ペティナイフの切っ先が、指先を掠め赤い筋を残した。追って感じたぴりっとした痛みに、苛立ちに任せ悪態をつく。これで、何度目だ。

「鬱陶しい」

数日前に突きつけられた、初めての拒絶だった。

ナミとロビンに食べてもらおうと飾り付けていたオレンジのガレットを見下ろし、ペティナイフを置いた。ぎゃあぎゃあといつもと変わらず賑やかな甲板に混じり聞こえる、グレイの声。拒絶を告げる以前となんら変化を見せぬそれに、どうしようもなくもやもやとした感情が騒ぎ立つ。一応、と以前常備していた絆創膏を戸棚から取出し、血の滲む指先に巻いた。後でチョッパーに貰わなければ、ストックしていた絆創膏はこれで最後だ。

拒絶される心当たりは、考えてみれば自分でも呆れるほどあった。どちらかと言えば穏やかな気性であるグレイの最近の機嫌の悪さも知っていたし、グレイは以前からサンジの女性への態度について苦言を呈していた。それでも何もしなかった自分。思えば、しばらくサンジの態度について苦言を聞いていない。悪気はなかったと言えば言い訳になるが、蔑ろにしていたのは確かに自分だ。

厨房の一角に山積みにされた根菜に紛れて、転がるかぼちゃが目に留まる。グレイが不寝番明けに、いつもリクエストしてくるかぼちゃスープ。痛みにくいのもあって、常に大目にストックしていたかぼちゃが数日前から一向に減らない。使っていないのだから、当然と言えば当然だ。

厨房の外から響く笑い声。最近はグレイの機嫌もすっかり治ったように見える。恋人を気取っていたと言っても、甘いグレイの性分に随分と胡坐を掻いていたことにようやく気付かされ、いつもなら、と再びガレットに飾るオレンジへナイフを入れた。些細な喧嘩なら、大抵グレイが折れて、ころりと無かったことになるのに。

「…オレンジが傷に沁みるな、クソ」

ため息を零しながらも華やかに盛り付け終えたガレット。窓から差し込む暖かな日差しに、ナミとロビンは甲板だろうかと伺うためにそこから表を覗きこめば、意図せず見つけたグレイの姿。筋トレに励むゾロの横で日当たりのいい場所を陣取り、騒ぐルフィ達に呆れた様に笑みを零す。

今までならば、気にも留めていなかった光景だ。

なのに、何故か。

「っ、ナーミすわーん!!」

蹴破る勢いでドアを撥ね開ければ皆の視線と、グレイの視線が注目する。いつも通りに恭しく腰を折り、ナミの袂で盛り付けたばかりのガレットを差し出せば綻ぶナミの顔。ああ、今日も実に麗しい。束の間の悦に浸れば、以前ならば呆れたようなグレイと目が合った。

だがどうだ。

「おいグレイ、重りになれ」

「えー?またかよ。コレ俺も疲れるんだけど」

興味はないと言わんばかりに向けられた背。ごついダンベルを抱え、腕立て伏せをするゾロの背に腰を下ろすグレイの姿に、チクチクとした何かが心臓を刺す。

「サンジ君?どうしたの?」

「…なんでもねぇよ、ナミさん。お味はどうだい?」

おいしいわ、と笑顔を浮かべたナミを見ても、ちくちく、刺さる何かが落ち着かない。

この数日、朝も昼も夜も、なんら変化はなかった。普通に顔を突き合せ、飯をつつき、用があれば会話もする。本当に、何一つ変化はなかった。

だけれども。

ことことと煮込まれたかぼちゃスープをかき混ぜながら、サンジは月に照らされる見張り台を窓から見上げた。

毛布に包まった小さなシルエットは船を漕ぎながら時折はっとしたように姿勢を直す。今夜は冷えるから。スープカップによそった湯気の立つ暖かなオレンジ色を見下ろして、冷える首筋にマフラーを巻いた。そして静かな甲板を通り抜け、見張り台へと歩み寄る。

「…冷めっちまった」

あとは縄梯子を登れば、いいだけだというのに。

見張り台の下で、冷ややかな風に吹かれる頬が寒い。冷えた指先が悴む。頭上高く設置された見張り台を睨むように見上げている間に、手中のかぼちゃスープすらも冷え切ってしまった。

こんなところで二の足を踏んでいても仕方がないと言うのは分かっているのだけれど、登る言い訳が思いつかない。今夜は冷えるから。冷えるから、なんだ。

冷めたかぼちゃスープと共にもう一度厨房へと戻り、かぼちゃスープを温め直すために鍋を火にかけた。ことこと、ことこと。窓から見上げた小さなシルエットは、やはり舟を漕いでは起きてを繰り返す。これ以上火にかけたら煮詰まっちまう。そう思いながら再び温まったかぼちゃスープをスープカップに注ぎ直せばくゆる温かな湯気。しかしコンロの小さな火は、サンジの指先までは温めてくれなかった。

結局大した言い訳も思い付かぬまま、再び冷めようとするかぼちゃスープに急かされ縄梯子に足を掛けた。かぼちゃスープを持ったままでは少し登り難いが、ゆっくり空へと歩み寄る。

見張り台の先に見える満点の星空が綺麗で、そういえば、共に見張り台に登っていた割に星空も満足に眺めていないと思い当たった。共に見張り台へと昇っても、ただ不寝番をするグレイの横でうとうとと船を漕いでいただけだ。本当、我ながら呆れるほどろくなことをしていない。

