短 篇 蒐


▼ 黄昏の温泉郷


 あの日から繰り返し見る夢がある。
 朱い欄干。朱色から紫色へと滲む空。橙色の灯りで道を照らす提灯。俺はいつも、橋の手前で足を止める。まるで一度も土足で踏まれたことがないかのような、土汚れ一つない綺麗な板張りの橋は、足を踏み出すことを躊躇わせて。
 結局一歩が踏み出せないまま、目が覚める。

「…………また、あの夢」

 幻想的だが何処か恐ろしさも感じる、薄暗い景色の夢。
 渡った途端に橋が消えるのではないかとか、幻想的な景色がもっと恐ろしいものに変わるのではないかとか、或いは、あれが三途の川に渡された橋ではないか……と、目覚めた直後は嫌な想像ばかりが過ぎるのだが、それも落ち着くと今度は強い後悔が押し寄せてくるのだ。
 また渡れなかった。今度こそと思っていたのに。そんな、後悔が。

「七年目、か……」

 もそもそと起き出して、体は勝手に身支度を調え始める。
 七年で染みついた社会人としての習慣は、俺の後悔などお構いなしに意識を日常へ帰そうとしてくる。朝食もそこそこに家を出て、すし詰めの電車で出社して、仕事をこなして帰路につく。

 子供時代を殆ど一緒に過ごした幼馴染がいなくなっても、俺の世界は回り続ける。
 フィクションのように、仕事もなにもかもを放り出してアイツを必死に探すなんてことはなく。ただ、たまに思い出しては沈鬱な気持ちになるだけだった。
 七年は長い。失踪当初は騒いでいたマスコミも、ネットのファンを名乗る人々も、七年過ぎればアイツの名前も出さなくなる。きっと記憶からも消えているのだろう。
 アイツの作品が一番好きだと言っていた女性は、いまはアイドルの追っかけをしている。若い才能が失われたと惜しんでいた大物小説家は、別の若手を推している。

 世間とはそんなもので、俺もそんな世間の一部なのだ。

 初めて見たときからずっと、アイツの物語が好きだった。
 主人公の目を通して異世界を見ているようで。一緒になってヒロインに恋をしたり強大な敵に戦いたり、仲間との絆に胸を打たれたり。そうして広大な舞台を冒険していたのに、七年前のあの日……突然、異世界への扉が閉じた。
 前触れなど何一つなかった。と、思う。なにか悩んでいる素振りもなければ、いま連載している最終話を執筆中だとも言っていた。
 アイツは……宗介は、俺以上にアイツ自身の物語を大切にしていた。なのに。

「……考えても仕方ないだろ……」

 あれから七年目、七回目の夢を見たからだろうか。今日はやけに頭の中がアイツのことでいっぱいになっている気がする。
 確かなことはアイツがいなくなって、異世界への扉は閉ざされたままということ。冒険譚の最終話。物語の結末だけがわからないまま、俺は随分とオトナになった。
 味気ない食事を済ませて寝支度を終え、また布団へ潜り込む。
 きっと明日から、また変わらない日常へ戻っていくのだろう。そう、諦めにも似た思いを抱いて。

「――――は、っ……?」

 一瞬のことだった。
 目を閉じて、開けた。
 ただそれだけのあいだに、俺はいつの間にか、『あの橋』の前にいた。
 朱色の欄干。橙に滲む空と、提灯。影で出来たような木々と、古めかしい日本風の家屋。足元から橋が延びていて、白い板張りの路面には、相変わらず足跡一つない。

 夢と違うのは、提灯を手にした和装の人影がまばらながらも見られること。
 夢と同じなのは、相変わらず橋のほうへ一歩を踏み出す気になれないこと。

「此処は……? これは、夢……だよな……?」

 問うたところで答えがあるわけでもなく、虚しく声が黄昏の闇に消えた。
 いつもの夢なら暫くぼんやりしていれば勝手に目覚めるのだが、今回は何だか妙に空気がリアルで、いつまで経っても覚める気配がない。

