▼ 鳥籠の天使
天上の楽園を似せて作られた箱庭のように、美しい花々と家具で飾られた部屋で、一人の少女が細く白い喉を震わせて歌っていた。小鳥のような、甘く愛らしい声は、しかし隠しきれない悲哀を纏い室内に満ちる。
長い睫毛を伏せ、朝露に濡れた薔薇の花弁の如き艶やかな唇で少女は詩を紡ぐ。
繊細な装飾を惜しげもなく施した鳥籠は、やわらかなレースと真綿のクッション、馨しい花で満ちている。囚われの小鳥の美しい羽が、僅かでも傷つかぬよう。花より麗しく、小鳥より愛らしい、稚い少女たちのためだけに。それらは在った。
「クリスティーネ」
楽園の如き花園に、天上の鈴を転がしたような声が響く。晴れ空に澄み渡る歌声を思わせる、何処か弾んだ声音だった。
鈴の音に呼ばれた少女クリスティーネは、歌うのをやめて小首を傾げた。
「わたしの可愛いクリスティーネ」
眩しそうな表情でシャルロッテを見つめるのは、クリスティーネの癖だ。
緩やかに癖のついた長い白金色の髪がふわりと靡き、髪に飾られた花が甘く香る。大地より切り離された切花でありながら、其処に咲いていることが当然であるように瑞々しく、クリスティーネのために色艶を保っている。
シャルロッテはクリスティーネの稚い曲線を描く滑らかな頬に小さな手を伸ばし、両頬をやわらかく包んだ。
擽ったそうに身を捩りながらクスクス笑うクリスティーネの額に自らの額を重ね、見つめ合い、甘く売れた果実のような唇を合わせる。戯れのような口づけの合間に、しっとりと熱を帯びた吐息が漏れる。
この世に並び立つもののない無二の歌声を持つ天使の唇を、当たり前に奪うことが出来る。その事実がシャルロッテをこの上なく陶酔させた。
「愛しているわ、クリスティーネ。あなたの甘やかな歌声も、星屑をまとった綺麗な瞳も、砂糖菓子のような唇も、全てよ」
クリスティーネはシャルロッテの言葉にはにかんだように微笑み、己の頬を包んでいる白い手に手を重ねて歌い始めた。
「素敵な歌声ね、クリスティーネ」
クリスティーネは歌う。
喜びに満ち足りた微笑を浮かべて。
この世に僅かな不安も恐怖もありはしないと、心から信じているような顔で。
天使の鳥籠に囚われてから、クリスティーネは緩やかに壊れていった。
まるで、生まれたときから歌うための人形であったかのように、クリスティーネは歌以外を忘れた。シャルロッテの呼ぶ声に反応は見せても、それだけであった。
言葉も、愛も、口づけも、抱擁も、いつもシャルロッテから与えるばかりだった。だが、シャルロッテはそれで充分しあわせだった。
オペラ座の象徴的ヒロイン。天賦の才を持つ歌姫。
そんな肩書きは、最早なんの意味も持たなくなった。――――否。最初からそんなものに興味はなかった。他人が何と呼ぼうとシャルロッテにとってクリスティーネは地上に舞い降りた天使であり、花園に遊ぶ妖精であり、無二の乙女だった。
やわらかな陶器で出来た歌人形のようなクリスティーネを、シャルロッテは自身の屋敷に連れ帰った。絹糸のドレスを着せ、やわらかな羽毛のクッションで包み、甘く香る花々を集めて飾った。
「今日も綺麗よ、わたしの可愛いクリスティーネ」
愛しい天使を抱きしめ、囁く。細く頼りない体を抱きしめているときだけは、胸に伝わる鼓動がクリスティーネを歌人形から少女に戻してくれる。
「愛しているわ、クリスティーネ。誰にもあなたの歌を聞かせたくないくらいに」
暗い夜空のようなシャルロッテの瞳を、クリスティーネが眩しそうに見つめる。
「そうよ。誰にもあなたを渡したくないの。わかるでしょう? あなたの歌はきっとたくさんの人を魅了するわ。そんなの、耐えられないの。あなたを愛しているのは、愛していいのは、わたしだけ……わたしだけなの」
言葉は無い。白い喉が震え、歌を紡ぐ。
シャルロッテがクリスティーネの歌に歌声を重ねる。調和し、揺蕩い、部屋に歌が満ちる。
閉ざされた楽園のような鳥籠の中で、少女たちは歌い続けた。
この世の春を。終わりない幸福を。永久の夢を。歌い続けた。
* * *
見せかけの楽園に、あなたは心を閉じ込めた。
わたしの声はもう、あなたには届かない。
なにを言おうとも。なにを叫ぼうとも。あなたは決して聞きはしない。
あなたが聞きたいのはわたしの歌だけだから。
かわいそうなシャルロッテ。
壊れてしまったのは、あなたのほうだったのに。