▼ 深海の貝
時々、無性に、寂しくなる時がある。
それはなだめすかして誤魔化せているうちはいいのだけれど、そうしているうちに段々と手に負えなくなって、終いには寝袋の中でダンゴムシのように膝を抱えたまま消えたくなるほど寂しさに一人埋もれてしまう瞬間がある。
どこの誰だか知らないが、昔の誰かが言ったそうだ。
人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。
なんとも曖昧で論理性に欠けるとは思うが、言い得て妙だとも確かに思う。
プルル、と無機質な呼び出し音が受話器越しに二度響き、がちゃりと取った先では愛想のいい受付の声がなんとも軽やかに薄っぺらく媚を売った。
「……メイくんは、これるか」
なんともまぁ、合理性に欠ける、くだらない話だと思う。
「ショータさん」
じぃ、と音を立てて緩く解かれる寝袋の拘束。そこから子供のように両手を突き出せば、ひやりと外気に冷やされた腕がメイの背を掴むように捉えた。
「ベッドに行きましょうか、流石に寝袋じゃ狭いや」
人当たりのいい営業スマイルを浮かべて、細身に見えて存外力強い腕がひょいと自身を抱え上げる。
まるで割れ物を扱うように、柔らかな動作でそっと下ろされたベッドが軋む。白いシーツがシワを刻み、覆い被さるようにメイもまたベッドに乗り上げた。
その緩慢な動作を急かすように、襟元を掴み強引に引き寄せる。
「今日はまた随分、積極的ですね?俺に会えなくて寂しかったですか?」
喉の奥で転がすような、からかう様な声音が不思議と耳に心地いい。しかしそれに無視を決め込んで、その肩口に額を押し付けた。一方的な要求に、メイはただ笑ってつむじに頬を寄せる。ふわりと鼻をくすぐったのは、甘い香水の匂いだ。
「今日は朝まで居れますけど、どうしますか」
「なら、そうしてくれ」
「へへ、ショータさんと朝までいれるの、嬉しいなぁ」
金の対価としての甘い睦言に耳を塞ぐ代わりに、目を閉じる。
悪夢に等しい睦言だと自身を戒めながらなお、その甘さを求める卑しさが情けなかった。
当たり前のように、手馴れた動作で抱きしめられる体。その温もりに、飢えに似た寂しさがじわりと満たされていくのが分かった。
楽な客だろうと思う。
派遣型の風俗を利用しているはずなのに、求めるのはこうして、子供のように縋りつくだけ。それとも勝手の違う客に面倒だと思っているだろうか。
人当たりのいい笑みの裏を読むのは億劫で、早々に思考から目を逸らした。
乱れた髪に指を差し込み、ゆるゆると撫でられる頭に肩の力が抜けていく。細く息を吐き、メイの腕に体を預けるとメイの腕はより強くその体を抱き寄せた。
「ショータさんって意外と、子供体温ですよね」
「そうか」
「うん、いー匂いするし、温かいしで、こっちまで安心する」
「それは……よかったよ」
まるで気心しれた相手にする様に、メイは頬を額に寄せる。間接照明の薄明かりがいやに俗世地味て感じて、なんだか馬鹿らしくなる自分がいることに気がついた。
この上なくくだらない、生産性のない話だ。
薄手の毛布がまるでシェルターのように世間からふたりを覆い隠し、二人の呼吸と脈音とベッドの軋む音が空間を支配する。
まぶたを下ろした暗闇の中で、埋もれてしまいそうな寂しさから逃げるように縋る腕に力を込めた。
「ちょっと苦しいよ、ショータさん」
そう笑いながら苦しいぐらいに抱き締め返す腕は金さえ払えば抱き締め返してくれるけれど、いつまでこんな誤魔化しが通用するのだろうか。
自身が財布の中から引き出した札がメイの手中に収まる様を目で追って、メイの営業スマイルをなぞるように視線を上げた。
「じゃあ、また、呼んでくれると嬉しいなぁ」
札を差し出した手を取って、メイは手のひらにキスを一つ。
朝日が差し込む窓際で、確かに寂しさは薄まったのだけれど、代わりに積もった虚しさに一人息を吹きかけた。
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