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▼ あさつゆ

「せっかく同盟組んだんだ。退路ぐらいは開いてあげるからさ、上手く逃げてよね」

戦の気配を避けながら、疲れたように猿が言った。

牢近くの木陰に潜み、慌ただしく聞こえる兵士の怒声を意識の外に追いやるように猿はひとつ大きく息を吐いた。疲れたように、と言ったが、語弊がある。心労で死にそうだと嘆いた言葉は冗談でも軽口でもなく、こいつはこいつで余程背に抱え込んでいるらしかった。

ぽつりと、懺悔のように猿が愚痴を零した。

「見つけたのが天女だったら、多分殺してた」

牢屋で俺を見つけた時の剣幕を見れば、何をいまさらと思わず笑ってしまいそうな懺悔だ。

「あんたなら分かるだろ。真田は…旦那は恐らく、もう駄目だ。信頼を損ねすぎた。せめて目立たないように隠蔽するのも限界でさ、御館様が許しても、他の家臣が許さない」

ひとつしくじれば足元を掬われる戦乱の世で、それは道理というものだろう。天女と甲斐の虎との間で悩み大人しくしていられる間はまだ猿の手腕でどうにかできただろうが、一家臣の立場でこうも暴走されれば挽回は難しかろう。もしかすると、真田家中で俺の知らない諍いが起こっているのかもしれない。果たしてこの戦で松永の首を取ったとしても、釣り合いが取れるかどうか。

「今の旦那に、俺の声なんか聞こえちゃいないんだ」

くしゃりと、髪を乱し頭を抱え込むように猿が目元を覆う。

口元だけは下手くそな笑みを浮かべていたが、その肩が震えていることには気付かぬ振りをした。

「ごめん、あんたに話しても、しょうがないのは分かってるんだけど」

返す言葉を探して、結局肩を竦めるだけに留めておいた。

政宗は、まだ家臣を従える立場な分マシだったのだろう。真田はそうもいかない。信玄公が天女に心酔すれば、いっそ救われたろうに。

猿は、純真に真田幸村に仕えていたのだろうから。

「…ねぇ、あんたは…ーーーっ!」

猿の言葉を遮るように風を切った大手裏剣が、木の幹を抉り地面に突き刺さった。咄嗟に散った俺たちを追うように、苦無が射られ後を追う。

「伝説ってのは暇なのかね!まったく!!」

怒鳴り声同時に猿の手から大手裏剣が放たれ、小太郎を狙ったが躱され空を切る。その隙に、猿は俺と小太郎の間に割って入る様に身を翻した。

「もたもたすんな!逃げるよ!」

猿の声を待たずとも、俺は走り出していた。

俺は足でまといでしかなかろうに、律儀に猿は俺を背に庇いながら小太郎をいなしていた。俺の無様を目の当たりにし、戦う選択肢は端から捨てているのだろう。ただでさえ守る戦いというのはやりにくい。

重く痛む体に鞭打ちながらひた走るが、俺を逃がすつもりは無いのか時折放たれる苦無に退路が遮断される。どんどんと戦火が激しくなっていく方へと誘導されていた。

まるで貴族の狩りで追われる狐の気分だ。

「ねぇ、随分とメイにご執心じゃない。なんかあんの?」

猿が挑発する様に言った声に、振り返った先の小太郎は何も答えない。答えぬまま、その口元だけが僅かに歪んだ。打ち合わせた刃が火花とともに悲鳴を上げる。挑発に乗った小太郎に更なる追い打ちをかけるように猿が笑みを浮かべる。お世辞にも余裕のある風には見えない、引き攣った笑みではあったが。

