短 篇 蒐


▼ ジャンク街

 色彩という概念を忘れたかのような暗灰色の街の片隅で、青年は空き箱で作成したテーブルセットを囲んでいた。機械油の臭いが染みついたジャンク通りで清潔感など気にするものはなく、錆とオイルに塗れた手で加工食品の残骸を摘まむ。三級濁酒を水で薄めて米のとぎ汁のようになったものを、妙にありがたがって飲む哀しい大人を横目にしながら、青年はなにを模したのかもわからない萎れた乾物を噛みしめた。
 一応人が消化することが出来るから食べ物として売っているだけで、実際は中古の合成樹脂だと言われても納得な、味気ない物体。それさえ手に入れることの出来ない人種が、この七層には山のようにいる。

「俺、いつか中層に行って本物の空を見るんだ!」

 高らかに宣言して、摘まみ上げた固形食の破片を口に放り込む。
 パッケージにはチョコレート風味と書いてあったが、青年は本物のチョコレートを知らない。青年だけではない。彼とテーブルモドキを囲んでいる友人たちも同様に、本物の味を知らないし、見たこともない。

「また始まったよ」
「下層生まれが中層においそれと行けるわけないだろ」
「七層のジャンクが六層に上がるだけでも大変なのに。トラムの切符売り場くらいは見たことあるだろ? 六層行きでさえ給料の三ヶ月分だぜ? 無理無理」
「掃除屋みたいな選ばれた能力者なら別だけど、今更能力覚醒とかそれこそ夢だろ」

 薬品焼けしたパサパサの金髪を持つ友人の一人が給料の三ヶ月分などと宣ったが、彼らは月給制の定職に就いているわけではない。この文言はいつの間にか下層で定着していた『とてつもなく高い』『一生手が出ない』を言い換えたものに過ぎない。
 つまりは同じ下層に分類される、現在地より一層上のエリアへ行くのにも目が眩む値段のチケットを手に入れる必要があるのだ。
 しかしそれは、正規の手段で上がるためにかかる値段である。正攻法があるのなら邪道や裏道もあるわけで。例えば八層の情人街に務める情婦――所謂キャバ嬢などは名のあるヤクザのお手つきになって中層の店に勤める、という手段がある。
 買えないなら盗め。ほしいなら奪え。それが下層のルールだが、それすら出来ない弱者は一生穴蔵で燻っていろというのも下層の暗黙。
 そう言われて一念発起出来るほど活力のある弱者は殆どおらず、友人たちのように青い無謀を笑う己を大人だと思い込んで、諦念に塗れて生きるのが多数派である。
 あんまりな言われようにムッとしつつも、賛同が得られないのはいつものことで、青年は「夢がないなあ」とぼやくだけに留め、解散した。
 彼らの日課は七層六区にあるジャンクプールでガラクタを拾い集め、拾ったものをジャンク屋に売り、僅かな日当を得るという単調なもので、刺激を求めて大言壮語に酔う若者は珍しくはない。しかしそれを実行に移す者は、皆無と言っていい。
 重苦しく澱んだ空気、堆く折り重なった雑多な建物、酔っ払いの排泄物や吐瀉物に塗れた路地裏、地面に転がる病人や、ヤクザに反発した愚か者、死体から服や金目のものを剥ぎ取る浮浪者。
 それらに何の感情も抱かない昏い目をした住民たちが、青年の隣人だ。

「夜明けってのはどんなもんなんだろう……この絵本にある青い空ってのは、空想の絵じゃなく実在するのか……?」

 自宅と呼ぶにはあまりにも粗末な集合住宅の一室にて。青年は、ボロボロの絵本を掲げ見た。ジャンクプールには中層からの廃棄物が降り積もる。家具、家電、壊れたオモチャに、読み古した本。ときには開けもせずに期限切れを迎えた加工食品なども紛れていて、それらは下層の住民にとって貴重な収入源となる。
 下層で作られる加工食品に比べて栄養価も味も良く、喩え賞味期限が大幅に過ぎていようとも中層産のものを選ぶほどに、中層の廃棄食品は人気が高い。
 そういったものを拾い集めていた際に見つけた、下層にはない色彩を纏った絵本。落ちた衝撃か、或いは捨てた人が紛失したのか半ばページが抜けていたが、青年にはそれが宝物のように見えた。
 中層で暮らす人が見れば独房かなにかかと思いそうな殺風景な部屋に、一つだけ。何処までも広がる青空と草原を描いた落丁の絵本。通常は幼児期に卒業するそれを、青年は何度も繰り返し眺め暮らした。
 書かれている文字の殆どがわからなかったが、識字能力のある友人に教わった数字だけは理解出来る。この絵本にも、青年の好きな数字が書かれていた。それ以外は、残念ながら何と書いてあるのか全くわからないけれど。