ぎし、と縄梯子を軋ませ、覗き込んだそこには船を漕ぐグレイの姿。

声を掛けるべきか悩み、悩んだ挙句にスープカップをグレイの前に置いた。ことりと響いたその音に舟を漕ぐのをやめたグレイと視線がかち合う。

「…さみいだろ」

寝ぼけているのか、ぼんやりとした目がサンジを見据え、何を言う訳でもなくかぼちゃスープに口付けた。温かさに幾らか綻んだ顔に、サンジの目が細まる。

「…サンジ?」

数度瞬いた瞳が、漸く覚醒したらしい。眠気を振り払った目を見据え返すことが出来ずに思わず顔を背ける。口ごもりながらも、悪かったよ、と小さく零した謝罪の言葉。

「何が」

「鬱陶しいっつうんだろ」

「…いいや」

寒かったから助かった、ともう一口口付けられたスープ。普通に会話をしているはずなのに、どこか感じる素っ気なさと妙な壁。なあ、と妙な気まずさの中掛けた声にグレイの視線が持ち上がる。

「俺のこと、嫌いになったのか」

あからさまに寄せられた眉。そんな顔をしないでくれよ、と思う反面、そうだよな、と思った。

「わざわざ聞かなきゃ、分からねぇか?」

そう言ったグレイの責めるような視線。心当たりは、クソほどある。そう言えば正面から見据えられた目が居心地悪く、自然と視線が逃げていく。

「あれから、考えてたんだ」

考えて、考えたけれどいくら考えてもレディを蔑にすることはできない。そう伝えればさして反応することも無く、だろうな、と返された言葉。続きそうもない会話に、だけど、と言い募ればグレイの視線が訝しむ色を孕んだ。

「だけど、お前がいないと落ち着かなくてしょうがねぇ」

「…そりゃ」

どうも。

たったそれだけの、短い返答。スープカップを煽り残りのかぼちゃスープを飲み干したグレイが、そのカップをサンジに突き出す。

「ごちそうさん、美味かったよ」

一向に続く気配を見せない会話に、続ける言葉も尽き果てそのカップを受け取ろうとポケットから手を抜いた時、グレイの視線がその指先を捕らえた。何を、と思うと同時に指先に巻いた絆創膏を思い出し、ひったくるようにカップを受け取り指先を隠す。

「どうしたんだ、それ」

月明かりの頼りない明かりの中、目ざとくそれを確認したらしいグレイの声がかかり、なんでもねぇよと誤魔化した。気恥ずかしいやらばつが悪いやら、段々と気落ちしていくのを自覚しながら、もう一度だけ、悪かったよと謝罪を繰り返す。

甘い顔をされればされた分だけ、甘えていた俺が悪い。

はぁ、と聞こえてきたため息にグレイの顔を見れば、久しぶりに見る、呆れたような目。

「お前、そんなに俺が好きか」

「……笑うか?」

「…いいや」

そう言ったグレイが、少し、呆れた顔から苦笑へと変わった気がした。かぼちゃスープぐらいで、とグレイがわざとらしく眉間に皺をよせ言う。かぼちゃスープで機嫌が取れる程、安上がりじゃないんだ。

「…悪かったよ」

この短時間で、何度謝罪したのだろうか。自分が悪いと自覚があるだけに、返す言葉もなかった。そんなサンジを見るグレイが、やれやれとでも言いたげな顔をする。

「それにしても、今夜は冷えてしょうがねぇ」

「グレイ?」

「ほれ」

「は…?」

「さみいんだから急げよ」

ちっ、と打たれた舌打ちにわけが分からぬまま急かされ持ち上げられた毛布の隙間に身を押し込む。

「許してねぇから」

「グレイ?」

隙間をなくすように強引に抱き寄せられた肩。暖かな温度に目を瞬けば、怒ってますと主張する眉間に寄せられた皺。悪かったよ。謝ったというのに、がつ、と鈍い音を立てた頭蓋骨が鈍い痛みを感じ、いてぇ、と小さく悲鳴を上げた。グレイに殴られるなど、初めてではないだろうか。

殴られた部分を労るように擦っていれば、グレイがその横で小さく笑う。

「…身の改め方次第では、考えてやるよ」

そう言った顔が、拒絶を告げる以前と何ら変わらぬまま柔らかく綻んで、緩く身を寄せ合った。スープカップを置いて、寒そうに握りしめたグレイの手に手を重ねれば、握り返された悴むそれ。毛布に包まっていただけ、グレイの手はサンジの手よりも温かい。

余計に寒いだけだろうにその手を振り払う事もせず、グレイがくつりと小さく笑った。

「月が綺麗だな」

見上げた空。静かな夜が、綺麗なままゆっくりと明ける。









「ナァーミさぁーん!ロビンちゅわーん!!今日はかぼちゃのパンナコッタだよぉー!!」

跪いて差し出したパンナコッタを口に運んで、可憐な笑顔を見せてくれた二人に今日も束の間の悦に浸る。ああ、コックやってて良かった!デレデレと締りのない顔をしている自覚はあるが、その締りのない顔でちらりと横を見れば、昼寝から目覚めたグレイの呆れたような視線。

「グレイもいるか?」

「…ん?」

ぎゃあぎゃあといつも通り騒がしいエキストラに気づかれぬ様に、いつもより一つ余分に作ったそれを差し出す。差し出されるがまま受け取ったグレイが、少し間を開け合点が行ったように苦笑じみた笑みを零した。ぱくんとスプーンでその口に運ばれていったパンナコッタ。

「…うまっ」

こんなの初めて食べた。そう言って驚きながらも嬉しそうな顔をしたグレイががぺろりとそれを平らげた。ごちそうさん、美味かったよ。微笑みとともに返された器を受け取り、足早に厨房へと踵を返す。

「…クソ」

ナミやロビンに言われるよりも、うっかり頬が緩んでしまったではないか。

「さぁて、夕飯の準備だ!」

許しを得るのも、時間の問題。