人混みに紛れて、見知った後ろ姿を見かけた。まさかと思った。それでも気が付いたときには人混みをかき分けその姿を追っていた。待て、待ってくれ。必死で追いかけたそれに手を伸ばせば、まるでその手をすり抜けるようにコートの裾がはためく。
「っ、グレイ中将!」
「……マグマ小僧?」
振り向いた、しまった、とでも言いたげな驚いた顔は間違いなく彼だった。死んだと思っていた、敬愛する上司だった。
何で生きてるんですか、何をしてたんですか、どこに行ってたんですか、驚きと混乱に思考が埋め尽くされ、呼吸も忘れてその顔を見た。傷が増えている。皺も増えている。昔の無邪気さも剣呑さもなりを潜めた初老の顔。
何を言えばいいのか、何が言いたいのかすらわからなくなって気が付けば拳を振り上げていた。驚いた顔。制止の声が聞こえる。待て?まてるわけがあるか。
わしを、おいていきやがって。
拳がその頬目掛けて振り下ろされる。がつ、と皮膚と筋肉と骨に伝わった衝撃にぱちりと目が開いて、見慣れた白い天井を見上げた。
少しばかり熱を持つ拳。殴りつけたのは、ベッドサイドに置いていたテーブルだった。
無残に壊れたテーブルを見て殴ったのが壁でなくて良かったと、鉛のように思い体を起こす。
「……くだらん夢じゃあ」
鈍痛を覚える頭を抑え、出勤時間が迫っているとベッドから這いずり出た。
夢を振り切るように顔を洗い、身なりを整え気持ちばかりの朝食を支度し味気ないそれをかきこむ。口に放り込み、租借し、飲み込む。いつもよりも雑にその工程を繰り返し、ちらりと見やった時計の針にコーヒーを流し込んだ。
あまり、気分が乗らない。
卓上に転がしてあった葉巻を指先で拾い上げ、ふわりと漂った香りに意識を向ける。彼は葉巻を好んで吸っているようには見えなかったけれど、何故かいつも葉巻の香りがした。
葉巻を口に含み、火で炙ればくゆる紫煙と強まる香り。
一度徐にその煙を口内で転がして、玄関先に掛けてあった帽子をかぶりコートを羽織る。靴を履き開いた扉から差し込む日差しに目を細めれば、胸中に反して広がる快晴。
先の戦争で殉職者の中に名を連ねた彼は、死体すらも出てこなかった。故に聞き分けのない子供のような夢を見てしまうのか。一兵卒のころから何かと自身を気にかけてくれていた気のいい上司。海軍内で、己をマグマ小僧などとふざけた呼び方をするのは彼だけだった。そう呼ばれることを妥協し甘んじたのもまた、彼だけだった。
淡いようで、苦々しい過去の記憶。
紫煙の苦みをしっかりと味わって、それを振り切るように風を切って歩いた。振りきれぬ、記憶の断片。忘れたくない、の間違いだろうか。匂いというのは記憶の中で特に忘れがたいと聞く。
彼を脳に刻み込む様に、彼の匂いを纏って歩く。
「マグマ小僧」
彼を追い抜き、大将という立場になってもその呼び方は変わらなかった。賑やかな人だった。動物を愛でるのが好きで、センゴクやガープやおつると茶を飲む姿をよく見かけた。
「生き急いでもしょうがないぞ、マグマ小僧」
酒は飲めぬと言っていた。部下思いで、気まぐれで、年上のくせに子供の様で、我儘なくせに甘やかすのが上手い。まるで、父の様な人だった。
嫌って、いた。
人混みの中で彼を探すのは今に始まったことじゃない。昔から、一度本部を出れば中々帰ってこようとしない彼を連れ戻すのは自身の役目だった。おかげですっかりと習慣づいてしまった、癖。
彼は見つかると、悪戯が見つかった子供の様に笑って、必ずこう言った。
「茶ァでも飲むか、マグマ小僧」
はい、と答えたことは無かったが、それはまるで免罪符の様に毎度自身に向けられて、実際に免罪符となり呆れて呈す苦言も無くしてしまった。一度ぐらい。彼が茶請けに青空を好んでいたと思い出して、仰ぎ見た快晴に紫煙を吐き捨てた。
一度ぐらい、彼と茶を飲んでみてもよかったかもしれない。
何を今更と自身の未練を鼻で笑う。彼は死んだ。それは紛れもない事実で、戦争の後始末に追われ追悼する間もなく受け入れた過去だ。彼は死んだ。彼は、死んだ。
「………」
やはり、気が乗らない。
一歩一歩歩みを進めるたびに目前に迫る海軍本部。すっかりと見慣れた仰々しい建物。そう言えば、本部の一角にあるあの傷は彼が訓練中に付けたものだ。熱中しやすかった彼はすぐに周りが見えなくなる。
「マグマ小僧」
重い足取りを引きずって、コートを風にはためかせながら紫煙を口で転がした。何を今更、感傷に浸っているのだろうか。纏わりつく葉巻の香りが、まるで。
一度足を止め、止めだと葉巻を打ち捨てた。火種を足で踏み潰し、口内に残っていた紫煙も吐き捨てる。それでも消えぬ、葉巻の香り。
止めだ。こんな感情は正義に要らぬ。
「マグマ小僧」
いくら待ったところで、帰って来やしない。いくら探したところで、見つかりやしない。ただ少し、習慣付いてしまっているだけだ。彼を探すのは己の役目で、彼を咎めるのも連れ戻すのも見張るのも、長年厄介な上司の面倒を見ていた己の役目。死してなお傍迷惑な男だ、実に。
拉げた葉巻を石畳に打ち捨てたまま、足取りを鈍らせる重りを共に打ち捨て再びコートを翻した。
「マグマ小僧」
葉巻の香りが記憶の彼を象り、共に並び歩く。
「今日もいい天気だな、美味い茶が飲めそうだ」
果たして彼は、どんな声をしていただろうか。時を追うにつれ掠れゆく記憶の断片をつなぎ止め、漸くたどり着いた海軍本部を正面から見上げ、再び葉巻を咥えようとしその手を止める。くゆる葉巻の香りに視線をおろせば、普段から葉巻を愛用する海兵の姿が見えた。
「……全くして、くだらんのう」
失ってから気付くなど、全くして。