▼ あなたの心音を知った日
耳を塞いでも、音は俺を苛む。
常に俺は音に苛まれる。朝も昼も夜も、世界は余りにうるさ過ぎた。
都会なんか最悪だ。音、音、音。音の嵐は俺を追い詰めようとするかのように止むことを知らない。常に爆音で鳴り響く世界。
「機嫌悪いね、寝れない?」
問題ばかり起こす俺を見かね一龍が付けた、何人目かの教育係だとかいう男がロウソクの薄明かりに照らしていた分厚い本から視線を上げて微笑む。
「耳は制御しにくいだろうね。人の耳は音を勝手に拾うから」
「…あんたが言ってる報告も、向こうの職員たちの陰口も全部な」
「おや、それは困った」
私は君の気に触ることを言っていたかな、と白々しくメイは言う。ああ、白々しい。
聞いていた程じゃない、いい子ですよ、なんて、一龍に取り入ろうとする魂胆が見え透いていて反吐が出る。昼間はまた暴れた俺に辟易していたくせに。
「寝れないなら…そうだね、本でも読む?」
「…いらね」
「おや、残念」
心拍も血圧も変わらない。嘘はついていないのか、嘘にもならない軽口か。平常心のままメイはにこりと微笑み本に栞を挟み椅子を引いた。
「じゃあこうしよう」
そうして伸ばされた腕に身構えれば、ベッドがぎしりと小さく軋む。
俯せに、顔だけメイに向けていた俺にまっすぐ伸ばされた両手。頬をかすめ伸ばされた腕は、そのまま優しく俺の耳を覆う。
世界を埋め尽くす音が、メイの脈音に遮られる。メイの声がフィルターを一枚噛ませたように微かに篭って響いた。
「俺の手はね、魔法が使えるんだ」
嘘だ。
「俺の手は音を遮るんだよ、ゼブラ。君を邪魔する音はもう聞こえない」
嘘だ。
真っ赤なウソだというのに、こいつは心音すら嘘をつくらしい。乱れない心音。それとも本気で言っているのか。そんなはずは無かった、まだ世界は騒音で溢れている。
だけれどその騒音の中で一定に刻まれる脈音だけが、切り取ったように際立つ。
「ほら、これなら寝られるだろう?」
馬鹿言え、てめぇの脈音が煩くて寝れねぇよ。そう言い返そうとした時、そのまま枕に頭を押し付けられ無理やり黙らされた。
しぶしぶされるがままになりながら、変わらず見下ろしてくるメイを睨むように見上げる。ゆっくりとした心音は、どちらかと言えばリラックスしているようだ。
そのうち疲れて止めるか、寝ない俺に諦めるだろうと踏んでいた。だけれど頬の下敷きになった硬い手のひらの感覚と、ゆっくり響く秒針の音に合わせる様に規則的に脈打つ心音を聞いていると、気がつかない間に意識は落ちていて、気がつけば朝だった。再び溢れかえる騒音。メイの姿は無かった。
こんな音の中で日が登りきるまで寝たのはひどく久々で、寝すぎだとでもいうように背中がばきりと音を立てる。自分でもひどく衝撃だった。寝ぼける頭のまま枕を抱きしめるようにベッドに転がるが、二度寝はとても出来そうにない。
「ええ、いい子ですよ」
喧騒にまぎれるメイの声を鼓膜が拾う。その声に耳をそばだてると、電話のようで相手の声は聞き取りにくい。
「まだ寝てます。はは、相変わらずやんちゃは過ぎますけど」
可愛いもんですよ、とメイの柔らかな声。
こいつ、本気で言っているのかと寝ぼける頭で疑うが心音までは聞こえない。ああだけど、メイは心音すら嘘をつくから当てにならないと昨夜学習したばかりだ。
他愛の無い会話を進めるメイから無理矢理鼓膜を引き戻し、昨夜メイにされたように両耳を手のひらで塞ぐ。喧騒に、一際煩い自身の鼓動が追加される。
ヘッドホンや耳栓なんて意味は無かった。それでも耳は音を拾うのだ。
もうちょっとしたら、起きて、修行だ。
腹減った。もぞりと身じろげばシーツがシワを刻む。遠くで俺を呼ぶ声がする。
「ゼブラ、ゼブラ、起きた?」
「ん」
「起きたら食堂へおいで、ご飯ができてるよ」
「…ん」
手を耳から離し、ベッドから落ちるように起きる。
起きて、飯食って、修行して。
あと数日もすればあいつも愛想を尽かしていい子だなんて言えなくなるだろうから、それまで嘘に騙されてやるのもいい。
今日も世界は騒音で溢れている。
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