「この数字はなにを指してるんだろ。この木? ってことはないよな……だって空があって草が生えてるような場所では珍しくないって聞いたし」

 まるでファンタジーの世界を見ているような気分で、子供向けの絵本を眺める。
 空も、地面から生えている樹木も、花も、草原も、全てが夢でさえ見たことがないものだ。絵本に込められた意味を想像していると、ドブ底のような下層でも空の夢を見ることが出来る気がしてくる。

「日が暮れる前に明日の食い物買ってくるか……」

 現実として夢を見ているだけでは、腹の足しにはならない。
 世知辛さを胸に、青年はお気に入りのパーカーを羽織って外に出た。
 背中に1とだけ書かれた黄色いパーカーは、下層では珍しい色彩の一つだ。先月にジャンクプールで発掘したもので、売ればいい金になっただろうが、妙に気に入って愛用している。
 トラムステーション前の商店通り付近まで来ると、明らかに下層民ではない青年がメモらしきものを手にキョロキョロしているのが目に留まった。下層の目からすれば上等な部類に入る服装も、整った髪も、手入れされた肌も、なにもかもが彼を異物と見做している。
 それが証拠に、行き交う人たちは遠巻きに観察しながらも彼が鼠穴に迷い込むのを待っている。

「あー……あのさ、あんた、中層のヤツだろ?」

 風景から浮きに浮いた異物に耐え兼ねて声をかけると、場違いな来訪者はぱあっと表情を輝かせて振り向いた。

「うん、そうなんだ。よくわかったね」
「見りゃわかるだろ。そんなことより、下層でなにしてんだよ」
「いやあ、実は友人に七層のジャンク屋で買い物してくるように頼まれてしまって。でも地図がわかりにくくて困っていたんだ」

 ほら、との言葉と共に見せられた手描きの地図はあまりにも簡素で、下層では全く役に立たないだろうと一目で理解出来るものだった。

「これじゃ一生辿り着けねえだろ。ジャンク屋なら良く行くから案内してやるよ」
「いいのかい? ありがとう!」

 中層の青年はサミュエル・ベイリーと名乗り、右手を差し出してきた。

「なんだよ?」
「握手。よろしく」

 青年が睨むのも構わずに右手を勝手に握ると、サミュエルは無邪気に笑顔を向けてきた。育ちの良さも悪意のなさも、此処には存在し得ないものだ。
 ただでさえ下層では珍しい中層民な上に西洋人とあっては、好事家に売られるか、或いはバラバラにされて臓器屋の商品になるかのどちらかだっただろう。

「そうだ。君の名前は?」
「……んなもんねえよ」
「えっ、そんなはずないだろう? 君だって両親はいたんだろうし」

 悪気はないのだろうが、こうも当然に全ての人には親が居て、名前を与えられて、大事に育ててもらったはずだという前提で話されると、苛立ちが先に来てしまう。
 しかし無知なだけの彼に八つ当たりしても仕方ないと深く溜息を吐いて、苛立ちを無理矢理昇華してから口を開く。

「俺はジャンクプールに捨てられてたんだよ。だから親が名前をつけたかどうかとか知らねえし、それを本名だってんなら俺に本当の名前はない。皆好きに呼んでるからお前もそうしろよ」

 昇華したつもりの苛立ちが早口になって表れてしまい、ガシガシと頭を掻く。
 サミュエルは歩きながら暫く考えていたかと思うと、ポンと一つ手を叩いた。

「ルーク。光を齎す者っていう意味だよ。君にぴったりだと思わない?」
「はぁ? 何処が」

 思わず素っ頓狂な声を漏らし、横を歩くサミュエルを見た。

「だって、僕に声をかけてくれたでしょう?」

 それが僕にとっての光だったんだ、とサミュエルは裏のない笑顔で言った。綺麗な水色の瞳が真っ直ぐに見つめてくるのが妙に眩しくて、青年――ルークは眉を寄せて目を逸らした。



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