「俺様には関係ないってか!生憎探っちまうのが性分でね!」

この隙に戦の中心部から離れてしまえばいいのに、行く先に爆弾兵が震えているのが見え足が退路を拒む。

きん、と猿の刃が弾かれる。

たたらを踏んだ猿に追い打ちをかけようと身を低くした小太郎の、どこを狙うような体力は残っていなかったが爆弾兵ごと爆弾を蹴りやった。

爆弾兵の悲鳴に猿と小太郎が飛び避けたのはほぼ同時で、しかし俺と猿は爆炎に吹き飛ばされ家屋の壁に打ち付けられ突き破っていた。

ぐぅ、と肋が軋み息が詰まる。爆発と同時に投げつけられた苦無が肩口に突き刺さっていた。

猿はどうだと辺りを伺うが、近くで咳き込む声がするものの埃と硝煙とで視界が埋められ姿が見えない。

「けほっ…ちくしょう、火薬詰めすぎだろ」

舌打ち混じりの悪態が聞こえ、ひとまず無事かと肩を撫で下ろした時だ。

「おや、また随分と愉快な客人がいらしたようだ」

反射的に飛び起き身構えた。時、硝煙から飛び出た腕が猿の首を背後から抑え込むように押し倒す。短い悲鳴が上がり、大手裏剣床に転がった。

小太郎が猿を床に抑え込み、頬を床に擦り付けながら猿が小さく呻く。

硝煙を抜けたその先で悠然とその光景を眺めていた男は、悪童のように楽しげに声を弾ませた。

「ははは、苛烈苛烈。郷は実に優秀な忍だよ」

「さ、佐助…!」

見やった先には松永と、松永に腕を掴まれ歩く天女がいた。天女はいかにも泣き腫らした目と青白い顔で、震えながら佐助と小太郎を見つめていた。

「…旦那…」

しかしなによりも猿の目に写ったのは、その奥で倒れ込む赤い衣装だったようで。

「旦那!なん…ぐっ!」

怒鳴った猿を、小太郎が容赦なく締め上げた。

痛みにのたうつ猿に、天女がわかりやすく肩を跳ねさせる。

「や、やめて!やめてよ!!」

松永の袖に縋り付くように懇願する悲鳴。

はらりと頬を濡らした涙。

青ざめた滑らかな頬。

だがそれらは松永にはどうとも映らずにいるようで、松永は変わらず悪童じみた笑みで猿を見る。

構えたまま、なんとか活路を見出そうとする頭の端で殺し損ねた心がとうとうこんな所でまで顔を出して駄々を捏ねた。俺も叫んで、泣いて喚いて、お前のせいでと匙を投げてしまいたかった。

ぎちりと、噛み締めた歯が削れる。小太郎はさして天女にも、松永にも興味はなさげに猿を抑え込むことに徹している。その下で猿は苦悶の表情で真田を見つめ、俺を見た。未だ肩口に刺さっていた苦無を犬が噛みつくように抜き取れば、堰き止められていた血が噴き出し痛みに脂汗がにじむ。天女が松永に泣きついて、真田がわずかに呻き声をあげた。

「…!!」

俺が地を蹴るのと、小太郎が切っ先を俺に向けたのは一拍の間があった。

「…っ、旦那!!」

拘束が弱まると同時に猿は真田へと飛ぶように駆け寄り、抱え、ちらりと俺を見る。僅かな時間を稼ぐ攻防、窮余の一策にもさして足掻けず小太郎に抑え込まれた俺に瞬くほどの間の躊躇を浮かべ、しかし真田を抱えて消えた。

それに、ただ何とも言えぬ苦笑が浮かんだ俺を見下ろしていた松永が興味深そうに俺を覗き込む。

「なるほど、面白い忍だ。風魔が褒美に選ぶのも頷けたよ」

「………」

「なぁに、そう警戒せぬとも悪いようにはしない。私はね」

俺を抑え込む背後から、存外優しく、割れ物でも扱うかのような手つきで風魔の手が頬に伸びた。手袋越しの指先が頬を撫で、耳元の傷をなぞり、耳元で僅かな呼気が鼓膜を揺らし

ーーー暗転。












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