「渡らないのですか?」
「ッ!?」

 突然背後から声がして、俺は驚かされた猫のように飛び上がった。怖々振り向くと其処には、浴衣を着て二足歩行をしている犬がいた。
 自分の目が信じられず、声の主をまじまじと見る。首の付け根も肉球のある手も、どう見ても作り物には見えない。やはりこれは夢なのだろうか。

「どうかされましたか?」
「あ……いや……」

 あまりにも普通に話しかけてくるものだから、いちいち躊躇している自分のほうがおかしいような気がしてきてしまい、俺は逡巡しつつも口を開いた。

「こんな綺麗な橋、土足で渡ったら汚しそうで……」

 我ながらなにを言っているんだろうと思う。
 外にある橋なんか、土足以外で渡りようがないのに。

「土足、ですか?」

 不思議そうに首を傾げられ、足元を見る。
 其処で俺は、自分の履き物が室内履き用のスリッパであることに気付いた。しかも服装は寝たときに着たパジャマだ。これはこれで恥ずかしい。

「ああ、いや……なんで俺、こんな格好……」
「初めていらっしゃる方は皆さんだいたいそうですよ」

 今更になって恥ずかしがる俺を、犬の人はのほほんと宥めた。そして、

「ああでも、東雲先生は和服でいらっしゃいましたねえ」

 とんでもないことを、のんびりとした口調で付け足した。

「東雲……?」

 それは宗介の苗字だ。アイツは本名がペンネームみたいだし、東雲先生って響きが何だか格好いいからと言う理由でペンネームをつけずに活動していた。
 それがどうして、こんな夢の世界の犬が知っているのか。それとも、俺の夢だから俺が知っていることを知っている……?

「アイツは、いま何処にいるんですか?」
「おや、先生のお知り合いですか?」

 頷く俺に、犬の人は遠くを提灯で差した。

「あそこに見えるお宿の、一等見晴らしのいいお部屋にいらっしゃいますよ。何でも景色がいいと執筆が捗るのだとか」
「執筆、まだしてるんですね……」
「ええ。見せる相手もいないのにと寂しそうにしておられました」
「っ……」

 こんなところに引きこもって、見せる相手がいないだなんて。
 俯いた俺の視界に、犬の人の黒い瞳が飛び込んで来た。ゴムのような質感の濡れた鼻が、改めて彼の頭部が作り物のかぶり物でないと突きつけてくる。

「会いに行かれますか? ご案内しますよ」
「……会いに、行けるんですか」
「ええ。どなたでも、この街は歓迎しております」

 どうぞ、と犬の人は一歩前に出た。其処は橋の上だ。

「提灯がないと迷いますから、ついてきてください」

 歩き出した彼のあとに続き、俺も一歩前に出る。
 ぺたりと間抜けな音がして、心配していた土汚れはつかず、あれほど忌避感が胸を占めていたのが嘘のように足が進んで行く。
 橋を渡ると、温泉街の土産物屋が並ぶ通りに出た。店員も客も皆浴衣姿で、中には枯葉色の羽織を纏っている人もいて。足元は下駄や草履で、誰もが提灯を手に提げている。
 そしてなにより、道行く人は誰もが俺の前を行く犬の人同様に、二足歩行の動物の姿をしていた。

「此処は、どういうところなんですか……?」
「温泉街ですよ。湯河原という地名を聞いたことは?」
「湯河原? そりゃ、ありますけど」

 自分の知る湯河原温泉はこんな黄昏色の異世界ではなかったはずだ。それとも暫く来ないうちに大胆なマイナーチェンジをしたとでも言うのか。

「まあ、まずはご案内しましょう」

 結局此処が何処なのかは謎のまま。ともかくはぐれないようについていき、立派な宿の正面入口をくぐった。
 宿の外観は日本風の大屋敷といった風情で、黄昏色の照明が景色に馴染んでいる。立派な日本庭園や秋に紅葉する種類の庭木、桜や梅の木、他にも色々。いつに来ても四季を存分に楽しめそうな風景が広がっている。
 入口周辺だけでもこれほど立派なのだ、一等見晴らしがいい部屋からの景色なんてどれほどのものだろうか、想像もつかない。

