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0305おめでとう




今朝は、やけに目覚めの良い朝だった。
もしかしたら、何か良いことが起こるかもしれない。例えば、あのラケットをもう一度握れるとか。
「…まさかね」
前向きなのか、後ろ向きなのか。よく分からない自分を少しせせら笑うように口を緩める。
天井を見上げると、今日も染み一つ無い白さがのし掛かってくるみたいだった。
やっぱり、俺には「良いこと」なんて似合わないのかもしれない。
入院してから、何日が経ったんだろう。最早日付の感覚がない。夏休みにも生じるこの現象。そんなものが、たまらなく悲しい。

すると突然病室の戸がノックされ、どんどん深みにはまっていく思考へ水を差した。
はっとしてその方向を向くと、入ってきたのは看護師だった。
特に何を期待したわけでもないが、落胆はあった。そうだ、欲を言うなら蓮二が良い。

カーテンを開け、検温をし、去っていく。きびきびとした背中にそんな事を思った。
そしてそれは、現実へ姿を変えることとなる。




夕陽が白を金に染める頃、再び病室の戸を誰かが叩いた。
思えば、最近の新たな訪問者なんて新人の看護師くらいだ。それに、今朝のような期待も消えつつある。

「どうぞ」
外の景色を見つめたまま、ドアの向こうへ声をかける。しかし、引き戸が開かれて、姿を現した人物が窓に映った瞬間。
俺は目を見開いた。
「れ、蓮二…!!」
ばっと振り返ると、困惑気味な笑顔が俺に向けられた。
「三日振りだな、精市」
「長かったよ」
俺もつられて笑みをこぼす。
すると蓮二はパイプ椅子に腰を下ろし、手に提げていた紙袋を膝に乗せた。
目線が揃い、距離が近付いていく。彼の特有の香りが、鼻をくすぐった。
「蓮二…」
「精市?」
「あ、…」
気付いたときには、蓮二へ手を伸ばしていた。指先が触れた白い頬には、確かに温度がある。輪郭をなぞると、柔らかい肌の感触が心地良かった。
「どうかしたのか?」
「ああ、ごめん。つい」
取り繕い、笑いながら蓮二の頬に指を突き刺す。意外と面白い。
「……精市、」
蓮二は少し呆れたようにふ、と笑い、「それはそうと」と話を逸らした。
「何?」
「これを渡そうと思ってな」
そして、膝の上の紙袋から何冊もの本を取りだした。ざっと15冊はあるだろう。ハードカバーのものだったり文庫だったりと様々だが、そのどれも綺麗に保存されている。
「どうしたの、こんなに」
ベッドに並べられた本と蓮二を交互に見ながら、俺は状況を呑み込もうと必死だった。
「ああ、家から持ってきたんだ。…ほら、する事もないし外にも出れないしで暇だと、前に言っていただろう」
「…よく覚えてたね」
「そうか?先月の話だが」
「今日は何日?」
「三月五日だ」
「もう、そんなになるんだ…」
「忘れていたみたいだな」
「ずっとここにいるからね。日付の感覚が麻痺してくる」
「確かに…そうだろうな」
蓮二は肩を竦め、窓の外へ目をやった。俺は、一番近くにあった本を手に取る。少し厚い表紙には、明朝体で題名が書かれていた。植物の名前にも思えたが、俺には読めない。
一ページだけめくり、文字の小ささに目を細めた。こんなのを読んでいて、蓮二はよく視力が落ちないものだ。
蓮二の顔をちらりと見ると、彼は俺に気付いて小首を傾げた。
「どうした?」
「よくこんなに持ってきたね。重かったでしょ」
「いや、重さは別に平気だったが、紙袋の底が抜けそうだった」
「いっぺんに持ってこなくても良かったのに」
すると蓮二は曖昧に笑い、再び話題を変えた。
「明日、弦一郎達が来るそうだ」
「じゃあ…なんで、蓮二は今日?」
「いや…大した理由はない」
「蓮二」
「ん?」
「会いたかった」
「ああ。俺も…会いたいと…」
小さな声でも、静かな病院では良く聞き取れる。
黄昏時の太陽に照らされた横顔は、普段と何ら変わらない蓮二だった。



日も暮れ、時刻は十九時を回ろうとしている。帰宅する蓮二は、明日も来ると約束して病室を出て行った。
俺は暇になり、俺は何気なく先程の本へ手を伸ばす。ベッドを占領していた本の数々は、蓮二が机上に片付けてくれていた。
それにしても、この題名は何と読むのだろう。辞書も携帯も無いから、植物の名前なのかすら調べようがない。
ふと視界に入った作者名を見て、なんとなく蓮二らしいと納得した。
そういえば最初に俺がこの本を手にした理由は、彼が最も俺の近くに置いたからだった。確証はないけれど、俺にこれを読ませたかったのだろう。
そうすると変な意地が出てきて、思い通りにはなるまいと思ってしまう。この本を机に置こうとした、そのとき。

「あっ…!」
声をあげた時には遅かった。バサッと音を立て、本が床に落ちる。

「……ん?」
下へ手を伸ばして拾い上げると、本に挟まっていたであろう白い紙がはみ出ているのに気付いた。
疑問に思い、そのページを開く。栞なら、動かさない方が良いかもしれない。
「蓮二、……」
挟まっていた紙を目にした俺は、思わずそう呟いた。
そうか、これを見せたかったのか。
蓮二が意図的に入れたと思しき紙は、栞ではなく「誕生日おめでとう」と書かれた小さなカードだった。
それを手に取ると、自然と口元が緩むのを感じた。
どうしよう、たまらなく嬉しい。
「……やってくれるじゃないか」
もしかしたら、今までで一番嬉しいかもしれない。
じわじわと涙腺が緩み始めて、視界が覚束なくなってくる。
日付は三月五日、夜の出来事だった。


end




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