私は嫌な女だね、そう彼女は呟いた。

家康が秀吉の死後、ねねと会うのはこれが初めてである。彼女はいつも戦場で着ているような忍服でもなければ、普段好んできた華やかな小袖でも無かった。真っ黒い僧衣を着て微笑んでいる彼女は、なるほど豊臣の慈母そのものである。

「お願いがあってね。」

今から始まる合戦のことだろうかと家康は考えていた。豊臣を潰さないでくれ、三成を殺さないでくれ、合戦を起こさないでくれ、どれも想像に足りる問いだ。聞いて貰えないかな、ねねは首を傾げてねだる。彼女のこういった時折見せる女らしさは昔から変わらない。時には媚びるような仕草もするが、どうもそれは無意識らしい。あのいつもは勝ち気な、母親らしさとの差が可愛いんじゃないか、秀吉が笑って呟いたことを家康は今でも覚えている。なんですかな、家康は静かに聞く。どうも女らしく体をしならせ、唇を尖らすねねは苦手だった。

「泰平の世を築いて頂戴ね。」

ゆっくりとそうねねは言った。ああ、彼女はすべてわかってるのだ。これから家康が起こす争いもその先の豊臣も。見通した上で家康には天下泰平を頼んでいる。そもそも、天下泰平を望んでいるのは彼女の夫である秀吉だった。ねねの心を捕らえているのは豊臣の家でもなく、子飼い達でもない。あの人しか、いないのだ。必ず成し遂げますとも、家康は息を吐きながら返答する。それはずっと家康の悲願だったのだ。しかも、天下統一ができる人物であった信長や秀吉は死んでしまった。三成、毛利、馬鹿にするな。自分以外に誰が天下を統一するというのだ。

「家康殿だけは、いつだって先に進むことができるんだね。」

その言葉が母から受けたような気がして、家康の口は自然と緩んだ。おねね様には一生敵いそうにありませんなぁ。まるで母親のようで、と家康は幼少の時代に亡き母と自分には接触が無かったことを思い出した。

「私は母親には成れなかったよ。」

それは実の子がおらず、そして今まさに育てた子を殺そうとしている母親の言葉だった。この女性はこんなにも美しい顔で子を殺そうとしているのかと思うとぞっとした。

「私が守ってきたものは、砂上の楼閣、一寸の光だよ。私には全部愛しいものばかりだけど、手を離すとすぐに壊れてしまってね。」

だから何も残らないんだねとねねは寂しそうに笑った。

「秀吉殿のことが、とても好きだったんですな。」

そう言うとねねは目を大きく開けてうん、と頷いた。

「あんなに好きになった人はいないよ。私の心はあの人に未だに奪われたままなんだよ。」

ふふ、とねねは嬉しそうに笑った。

「だから、私はこんなにも醜いんだね。」

寂しそうに笑うねねを家康は嫌いになれなかった。彼女は自分の感情で豊臣を切り捨てている。家康には穏やかな嫉妬しか見ることができなかったが、ねねの心はもっと淀んでいるのだろう。

「私は女性らしいおねね様も好きですよ。」

家康殿は優しいね、そう言ってまたねねが笑うのを見て、家康はこの人の最後の安らかな祈りを聞き遂げようと、やはり穏やかに笑ったのだ。





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