「ご機嫌よう。ご亭主、東雲先生にお客様ですよ」
「おやまあ。外からのお客様は久しぶりですねえ。どうぞ、お部屋にご連絡は入れておきますからね」

 犬の人は提灯を畳むと、俺に目配せをしてから歩き出した。俺は亭主らしき綺麗な毛並みをした三毛猫の人に頭を下げつつ、あとについていった。
 館内も立派で、俺がもっと語彙のある人間だったらきっと何処がどう素晴らしいか一晩では語り尽くせなかっただろうが、残念ながら人並み以下の語彙なもので、最早とにかく凄いとしか言い様がない。
 階段をいくつか登り、四階の奥へ向かう。その道中にも二足歩行の動物らしき人とすれ違い、会釈をしたり「ごゆっくり」と言ってもらったりした。

「此処ですよ。さあ、あとはお二人でどうぞ」
「此処が……あの、案内、ありがとうございました」

 いいえ、と言って犬の人は来た道を戻っていった。
 そう言えば結局、お互い名乗らず終わってしまった。声には出さなかったものの、犬の人だなんて失礼な呼び方のままなのは良くなかったかも知れないと今更思う。
 次会ったら聞いてみようかと思いながら、目の前の扉を叩く。

「どうぞ。あいてるよ」

 部屋の奥のほうから声がして、俺は一つ深呼吸してから扉を開けた。
 木製の引き戸は簡単に開き、鍵らしきものは外側にも内側にも見当たらなかった。随分と不用心な宿だ。それとも風景に違わず時代が古いのか。
 扉の内側は広めの上がり口があって、壁際には下駄箱も備えられている。此処まで履いてきたスリッパを脱いで上がると、内と上がり口を遮る障子戸を開いた。
 中は広々とした和室で、手前に座卓と座椅子、奥には広縁、左手側に襖があって、その開きっぱなしの襖の先が寝床らしく、枕元に小さな行灯と文庫本がある。
 黄昏色の空を提灯のように橙に光る金魚がゆったり泳いでいて、時折何処かの窓に吊り下げられた風鈴がやわらかな金属音を奏でている。
 そして宗介は、広縁に置かれた椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた。この宿の浴衣だろうか。流水紋が描かれた白い浴衣に、枯草色の羽織を合わせている。

「久しぶり……だよね?」

 妙な言い方をする宗介に呆れながら、正面の椅子に腰を下ろす。
 宗介は失踪した当時からなにも変わっていない。俺だけが七年分年を取っている。

「七年ぶりだ」
「そんなに?」

 驚き目を瞠る宗介。まじまじと人の顔を見て、やっと納得したのか、深く長い息を吐いた。

「そうか。あれから七年も経ったんだ。じゃあ……」

 其処で言葉を句切ると、少し迷ってから、寂しそうに笑って。

「もう、新作を待っている人はいないだろうね」

 諦めたように言った。
 その顔は、いつぞやの公募に落ちたときと同じだった。本気で狙っていた文学賞が選外で終わった、あのときの。
 あのとき俺はなんて言ったんだろうか。俺自身は全く文学少年でも何でもなくて、小説なんて学校の授業で読まされるものだという認識でしかなくて、それでも宗介の書くものだけはいつだって楽しみだった。

「此処にいる」

 気付けば俺は、そう口にしていた。

「ずっと待ってる。待ってたんだ。最終話が読めるのを、ずっと。お前、最後に何て言ったか覚えてるか? あの言葉を信じて、七年だぞ。お前にとってはたいしたことない時間かも知れないけど、俺には長かった。俺は本気で待ってたんだ」

 嘘でもたくさんのファンが待っているだとか、もっと気の利いたことを言えたらと言ってから後悔したが、もう遅い。一度溢れた言葉は止める術を忘れたかのように、あとからあとから零れて止まない。
 掘り当てられた温泉というのはこんな気持ちなんだろうか。自分の意志では勢いを止めることが出来ない。この熱が、傍にいるものを傷つけるかも知れなくても。胸の奥に押し留めていたものが噴き上がって、宗介を巻き込んで降り注ぐ。

