだって出来るのに。どちらもそうしないところに答えがあるとユェンは思った。思ったが、両方からあれこれ叫ばれそうだったので、言わなかった。

「ただいま」

 夕陽を背にして村へ帰ると、薬草摘みのわりに帰りが遅いと心配していたミァンの母親が、真っ直ぐ駆け寄ってきてミァンを抱きしめた。そのとき娘の傍に見慣れない少年がいることを一度は不審がったものの、二人が隣村から遊びに来た友達だと説明したことで、ユェンがミァンを誘拐したと騒がれることはなかった。

「あの、おばさん、あっちにある谷ってなんで入っちゃいけないんだ?」
「あんたたち、まさか……」

 家へと向かいながらユェンが訊ねると、ミァンの母親が顔色を変えて三人を見た。慌ててユェンが首を振り「二人に止められたから、谷の入口までしか行ってない」と答えると、訝りながらも溜息を吐いた。

「そうだね……あんたたちも、子供だましのお伽噺で納得する年じゃないわね」

 ミァンの母は、遠くを見る目でぽつりぽつりと話し始めた。

「あそこはね、以前は鉱山だったんだよ。でも、村の真下まで坑道を広げようとした人たちが崩落事故に遭って、生き埋めになって、このまま掘り続けたら村まで谷底に消えちまうってことで封鎖したのさ。入口まで行ったなら、谷に道があったのは見ただろう?」
「ああ、だから俺もなにが危険なんだろうって不思議だったんだ」
「下手に騒いだら、崩れるかも知れないからさ。降りるだけならともかくね。ただ、当時の柵も風化してるから、子供が降りるにはやっぱり危険なんだよ」
「わかった。もう近付かないよ」

 もう行く理由もないし、とは言わずに。
 ユェンは聞き分けよくミァンの母に頷いた。

「そういやそのとき、村の守り神様の祠も壊れちまったって話だったっけ」
「えっ」

 思い出したようにミァンの母が付け足した言葉に、三人は目を瞠って彼女を見た。確か、洞窟の奥は壁になっていたわけではなく、岩が積み重なった形で行き止まりになっていたはずだ。そしてその中に、なぜか木材があったことも覚えている。

「それって作り直したりは……」
「一応別の場所に建てたらしいけど、村の大人は谷にはいい思い出がないからね……今頃荒れちまってるかも知れないねえ。村にも小さい祠があるにはあるけど。ほら、集会所の」
「あれか……」
「でも、形だけって感じよね。守り神様の像だって、お祭りのときにしか見ないし、普段は誰も……」
「まあ、本気で信じる人はいないだろうね。あんたたちも、ずっと躾のためのお伽噺だと思ってただろう?」
「それは……」

 リァンとミァンは口を噤み、俯いた。

 形だけの祠と、形だけの祭り。
 そうなってからどれほどの月日が流れていたのだろう。
 村の人たちは、守り神を理由なく信じなくなったわけではなかった。守り神の竜を谷底に突き落とした村人はいなかったが、村人と共に谷へ消えた守り神はいたのだ。そのことを忘れたくて、目を背けたくて……村人は、次第に虹の竜をお伽噺の世界へ追いやっていた。
 伝説という形であっても、信じていたのは村人ですらないユェンだけ。

 ここにきて再び、あの青年の言葉が脳裏に蘇る。

 ―――ここのことは忘れて、二度ときてはいけないよ。

 本当に忘れてしまったら、彼はどうなってしまうのか。
 三人は顔を見合わせて小さく頷き合う。言葉にしなくても、言いたいことは視線に全て隠っていた。

 その日。宿を探す前に谷へと行ってしまったため、ユェンはリァンの部屋を借りることとなった。
 ついでのようにミァンも家に乗り込んできて、三人は三人だけの秘密の冒険譚を、夜が更けるまで語り合った。


 これはたった一日、ほんの数時間の、小さな冒険のお話。
 そして、いつか少年が旅立つ大きな冒険の、始まりの詩。




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