「急にお前の物語へのはしごが外されたときの、俺の気持ちがわかるか?」

 ふと我に返ったとき、宗介は俺を真っ直ぐ見つめたまま、呆けたような表情で涙を流していた。泣いているというより、ただ涙が目から溢れているといった顔だ。

「……宗介?」

 目の前で手をひらひら振ると、宗介はハッとなって手の甲で目元を擦った。其処で初めて自分が泣いていることに気付いたらしく「あれ」とか「ごめん、なんで」とか要領を得ない単語をばらまいている。

「悪い、言いすぎた。お前の事情も聞かないで……」

 なにか理由があって書けなくなったとか、そういう事情があったかも知れないのを失念していたことに気付いて謝ると、宗介はふるふると首を振った。

「ううん、うれしいんだ。もう皆、僕の作品なんか忘れただろうと思ってたから……君が来るまで、向こうでは七年経ってたなんて知らなかったんだけどね」
「浦島太郎じゃないか」
「ふふ。本当にね」

 宗介の体感では精々半年くらいで、それでももう誰も待っていないだろうと思っていたらしい。流行に乗っかる形で連載をもぎ取った異世界ファンタジーだから、その波を降りたら次はないと誰よりも宗介自身が理解していた。
 七年は長い。戻ったところで、受け入れてくれる出版社があるとも思えない。紙の高騰。次々現れる若い才能。目まぐるしく移り変わる流行。世の中の全てが、宗介の世界を押し流してしまうとしても。それでも。

「でも俺は、やっぱりお前の書く話が読みたい」

 なにがあってこの夢みたいな世界に来たのか、俺は知らない。聞いてない。だから俺は、俺の事情を話すことしか出来ない。
 一方的で乱暴な俺の言葉を受け止めると、宗介は椅子の傍に置いていたトランクを開き、中から原稿用紙の束を取り出して俺に差し出した。まるで作家が編集担当者に完成原稿を提出するかのような仕草で。

「実は、出来てるんだ。校正はしてないから、誤字とかひどいと思うけど」

 照れくさそうに笑いながら言う宗介の顔と、テーブルの上の原稿を見比べる。
 間違いなくそれは宗介の字で、一枚目に書かれているタイトルは何度も読んだあの異世界ファンタジーのものだ。そしてその横に書き添えられているサブタイトルは、最終話に相応しい壮大な言葉が並んでいる。
 ああ、漸く彼らの冒険が終わるのだと、否応なく予感させられる詩のような言葉。

「仮に後世の吟遊詩人が主人公の冒険譚にタイトルをつけるとしたら、こんな感じになるんだろうなぁ」

 感慨深く、泣きそうになるのを誤魔化して俺がそう言うと、正面で息を飲む気配がして顔を上げた。見ればまた宗介が泣いていて、俺は今度こそ慌てて手を伸ばした。

「おま、お前、なに泣いて……」
「だって……っ」

 泣きじゃくりながらも原稿を指差す宗介。読めと言っているのかと判断した俺は、宗介を気にしつつ原稿用紙を捲った。
 冒頭一文、たったそれだけを目にした瞬間、俺の意識は懐かしい異世界に飛んだ。何処までも広がる空。爽やかな草原。荒れ狂う海。険しい山稜。鬱蒼とした森。深く果てのない洞窟。嘗て冒険してきた風景が、一気にフラッシュバックした。
 やがて主人公は、苦難を共にしてきた仲間たちと最後の戦いに挑む。次々に倒れる仲間たち。託されたものの重さを背負いながらも、必死に立ち続ける姿。
 息をするのも忘れそうなほど緊迫したシーンが続いて、続いて、そうして最後は、ボロボロになりながらも主人公の勝利で終わる。
 物語の最後は、主人公の仲間の一人、エルフの魔術師が吟遊詩人に職を変え、街の片隅で旅の様子を歌うシーンで締められていた。詩の題は、物語のサブタイトルだ。
 最後の最後でタイトルを回収するやり方は、宗介の作品では初めてのことだった。

「……やっぱ、すげーな。お前の話」

 原稿用紙の束を閉じて息を吐き、静かに呟く。言いたいことはいくらでもあるが、上手く言葉に出来る気がしない。
 宗介が物語を完成させる度に繰り返してきた、ありきたりな言葉しか出なかった。

「まさに、君が言った通りのイメージでタイトルをつけたんだ」

 さすがにいい加減泣き止んでいた宗介が、頬に涙の痕を残した顔で笑った。

「待ってたって言葉を疑っていたわけじゃないけど、でも、君がああ言ってくれて、誰よりも僕の作品を求めてくれた人が誰だったか、はっきり思い出したんだ」

 宗介は眉を下げて困ったように微笑いながら、ぽつぽつと話し始めた。
 此処へ来る前のこと。此処へ来るきっかけとなった出来事を。
 商業デビューしてから処女作が十万部売れて、続編も出て、俺の目には順風満帆に見えていたのに。宗介に限った話ではないのかも知れないが、作家って人種は繊細なヤツが多くて。百の応援があっても一の中傷に落ち込んだりするものらしく。宗介も例に漏れず、一の心ない声にずっと悩まされていた。
 表ではファンのようなことを言っておきながら、裏で酷評を超える中傷をしている人がいたのだ。

「……誰も、本気で僕の作品が好きなわけじゃないって思ってしまった。応援の声も確かにあったのに、全部嘘に見えてしまって、怖くて……気付いたら、此処に」

 この世界は優しくて穏やかで、誰も宗介を傷つけない。代わりに誰も宗介を心から切望することもない。何処までも平坦で静かな世界だ。

「なにもかも嫌になったはずなのに、どうしてかこの話だけは諦められなくてね……もしかしたら、君に読ませるためだったのかも。だってもう、君以外に僕を覚えてる人なんて……」

 自嘲の笑みを浮かべる宗介が痛々しくて、俺はデコピンをした。

「いたっ」
「ばーか」

 悪戯が成功した顔で言うと、宗介は目を瞬かせてから、へにゃりと笑った。
 その顔が一瞬ブレて、ノイズが走ったように見え、俺は目を軽く擦った。

「……ああ、そろそろ時間かな。長居させてごめん。その原稿は君にあげるよ」
「えっ、なんだよ、急に」

 ノイズが濃くなる。
 宗介は目の前にいるのに、まるで画面越しに見ているかのように景色が歪む。

「好きにしていいよ。君だけのものにしても、何処かに持ち込んでも、自由に」
「何の話……ていうか、お前も一緒に戻るんだろ!?」

 宗介は目を閉じて静かに首を振った。
 椅子ごと後ろに引っ張られるような感覚がして、思わず手を伸ばす。宗介は、俺の手を一度だけ握って、すぐに離した。急に胸を寂寥が満たす。あんなに懐かしかった時間が、遠くなっていく。

「ありがとう。さよなら、青葉」

 最後に見た宗介の顔は、泣いているのに笑っていた。


 * * *


 あのあと俺は、病院で目を覚ました。
 何でも無断欠勤を訝しんで同僚が大家と一緒に部屋を覗いたら死んだように眠っている俺がいたらしい。それから三日間目を覚まさなかったというのだから驚いた。
 やはり、向こうと此方では時間の流れが違ったようだ。アイツと話したのはほんの数時間だったのに。
 もののついでに湯河原温泉を検索したけれど、当然あんな異世界ではなかったし、着ぐるみで町おこしなんてイベントもやっていなかった。

 いまでも、あれは夢だったのかも知れないと思うことがある。手元にアイツの字がびっしり刻まれた原稿用紙がなければ、かも知れないでは済まなかったと思う。
 いくつかの検査を経て家に帰ったら、テーブルの上に原稿用紙の束があって、俺は夢だけど夢じゃなかったのだと確信したのだ。
 この原稿は、落ち着いたらPDF化して宗介の名で出版社に送ろうと思う。
 向こうがどうするかは俺が関われることじゃないし、他人の出来ることといったらそれくらいだ。

 物語は結末を迎えた。
 異郷の夢は、あれから二度と見なくなった。
 俺に異世界への扉を開いてくれていたのは、いつだって宗介だったから。



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